関係

あたしと岸田ゆり子ちゃんは、「友達」と言う。


あたしと“アイ”は、「クラスメイト」と言う。



その関係は、どんな内容で決まるのか。


父と子の関係、兄と妹の関係、先輩と後輩…



様々な関係性がある中で、あたしと兄ミヤチはどうゆう関係と呼ぶのだろうか…



友達の兄なのか、学校の先輩なのか、クラスメイトの幼なじみか…




それとも――…




「仕事は仕事だ…」


そう言った兄ミヤチは、「選んでる余裕なんてなかった」と言った。



それを、兄ミヤチの思いを…岸田ゆり子ちゃんに伝えられれば、解決するんじゃないだろうか。



だけど解決した時…


あたしは、今まで通り彼女の“友達”としていれるのか…



兄との問題が解決すれば、以前の友達との関係も修復するかもしれない。


その時あたしは、彼女とどうゆう関係になっているのか…



「今日、ここに来た事、あいつは知ってんのか?」



あたしを捨てるのは、誰——…



「あたしは言ってないけど、“アイ”が言うと思う」


兄ミヤチの問いかけに、俯いたまま答えると、


「また嫌われんな…」


そう言って、静かに呟いた。



「自覚してるんだ?」


「そりゃそうだろ。気づかねぇ方がすげぇだろ」


「話せば良いじゃん」


「……」


「違う事があるなら、違うって誤解を解けば良いのに」


「……」


「嫌われたままは、嫌でしょ?」


そう言いながらお茶が入ったグラスに手を伸ばした。



「誤解なんてない」


兄ミヤチの低い声が落ちる。



グラスを持ったまま、ゴクンと喉を鳴らした。



「何も間違ってない。あいつが思ってる通りだ。真実しかない」



手が…冷たくなっていくのを感じた。



「……嫌われたままでいいの?」



その言葉に、兄ミヤチは何も答えなかった。


ただ、あたしを見て静かに微笑んだ。



「あたしは…嫌われたくない…」


「そうか」



“誰に”とは聞かず、兄ミヤチは相槌をうってくれる。



「出来れば、良い人だったなって、記憶に残って欲しいと思う…」


「うん」


「そうゆう関係が、そのまま続けば更に嬉しいと思う…」


「あぁ」


「続く…かな…」


「……」


「良い人だったな…って、記憶にすら残るか分かんないのに」


「それは、」


「……」


「どうゆう意味だ?」



聞き返して来た兄ミヤチに、あたしは首を横に振る事しか出来なかった。



静かなリビングに沈黙が流れ、持ったままのグラスを暫く見つめていた。



そんな静止を打ち破ったのは、


「電話鳴ってね?」


兄ミヤチの言葉より先に、あたしのスカートのポケットの中で震える電話だった。



着信かと思ったそれはメールで、「ただいま」と、父から帰宅の知らせだった。



「あたし帰る」


グラスを兄ミヤチに渡して立ち上がる。



「送ろうか?」


受け取ったグラスをテーブルに置きながら、兄ミヤチがあたしを見上げた。



「仕事は?」


「これから」


「……」


「まだ時間はある」



疑った訳じゃなくて、返事に迷っていただけなのに、兄ミヤチは説明するような言葉を口にした。



「送ってくれるの?」


「あぁ」


「良かった…」


「……」




本当に良かった。


あんな柄の悪そうな連中が居る駅へ、一人で戻りたくない。



部屋を出てエレベーターに乗る時、ここが5階だと知った。



マンションに入る時は色んな操作が必要だったのに、出る時は何ともスムーズで、それにも驚いた。



「え…?」


てっきり来た道を帰るのかと思えば、「こっち」と腕を引っ張られ、兄ミヤチが何故か駐車場へと向かう。



黙って連れて行かれると、ピピッと音がして、目の前にある車のライトが光った。



「乗って」


運転席のドアを開けた兄ミヤチの後ろに立つあたし。



「どこに?」


まさかこれに乗れと言うんじゃないだろうな…



突っ立ったままのあたしに、溜め息を吐いた兄ミヤチは、再びあたしの腕を引いて、助手席側に向かった。



