己とは…
もう学校に行きたくない。
この街を出たい。
早く転勤しないだろうか…
何もかも、どうでも良く思えた。
ただ一つだけ、教室に置いてきた鞄が心残り。
家に帰って電話の電源を切った。
部屋に閉じこもって、締め切られたカーテンから漏れる明かりに溜め息を吐く。
制服のまま布団に
音も無い、光も無い…
唯一聞こえるのは、自分の息遣いと、心臓の音。
どのくらいそうしていたのか分からない。
息苦しさに布団から顔を出すと、締め切られたカーテンから明かりは漏れていなかった。
薄っすらと暗いその部屋で、呼吸しているあたしは一体何者なんだろう。
慰めてくれる友達も居ない。
泣きつく親も居ない。
———ピーンポーン。
音が鳴る。
———ピーンポーン。
また一つ、音が響く…
こんな時でさえ、現実は容赦なく向き合えと言う。
———ピーンポーン。
急かすように鳴り響く音…
———ピーンポーン。
鳴り止まない…
何かのセールスや勧誘なら、尚更出たくない。
———ピーンポーン。
もう、やめて……
再び布団を被った。音が聞こえないように耳を塞いだ。
うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい…
目をギュッと閉じて、静まり返った事に、安堵の息を吐く。
「…ーッ!」
不意に窓へ視線を向けた。
「…ーッ!」
やっぱり何か聞こえる。
誰かが叫んでいるような気がする。
「…ーッ!」
耳障りな音。
うるさい…
窓へ近づき、カーテンを少しだけ掴んだ。
「…ーッ!」
まだ何か言っている…
掴んでいたカーテンから、覗くように外を見た。
「…ーッ!」
目の前に広がる光景に、視界が歪んでいく…
まだ一人…
己を見捨てず居てくれる者が居るのかと…
「スズ!」
ぶわぁっと、涙が瞳に溜まる。
「こっち来い!」
勢い良く部屋を飛び出した。
そんな感じだったと思う…
靴も履かずに家を飛び出したあたしは、そこに居る兄ミヤチの胸へ、迷う事なく飛び込んだ。
「…出かける時は電話するって言ったろ?」
その優しい口調に、掴んでいた服をギュッと握り締める。
「…電源切ってんじゃねーよ」
「……」
「居留守使いやがって…」
「……」
「もうちょっとで、通報されるとこだったろうが」
フッと笑った息が耳にかかり、あたしの背中に回された腕が、ギュッと苦しいくらいに締められた。
「…ごめんッ」
兄ミヤチの胸の中で、消え入りそうな謝罪を口にしていた。
「謝んなくていい」
「……」
「スズ…」
「…ダメかと思った…」
「……」
「もう…ダメかと思った…」
「……」
「…ありがとッ」
「……」
「…うッ…」
涙の所為で
「スズ…」
兄ミヤチのやるせない思いが、聞こえた気がした。
「親父さんは?」って聞かれたから、「まだ帰って来ない」って答えると、「うちに来るか?」と、救いの手を差し伸べてくれる。
断る理由はない。返事は「行く」と、決まり切っていた。
車に乗せてもらうと、「家の鍵は閉めたか?」「忘れ物はないか?」って、父みたいな事を言うから少し可笑しかった。
「そう言えば…」
運転席から、兄ミヤチが後部座席へ目配せをする。
「何…?」
「忘れもの」
「え…?」
後部座席のシートには、
「うそ…」
唯一の心残りがあった。
「取りに行ってくれたの…?」
「あぁ」
教室に残して来てしまった、あたしの通学鞄。暗がりな車内で、はっきりと見えた。
嬉しくて…
嬉しくて…
何だか知らないけど、泣けて来た。
マンションまでの道中…やはり無音の車内で、どちらとも口を開く事はない。
あたしは窓の景色を眺め続け、マンションに着くまで兄ミヤチの方は見なかった。
マンションの入り口で、機械を操作する兄ミヤチの後ろを付いて歩く。
