killer queen ②
「今日は休みなんだよ。お茶でもしない?」
カオリさんから呼び出されたのは意外だった。しかも宮前マスターには内緒でだなんて。彼と彼女の間に秘密があるなんて、それを僕が片方だけと共有するなんて。ほんの二ヶ月前には想像もしていなかったことばかりが起こる。それに順応しつつある僕自身にも驚いていた。
「暑いね」
笑いかけてくるカオリさんの下ろした長い巻き髪は黒くて艶々で、揺れる度に上品な良い香りがする。薄い唇に化粧気は無いが色味が濃い。前回お会いした時も思ったが、あのマスターとは完全に美女と野獣だった。
「今日はマスターは飲み会なの」
「あ、もしかしてバンドの?」
「そうそう!バーベキューなんだって、この暑いのに」
カオリさんと宮前マスターは婚姻関係にある。同い年だそうで、どちらも若く見えるけれど「二人合わせて100歳を超えている」という発言には笑っていいものか少しだけ迷った。
カオリさんは美しく若々しくも、年相応の可愛らしさもあるという初めて出会うタイプであった。そもそも僕は女性の知り合いなんていないに等しかったのだ、こんなことを始めるまでは。母さんかパートのおばちゃんか、食堂のおばちゃんか取引先のおばちゃんか。絵に描いたようなおばちゃんばかりだ、そんなこと口を裂かれても言えないけれど。
彼女にはロイヤルミルクティーであったりフラッペだとかよりもブラックのコーヒーが似合う。マグカップでいい、装飾は必要ない。僕はブルーベリーの飲むヨーグルトを注文した。見慣れない小さな洒落た葉っぱが乗っていて、それは食べるものではないとカオリさんが教えてくれた。白を基調とした地下にあるカフェは広くて、買い物帰りと思われる客で賑わっていた。空いた椅子に大きな紙袋が置かれている席が多い。
今日は何曜日なんだっけ。恐らく平日だろう。
「マスターの依頼のことで何か心配なことはある?」
「はい」
あるんです!あったんですよ!カオリさんのことで心配なことが。
「だから、ご連絡を頂けて助かりました」
確認できればしておきたい懸念事項があった。そう答えるとカオリさんは僕の顔をじっと見つめた。あらやだ、やっと汗がひいてきたところなのに。
見た目だけで言えば年齢不詳で、雰囲気だけで言えばもっと成熟した―――――これにはきっと語弊があるが―――—―落ち着きをカオリさんからは感じる。もっと若い頃には“大人びている”と言われる部類だったのだと想像できた。そういう人の方が年を重ねると若く見えるのだとも聞いたことがある。
「私がお願いするとしたら、1は何だと思う?」
ライブハウスで会った時も、さっきのメールでも正しく僕の名前を呼んでいたから僕の名前を知らない筈はなかったがカオリさんは僕を番号で呼ぶ。悪戯好きな猫みたい。
「2通り考えています」
「当ててみようか?」
カオリさんの色の良い唇が美しいアーチを形どる。きっとイイ女というのはこういう
カオリさんは人差し指を立てる。潤んだ黒目が大きい。人よりも何倍も長く生きているかのように澄んだ瞳は、相手に決して嘘を許さないような真っすぐさがある。そんなものすぐに見透かされてしまうような、でも鋭さとは違う何か本能的なもの。
「マスターを東京に引き留めて、ライブハウスを経営させて」
僕は「あ」と口を開けた。カオリさんはそれを見て勝者の顔をする。少女のような笑顔だ。中指も立てて、チョキになる。爪が長くないのを意外に思った。色も塗っていない。
「マスターが田舎で就職をすると言っても、何処へでもついて行くように私に言い聞かせて」
「―—————ご明察です」
全くその通りだった。どちらも正解だったことに鳥肌が立つ。参りましたと白旗を揚げようとしたその時だ。
「あっ!」
僕達のテーブルの脇で若い女の子が顔面を青く染めている。立っているのは近くのテーブルにいた、多分だが恋人同士だった。
男女とも大学生くらいだろう。おとなしそうな彼女は、雑誌を読んで研究して一生懸命オシャレをしてきたという装いに見える。初々しい垢抜けない素朴さに目を細めたくなるような可愛らしさがあった。手には雑貨屋の買い物袋が下げられていた。
彼女の持つ水が溢れそうなトレーの上でグラスが倒れている。その飲み口がカオリさんの方を向いていた。距離からすると、分量によっては少しかかったかもしれない。床には氷と落下したレモンの切れ端が力なく横たわっている。
「すみません、すみません」と頭を下げる彼女の隣に彼氏らしい男が不機嫌そうな顔で立っている。彼女の青ざめている理由はこっちにあるのではないか―――――。