「これ誰の?」


助手席のドアを開けた兄ミヤチへと、視線を向けた。



「俺の」


「え!?」


「早く乗れって」


「え? 免許…」


「ある」


「え!? でも確か…あたしの一つ上…」


「あぁ…俺ダブってんだ、同級生は卒業してる」


「どうゆう事!?」


「いいから乗れって」



無理矢理乗せられた訳じゃないけど、無理矢理ドアは閉められた。



「ダブってるって、どうゆう事!?」


運転席に乗り込んだ兄ミヤチへ詰め寄った。



「そのままの意味だろ」


「留年したの!?」


「そうだって言ってんだろ…」


「高校生じゃないの!?」


「留年したって高校生だろうが」


「そうじゃなくて!」



どおりで大人な雰囲気を醸し出してると思った。


“アイ”と一つしか変わらないなんて、おかしいと思ったんだ。



「一体何歳なの?」


「19になる」


「ひっ…」



思わず悲鳴が漏れた。



「…まさか、森ちゃんも…?」


「いや、まさとは2個下。正真正銘、高校2年生」



走り出した車は、大きなタイヤの大きな黒い車だった。


車の種類なんて、あたしには到底わからない。



「これって高い?」


「あぁ」


「いくら?」


「家が一軒買える」


「は!?マジで!?バカじゃないの!?」


「冗談だバカ」


「……」


「信じてんじゃねぇよ」



全然笑えない。


無音の車内は息が詰まりそうになる。



「曲…聞かないの?」


「あぁ」


「いつも?」


「聞く曲がない」


「聞く曲がない?」



意味が分からなくて、そのまま聞き返したあたしに、


「この車に、曲が入ってない」


兄ミヤチは分かり辛い説明をしてくれた。



「好きな曲を車に乗せとけば良いのに」


「だな」


「とか言って、やらなさそう」


「やらねぇんじゃねぇ。やろうと思って忘れる」


「え?」


「部屋に居る時までは覚えてる」


「どうなのそれ…」


「知らねぇよ」


「紙に書いとけば?」


「書いた事忘れそう」


「…致命的だし」


「……」


「あ、出かける時に誰かに電話してもらえば?」


「電話?」


「CD持ってマンション出るまで、通話したままなら、間違いなく忘れないでしょ」


「……」


「良くないこれ?」


「そうだな」



口元を緩めた兄ミヤチに、あたしの頬も緩んだ気がする。



「ここ、うち」



話していれば見えて来た家に、車だったらあっとゆう間の距離なんだなと思った。



「ありがと」



玄関先の門の前で停車した車。シートベルトを外しながら、兄ミヤチを見た。



「気をつけて」と言葉をくれた兄ミヤチは、ハンドルに腕を組んで乗せてた。



「目の前家だし」


「あぁ」


「気をつけなくても大丈夫」


「危険はいつも隣り合わせだと思え」


「何それ」



そう言って笑ったあたしの耳に、



「…すず?」


開くドアの音と一緒に、遠慮がちな父の声が届いた。



「あ…」


急いでドアを開ける。



「遅くなっちゃった」


近づいて来た父に、苦笑いしながら車から降りると、「だれ?」と父が運転席に視線を向けた。



それにどう答えて良いか分からない。


父が聞いてるのは、兄ミヤチの名前じゃなくて、その関係だと思ったから。



「こんばんは」


戸惑うあたしをよそに、車のエンジンを切って降りて来た兄ミヤチが、父の傍まで来て挨拶をしている。



「こんばんは」


そう返した父に、「遅くなってすみませんでした」と、兄ミヤチがゆっくりと言葉を交わす。



「宮地、ユウトって言います」


「…え?」



その言葉に衝撃を受けたのは、あたしだった。



戸惑いから漏れた声は、二人に届かなかったようで…



「…まさかとは思うけど、そのまさか…?」



父の浮ついた声に、兄ミヤチはグッと眉間に皺を作った。



困惑している。あの兄ミヤチが…この父親を前にして、困惑している。