エレベーターに乗ってる時も、部屋の前でドアが開くのを待ってる時も、最初に訪れた日の"アイ"とのやり取りが浮かんでくるから妙に切ない…
リビングに通されて、L字型のソファーへ腰かけるように促された時、“アイ”と隣合わせに座った事を思い出した。
だけど同時に浮かんでくるのは、渡り廊下での“アイ”
あたしを捨てた“アイ”
「まさとがさ…」
隣に座りながら兄ミヤチが呟いた。
「ごめん…って、言ってた」
視線だけ兄ミヤチに向けた。
「会って話したいっ…て」
兄ミヤチがあたしを迎えに来てくれたのは、森ちゃんから何か連絡があったのだろう。
何をどう聞いたのか…
あたしがピエロだったと、嘲笑っていたのか…
「…いやだ」
「……」
「会いたくない…」
「あぁ」
「……」
「会わなくていい」
「……」
「伝えてほしいって頼まれたから、伝えただけだ」
「……」
「会わなくていい」
兄ミヤチが優しいから、涙が込み上げて来そうで俯いた。
「アイは、明日ぶっ飛ばしとく」
低いその声に驚いて視線を上げると、あたしを見て目を細めた。
「ぶっ飛ばす…の?」
「あぁ」
嘘だ…
あたしの為にそう言ってるだけ。
あんなに仲良いのに、兄ミヤチが“アイ”を傷つけるなんてありえない。
「嘘じゃねぇよ」
だけどそれがあたしに対する優しさだと分かってるから、そんな弁解は必要ない。
「あと、傷つけたの誰だ?」
「え…?」
兄ミヤチを見たら、至って真面目な顔つきで。
「アイだけ?」
念を押すように聞いてくる。
…あたしは傷ついた。
…あたしは捨てられた。
だけど、どこがで分かっていた。
これは自業自得なんだって。
“嫌”と言えなかったあたしの。
否定も肯定もしなかったあたしの。
あたしは傷ついた。
あたしは捨てられた。
そう思えば、いくらか気持ちが軽かった。
「アイは、最初から言ってたの」
ポツリ…と零れ落ちた言葉。
「あたしの事、嫌い…って」
言っていた。
“アイ”は、いつだって感情剥き出しで、偽る事なくあたしに態度で示していた。
だって、岸田ゆり子ちゃんにあんなに優しく話す“アイ”が、口が悪い奴だとは思えない。
クラスの人気者らしい“アイ”が、感じ悪い態度をとる人間だと思えない。
だから“アイ”は、初めから言葉と態度で示していた。
“おまえが嫌い”って。
あたしにきちんと示していた。
「“アイ”は、良い奴だね…」
「……」
「護摩化したり、その場しのぎの言葉は使わない」
「……」
「あたしは、」
「……」
「“アイ”が好きだったッ…」
「……」
思いを口にすると、涙が止まらない。
初めからわかっていた。
どんなに憎まれ口叩いても、胸糞悪い態度とられても、“アイ”は良い奴だって…
そんな“アイ”に、食堂であんな事を言わせてしまった。
優しい“アイ”に、渡り廊下であんな態度をとらせてしまった。
“傷ついた”のは、あたしじゃない…
「“傷つけた”のが、あたしだ…」
泣き続けるあたしに、兄ミヤチは何も言葉をくれなかった。
ただ隣に居て、夜が来るのに怯えていたのかもしれない。
このままで良いとは思ってない。
父だってもうすぐ帰って来る…いつまでも打ち
でも、出来ることなら…
このままここに居たかった。
兄ミヤチの傍を離れたくない。
だけど、夜は更ける一方で…待ってはくれない。
咄嗟に顔をあげた。
突然、兄ミヤチが立ち上がったから。
「親父さんに連絡入れとけよ」
「え?」
「帰り辛いなら、泊まればいい」
どうやらあたしは、ここに居て良いらしい。
コクンと頷いて、電話を取り出した。
父に連絡する為に。
メール画面を開いて、“彼の家に泊まります”と、文章を打ち込むあたしに、兄ミヤチが微笑んで見せた。