どうしてトレーか買い物袋か、どちらか持ってやらないのか。僕の小さな憤りなんかはよそにカオリさんは彼女に微笑みかけた。傍らの男に一瞥をくれることなく。
「大丈夫ですよ」
推定・女子大生は落ちたレモンを拾わねばと気にかけているようだった。勿論それ以上にカオリさんへの直接の被害も気になっているように見える。実際、さっきまで無かった水滴がカオリさんの白い肩を流れていた。
女子大生は気が動転したあまりテーブルに一旦トレーを置くという動作を思い付かないようだ。連れの男は大きな溜息をついている。これ見よがしで腹が立つ。それよりも誰かが氷を踏んづけて滑るかもしれない。床に落ちた物を拾おうと、おしぼりを掴んで僕が立ち上がりかけると他の席からも椅子の動く音があった。
「大丈夫ですか」と声がする。捨てたもんじゃないな。と少しだけ心強い。
「ごめんなさい、すみませんでした」
女子大生は謝罪の言葉を繰り返しながらトレーを持ったまましゃがみ込もうとした。これはトレーを受け取った方が安全なのだろうか。二次被害を予感したところへ布巾を持った女性店員さんが小走りで近寄って来てくれた。手際よく床を拭くと「お預かりしまーす!」と彼女の持つトレーを奪い、お礼まで述べて去って行く。プロの仕事だった。
「いいのよ、お気になさらないで」
ちょうどアイスティーを浴びたい気分だったの。そんな風に続きそうな口調でカオリさんが彼女に声をかけると、肌寒いくらいに緊迫していた店内の温度が上がった。
彼女の表情が明るくなったせいもある。爆薬の敷き詰められた倉庫がグラムロックを閉じこめたレコーディングスタジオに変わったような。まあ、誰もがカオリさんの佇まいとハッピーエンドに魅了されたということだ。
「その男とは別れなさいって言ってやりたかったわ」
「言ってやれば良かったのに」
ここに立ち会ったオーディエンスは賛同したことだろう。拳を振り上げて。
「我慢したのよ」
鼻に皺を寄せるのが可愛らしかった。
********************
カオリさんとマスターが出会った時期は知らないが、彼が心を入れ替えて就職でもしてしまいライブハウスを経営しなかったとしたら。二人は出会わないルートを辿ってしまうのではないか。その場合、僕に二人を引き合わせることができるだろうか。それが一つ目の不安だった。
あるいは、ライブハウスをオープンする1998年よりも前に二人が出会っていたとする。例えば学生時代だ。マスターが卒業と同時に地元へ帰ることを選択し、それによって二人が引き裂かれるようなことになったら。これが二つ目だ。
でも今、その二番目の懸念はなんとなく取り除かれた気がする。カオリさんならきっと何を投げ出してもマスターを信じて何処へでもついていくだろう。そんな信念を持った人のように思える。マスターだってきっとカオリさんを離さない。
「そうだよ、大丈夫」
大丈夫なんだよ。カオリさんは女神の微笑みで言い切る。
運命とういうのなら必ず出会うように決まっているのだろうか。それはわからない。でもカオリさんにはそれを引き寄せる力があるように感じないこともない。会って二度目でそんなことを思うくらいだから、きっとそうだ。
「過去で待ってるよ。あっちでも、またお茶しようね」
カオリさんは、前に会った時のようにニッと笑う。やっぱり猫みたい。
「・・・はい」
過去だとしても僕にとってはこれから来る未来だ、こういった懸念はしばらく付き纏うことだろう。
でも、その度に思い出そう。
カオリさんの笑顔と「大丈夫」を。
********************
幻覚みたいな、ストップモーションに似た時間が流れる。これでカオリさんとも一旦お別れだ。お互いに今後この姿で会うことはないだろう。後ろ姿、背中で躍る長い髪。
どの一瞬も見逃さないように。胸に焼き付けて過ごすようになっていた、忘れないように、何処で会っても気が付けるように。駅の階段と時刻表、貼ってあるポスター、イベントの日時。ああ、そうか。僕は今年の花火を見ないんだな。
「夏海くん」
ホームにカオリさんの乗る電車が入って来た時だ。風で流れる黒髪を押さえて彼女は微笑む。心なしか願望か少し寂しそうに見えた。僕は返事もそぞろに唇に注目してしまう。
「買い物袋じゃなくて、ショッパーっていうのよ」
「あ、」
「じゃあね」
電車に乗った女神が窓の向こうでニッと笑う。
僕は古風な部分がもしかしたらあって、それで昭和に適性があるから選ばれたのではないか、と考えることにしようと誓う。前向きに!
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