娘のあたしでさえ、父の発する言葉の意味を理解出来ない時があるから、流石の兄ミヤチでも、困惑するのは仕方ない。



「そっかそっか…もう!すず上がってもらいなよ!」



しかも、勝手に納得して話しを進める節がある…



「あっ!ユウトくんご飯食べた?まだなら食べて行きな!」



父に背中を叩かれた兄ミヤチは、急かすように自宅へ誘導されて行った。



後を追って家に入ると、綺麗に並べられた靴が目に止まり、なかなか礼儀正しいな…と、小さく感心した。



リビングに入ると、兄ミヤチはソファーに座らされてて、珍しく父が昨日あたしが作った残り物のご飯を温めていた。



「名前…」


兄ミヤチの隣に座ったあたしは、「岸田じゃないの?」と、さっきの衝撃を口にした。



それに対して、「あぁ」と答えた兄ミヤチは、「親が離婚したから名字が変わった」と、素っ気なく教えてくれた。



ここで再び、森ちゃんが言っていた事を思い出す。


…確かに、離婚しているのは聞いていたけど、岸田ゆり子ちゃんの兄ってだけで、兄ミヤチも岸田だと思い込んでいた。



「“ミヤチ”って、名前かと思ってた」


「名前?」


「岸田ミヤチかと思ってた」



そう返したあたしに、


「勝手に人の名前変えんな」


兄ミヤチは呆れたようにあたしに視線を向けた。



「ずっと“ミヤチ”だと思ってたから、“ユウト”って言われてもしっくりこないんだけど」


「そうかよ」


「どうしよ…マジしっくりこない」


「あのな…」



コソコソ言い合っていると、「はいそこ!くっ付きすぎ!」と、キッチンから父の冷やかしが飛んで来た。



声を抑えて会話していたから、自ずと距離が縮まっていたらしい。



しかもあたしなんて、兄ミヤチの肘を掴んでいて…どんだけ必死に会話してんだって話しだ。



「お二人さーん、ご飯食べるぞー」



再び父からのお呼びがかかり、同時に立ち上がったあたし達は、六人掛けのテーブルへと移動した。



「さぁさぁ、ユウトくんはここどうぞ」


ニコニコしながら父が促したのは、あたしの隣で…そこは以前、岸田ゆり子ちゃんが座っていた場所。



「何か…すみません」


兄ミヤチが謙虚な言葉を発する。



「気にしないで食べて!」



父の言葉に、「いただきます」と手を合わせた兄ミヤチは、やっぱり岸田ゆり子ちゃんの兄だなと、思わせた。



「ところでさ、」


箸を進めてすぐ、あたしの正面に座る父が口を開いた事で、再び箸が止まる。



「2人は…いつから?」


あたしと兄ミヤチを交互に見つめ、ニヤニヤとした表情の父は、


「ねぇ、いつから?」


気持ち悪いオヤジにしか見えない。



「いつからも何も…あたし達…」


って、何て説明したら良いのだろ…



「ん?」


この気持ち悪いオヤジに、彼氏じゃないと言えば、「じゃあ何?」と聞かれるはず。



悩むあたしの横で、


「新学期始まってすぐです」


答えたのは兄ミヤチだった。



「え?て事は、すずが入学してすぐ?」


「はい」



思い込んだら突っ走ってどこまでも行く父に、2人の関係を説明出来ないあたしを見兼ねてか、兄ミヤチが出会った時の話をしてくれている。



「え、ユウトくん高校生?」


「はい。でも留年してるんで、同級生は大学1年の年です。」


「え!?」



最初こそ驚いた様子の父は、すぐに状況を理解した様で、


「だから新学期に出会える訳だ」


意外にもすんなりと納得していた。



「こうやって娘は父親から離れて行くのかね」


「今すぐにでも離れたいです」


「ごめんね?うちの娘、照れ屋で」



あたしの皮肉を笑って交わす父。



「知らない男が運転する車からすずが降りて来た時は、正直、天と地がひっくり返ったと思ったけど」


「…すみません」


「あ、いやいや、ユウトくんと話し出来て良かったよ。普通なら女の子の父親に呼び止められたら動揺するし、逃げたくなると思う。でも君は、自分から挨拶しに車から降りて来てくれた」