晩御飯をどうするか聞かれて、食欲は無いし、どうしようかと悩んでいたら、「何か買って来る」と言われたから、「何か作るよ」と、せめてものお礼と思い、提案した。
何となく想像していたけど、兄ミヤチの冷蔵庫には殆ど食材が入っていない。「こんなんで良く暮らしてるね」って真顔で言ったら、「じゃあたまに作りに来てよ」って、これまた真顔で言われたから少し反応に困った。
結局買い物に出ないと何も出来ないと分かり、歩いて数分の所にあるらしいスーパーへ買い出しに向かった。
二人で歩く夜道は凄く新鮮で、温かい空気と、兄ミヤチの存在が、あたしの心を優しく包んでくれる。
食材の費用は、当然兄ミヤチが支払ってくれて、一文無しのあたしは、腕によりをかけて料理を振る舞う事で、この御恩をお返ししようと決めていた。
買い物袋も当然の様に兄ミヤチが持ってくれて、居座ってるだけの肩身の狭いあたしは、何度か「持つの変わるよ」って声をかけたけど、恩人の兄ミヤチに当たり前に断られた。
マンションに戻り、部屋の構造の所為で見えにくいキッチンへ入らしてもらった。どう見ても使われてないだろうと思われる。凄くキレイで、凄く広くて、料理する甲斐があるなと思った。
「料理好きなのか?」とか、「いつから料理してる?」とか、兄ミヤチの質問は止まらず…正直邪魔だと思いながらも、答えてあげていた。
「母の味って、どんなの?」
そう聞いてきた時は、料理する手が思わず止まってしまった。
「どんな…だろうね」
「……」
聞かれた訳じゃない。
だけど、兄ミヤチは何となく気づいてるんじゃないかと思った。
うちが父子家庭って事に。
母の話しに触れた事をマズイと思ったのか、急に喋らなくなった兄ミヤチへ逆に聞いてみたい。
「兄ちゃんは…」
だけど
“母の味って、どんなの?”
きっと、兄ミヤチも分からないんだ。
だからあたしに尋ねたんだろう。
「何?」
「……」
その先を話さないあたしに、兄ミヤチはその先を話せと言う。
「…聞いても良いの?」
「いいよ」
調理中の手を止めて、兄ミヤチに視線を向けた。
「ほんとは…ずっと聞きたかった事がある」
「うん」
「…どうして、お母さんを選んだの?」
言ってしまった…そう思ったのは、兄ミヤチの顔が、切なそうに崩れたから。
もっと言葉を選べば良かった。
これじゃまるで…
「母親に、捨てられたくなかった」
兄ミヤチを、責めてるみたいじゃないか…
「母親に別の男が出来たのは知ってた。だから、母親が一人で出て行くって言った時、俺は捨てられるのかって思った」
「……」
「でもそんなガキくせぇ事言えねぇから、母親が可哀想だろって理由つけて、一緒に家を出た」
「……」
「まぁ実際、俺は邪魔だったけど」
岸田ゆり子ちゃんと兄ミヤチのお母さんは、付いて来た兄ミヤチを放っておく事も出来ず、とりあえず再婚相手の家に連れて行ったらしい。
養子縁組みをして、戸籍上は新しい家族の仲間入りをした。
だけどすぐに、自分は邪魔な存在なんだと…兄ミヤチは思うようになった。
だから家を出る為に、働き始めたらしい。
「岸田家に戻ろうとは思わなかったの?」
「…戻れねぇだろ」
「……」
「母親に捨てられたくなくて、俺は岸田を捨てたんだから」
「……」
「罪と罰だ」
と、兄ミヤチは言った。
己とは如何なる時も
不動でなければならない。
己とは如何なる時も
罪深き者だと心得ておかなければならない。
己の立場をわきまえ、
己の意志を曝すべからず。
「スズ」
「……」
いつの間にか伏せていた顔を上げる。
「飯食おう」
兄ミヤチは表情を和らげ、キッチンから出て行った。
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