冗談っぽく言いながらも、真顔で話す父の言葉に、心配をかけてしまったと少し反省した。



「僕の我儘に付き合わせて悪かったね。ありがとう」



いつも能天気な父だけど、事この場に関しての行動は、考えがあっての事なんだと…父の気持ちに寄り添えた気がした。



兄ミヤチを招いての夕飯は、やっぱり父が喋り倒して終了し、



「ありがとうございました」


ゆっくりとお礼を述べた兄ミヤチを、あたしは車の前まで見送りに出た。



「送ってくれてありがとう。気をつけて」



そう言葉をかけると、兄ミヤチは助手席側のドアに寄りかかり、


「出かける時、電話してくれよ」


腕を組んで静かに語りかけた。



「なに…?」



あたしは、送ってくれてありがとうと…確かに言った。なのにどうして、電話の話になるのか。



「送ってる時、車で聞く曲の話し、したろ?」



言われてみて、その時の会話を頭に浮かべる。



「出かける時に電話して貰えば良いって、言ったろ?」



思い浮かべた会話と一致したそのセリフに、「あぁ、うん」と答えた。



「だから、俺が出かける時、電話してくれよ」



は?どうしてあたしが?と言おうとして、


「兄ちゃんの番号知らない」


選んだのは別の言葉だった。



「教える」


「……」


「言うぞ」


「…あたしがかけるの?」


「俺がかける」


「マンション出たら忘れてるくせに」


「忘れない」


「どうかなぁ」


「試してみるか?」


「何を?」



そう聞き返したら、「とりあえず番号教えるから、スーも言え」と、兄ミヤチは車のドアを開けて車内から電話を取り出した。



「あたし今持ってない」


「じゃあ、スーの番号入れて」



そう言って手渡された電話を、戸惑いながら受け取り、自分の番号を入力して、名前の覧を表示した時…



「てか、スーって何?」



あたしは兄ミヤチの電話を握り締めたまま、顔だけ上げた。



「名前だろ?」


「あたしの名前はすずです」


「俺の名前、兄ちゃんじゃねぇけど」


「そうゆう事を言う…」



あぁ言えばこうゆう奴だ…



「貸して」


不意に、手元から抜き取られた電話。



それを目で追うと、兄ミヤチが液晶画面を操作し、



「じゃあな」


「え、もう登録したの?」


言いながら車に乗り込もうとするから、少し声を張り上げて問いかける。



「ああ、またな」


エンジンをかけて、ニコッと笑うと、素早く発車してしまった。



「……」


あんな風に笑えるんだ…と、帰り際に見せた兄ミヤチの笑顔を、少しだけ羨ましく思った。



家の中に入ると、「お母さんには言ってたの!?彼氏いるの知らなかったの、父さんだけ!?」と散々騒がれて…



“彼氏じゃないよ”って、言いそびれた。



テーブルに置かれたままの食器を片付けていたら、


「すずー!鳴ってるよー」


ソファーに座った父が、あたしの電話を持ち上げて見せている。



父の元へ駆け寄ると、表示された知らない番号が目に止まった。


「あ…」


そのまま自分の部屋へ急いで移動し、通話ボタンを押す。



「も、もしもし?」


「あ、俺」


「あ、うん」



その相手が誰かなんて、すぐにわかった。



「忘れずにかけたろ?」


「え?」



兄ミヤチは得意気な声を出すけど、あたしには何の事だか分からない。



「電話するの、忘れてなかったろ?」


「あぁ…はいはい」


「出かける時は、電話してくれよ」


「あたしがかけるの?」


「俺がかける」


「あぁ、うん」


「出ろよ」


「出れたらね」


「スーが出ねぇと、曲聞けねぇままじゃん」


「そんなの、電話かける時点で思い出してよ」



そう言い返すと、兄ミヤチが電話越しで笑ったような気がした。



「じゃあもう切るな」


「うん」


「ご飯、うまかった」


「それはどうも」



一体何の連絡だったのか、良く分かっていないまま、リビングに戻った。


途中止めになっていた後片付けを再開しようと、テーブルに目を向ける。



兄ミヤチが使った食器は並べられたままの位置を変える事なく、綺麗に置かれており、食事も全て完食されていた。




———次の日の朝。


教室に入ると、これ見よがしに、“アイ”が駆け寄って来た。



「昨日おまえ大丈夫だったか?一人で帰れたか?」


「あ、昨日は…」


「やっぱな!?やっぱなぁ…だと思ったんだって!親にでも迎えに来てもらったか!?」


「いや…聞いて」


「は?何?」


「人の話しを最後まで聞いて」



苛々しながら言葉を吐き出すと、“アイ”はとりあえず口をつぐんだみたいで。



「……」


聞く姿勢に入っているらしく、あたしを見つめている。



「…あのさ、別に改めて話す事でもないんだけど…」


「はぁ!?おまえ変な間を持たせんなよ!」


「あ、ごめん」


「心配したんだぞ!ミヤッチと2人にさせた事!」


「…こ、声がでかい!」


「何もなかったか!?何かされてねぇだろうな!?」


「声がでかい!」



コイツと会話してると、自分の顔がどんどん変形しそうで怖い。



「何かある訳ないじゃん…」


「じゃあ何で俺、帰されたんだ?」


「それは…あんたが居ると話し出来ないからじゃないの…」


「はぁ?」


「…元々あたし、兄ちゃんに話したい事があって、訪ねたんだし」


「ふーん…」



納得がいかないと言うように、不機嫌に鼻を鳴らした“アイ”は、


「ゆりのとこにも行ってやってくれよ」


一瞬であたしの表情を凍らせた。



「今日行かね?」


目を輝かせる“アイ”に、あたしの心がてついていく。



「…昨日、兄ちゃんと会った事…言ってないの?」


「あぁ、今日行ったら言うつもり。何で?」



じゃあ、尚更の事…行きたくないと思ってしまう。



「別に…」


そう言って離れたあたしに、“アイ”もそのまま席に戻って行った。




…言わば、あたしに課せられた任務は、岸田ゆり子と宮地ユウト兄弟の仲を取り持つ事…



どちらに対しても平等でいなきゃいけない立場なのに…


少なからずあたしは、兄ミヤチを贔屓目ひいきめで見ている。



だけど小心者だから、岸田ゆり子ちゃんにその事実を知らせたくない。


今ある関係が変わってしまうのが怖い。



今日1日、口を開けば「ゆりのとこ行くよな?」って聞いて来る“アイ”に、コイツマジで鬱陶しいなと思い始めていた。



「今日が無理なら明日は?」


しつこく聞いて来るから、これが永遠に続く気がしてならず…



「今日行く…」


「マジで!?」


「うん」


「ゆり、喜ぶわ!」



それはどうかな…と、思う。

おまえの方が嬉しそうだぞ…と、思う。



「じゃあこのまま一緒に行こうぜ」


そう行って歩き出した“アイ”に、色んな意味で安堵の溜め息が漏れた。



一つは、永遠に続きそうな“アイ”からの誘いを、一旦止める事が出来たから。



もう一つは………



「あっヨウタ!おまえ帰んの?」



この渡り廊下を、一人で歩かなくていいから。



「いや、これからゆりのとこ行く」



話しかけて来た森ちゃんに、“アイ”が近寄って行くから…あたしも立ち止まるべきか、先に靴箱へ行こうかと悩む。



「へー、すーちゃんと?」



だけど森ちゃんがあたしに気づいて視線を合わせて来たから、自然と立ち止まってしまった。



「どうも…」


軽く会釈しながら答えて、辺りに視線を向けた。



「こいつが行けば、ゆり喜ぶと思うし」


「そうだな」


「あ、森ちゃんも行く?」


「俺はいいよ」



2人の会話が耳に届く中で、あたしはその少し後ろに居る先輩達に視線を定めた。



「何でだよ、森ちゃんも行けば良いのに」


「俺が行ってどうすんだよ」



その先輩達に囲まれるようにして、兄ミヤチが煙草を吸っている。



楽しそうに話をする“アイ”と森ちゃんの会話は、もう聞こえなかった。



まだ何か話てるみたいだけど、あたしの意識は、兄ミヤチに全集中していた。




“でんわする”



煙草を持っていない方の手で電話を持ち、それを耳に当ててあたしを見た兄ミヤチは、確かにそう口を動かした。




「すず!久しぶりだね!」


岸田家に着いてすぐ、現れた岸田ゆり子ちゃんは、笑顔で駆け寄って来た。



「久しぶり」


自分の顔が引き攣ってないか、うまく笑えていたか…そればかり気になって。



「最近何してた?」


アイスコーヒーを出してくれた彼女に、自分でもわかるぐらい苦笑いが浮かんだ。



「ミヤッチのとこ行った」


「アイには聞いてないから」



「話に入ってこないで」と、“アイ”を一括した彼女にホッとしたあたしは、どこまでも最低な人間なのかもしれない。



「まだ学校、来ないの?」


そんな言葉すら吐いて出る。



「うん…」


「そっか」



兄ミヤチとの関係が修復されれば、彼女はまた学校に来るのだろうか…



「つーかよ、」


しんみりとしてしまった空気の中で、“アイ”の一言がやけに耳につく。



あたし達は同時に“アイ”へ視線を向けた。



「おまえさ、コーヒー飲めねぇんだろ?」


その目はあたしを見ていて、何の事を言ってるのかはすぐに分かる。



「え?なに?」


当然ながら話を理解できていない岸田ゆり子ちゃんは、惚けた声を出した。



「コイツさ、コーヒー苦手らしいよ」


「あ、すずが?」


「お茶ねぇの?」



岸田ゆり子ちゃんはあたしを見て、“アイ”は岸田ゆり子ちゃんを見て、あたしはただ、二人を交互に見つめる。



「ごめん、うちコーヒーしかなくて…」


申し訳なさそうに眉を下げた彼女に、「え?気にしないで」と、一生懸命笑顔を作った。



そしてグラスに口づけ、一口飲みながら“アイ”へ睨みを向けた。



…ほんっとに、一々余計な事を言う奴だ。



「すずがコーヒー苦手だったなんて知らなかった…」


「そうだよね…」


「何でアイが知ってんの?」



薄く笑ったあたしから、“アイ”へ視線を向ける岸田ゆり子ちゃんに、あたしの視線は泳ぎ出す。



「何でって、」



“アイ”が兄ミヤチとあたしが会った事実を、口にする。



彼女の知らないとこで、あたし達が会っていたなんて知ったら、きっと…いや、絶対良い気はしないと思う。



何しに行ったのか、何を話したのか、そんなたぐいの事を、まるで取り調べのように彼女は聞いてくるに決まってる。




それに………



“俺、また嫌われんな…”



そう言った兄ミヤチの横顔が、ふと脳裏を過ぎり、彼女に知られたくない…とゆう思いが一気に焦りとなり、あたしの心臓が大きく跳ねた。



「ん…?誰だろ」



そう思っていた矢先、リビングにインターホンの音が鳴り響いた。


首をかしげた岸田ゆり子ちゃんは「ちょっとごめん…」と立ち上がる。



玄関へ向かう彼女がリビングのドアをガチャンと閉めたのを確認して、あたしは素早く“アイ”へ視線を向けた。



「言わないで!」


「は?」



慌てながらも声を抑えて話すあたしに、“アイ”は当然ながら素っ頓狂な声を出した。



「あたしが兄ちゃんに会った事、言わないで!」



必死に口を動かすあたしにか、その内容にか…“アイ”の表情が怪訝なものへと変わる。



「…何で?」


「兄ちゃんが…これ以上嫌われても良いの?」



あたしは、どこまでも卑怯な人間で…


どこまでも、自分が大事だった。



双方の関係の修復なんて、正直どうでも良かったんだと思う。



この関係を…悪いものにはしたくなかった。



リビングに戻って来た岸田ゆり子ちゃんは、「ごめんね、宅配の人だった」と、来客者を明らかにしながらあたしの隣に座り直した。



「えっと…何だっけ?」


岸田ゆり子ちゃんは、アイスコーヒーを喉に流し、“アイ”へ視線を向けた。



あたしは2人から視線を逸らし、たいして欲しくもないアイスコーヒーへ口をつけた。



「…あー…いや、今日、森ちゃんも誘ったんだけど…来れなくて」



話をすり替える“アイ”の声を、あたしは背中で聞いていた。



口の中に苦いものがどんどん広がっていく…



「森ちゃんにも…全然会ってないや…」



岸田ゆり子ちゃんは何の疑問を持つ事なく、すり替えられた“アイ”の話に、うまく乗ってくれる。



胸がチクリと痛んだあたしは、まだ…罪悪感を持ててるのかな…


自分との関係を壊したくないばかりに、こんな風に裏で糸を引いて…



何よりも、自分とゆう存在が…一番怖い。




「ねぇすず聞いてよ!アイってね、中学の時に間違えて告られてんの!」


「おまえそうゆう悲しい事実を思い出させんなよ!」


「しかもね!誰と間違えられたと思う?ちょーウケるから!」


「おいゆり!人の思い出したくない過去を笑いのネタにしてんじゃねぇよ!」



“アイ”と岸田ゆり子ちゃんの楽しそうな掛け合いを、殆ど理解出来ずに聞いていた。



「へー!」「そうなんだ!」「ウケる!」そんな言葉を、如何いかにも楽しそうに吐き続けていた。



気づけば物凄く喉が乾いていて、時間の経過を物語っていた。



「ごめん…あたし、そろそろ…」



リビングの壁に掛けられた時計へ視線を向け、話が弾んでいる2人へ口を開く。



「あ、すずもう帰る?」


「うん、ごめんね…」


「いや、こっちこそ、わざわざありがと!すずに会えてほんと楽しかった!」



立ち上がると、岸田ゆり子ちゃんも立ち上がって、「アイ!」と、未だ座り込んだままの“アイ”を呼ぶ。



「ちゃんとすず送ってあげてよ!」


「わかってるっつうの…」



ダルそうな言い方に、ダルそうに立ち上がる“アイ”を横目に、何だかんだ、きちんと駅まで送ってくれると知っているから、不快感なんて感じない。



「じゃあね」


岸田ゆり子ちゃんに笑顔で見送られ、あたし達は岸田家を出た。



駅へ向かう道のりを、“アイ”と歩きながら、やっと帰れる…と安堵の気持ちで一杯だった。



「おまえさ…」


歩き出してすぐ、“アイ”が重い口を開く。



「何?」


その視線は正面に向けたままで、こっちを見ない“アイ”に、良い話じゃないな…と、あたしの勘が働いた。



「…学校の日が無理なら、休みの日にでもゆりと遊んでやってくんね?」



何故か、何故かは分からないけど。

あたしはこの時、何故か無性に…兄ミヤチに会いたくなった。



「やっぱおまえが行くとさ、ゆりすげぇ嬉しそうだし、良く笑ってんだよ」


「…そうかな…」


「そうなんだって!たまにでも良いからさ、あいつを連れ出してやってくれよ」


「…うん」



時間の割に明るい空。


その所為か、駅の周りには若者が多く見られる。



「ありがと」


「あぁ、じゃあな」



駅の入り口で、“アイ”が背を向けて歩き出す。



その後ろ姿を見つめながら、


「ごめん…」


小さな声で謝罪を口にした。



あたしは、“アイ”が望むような事はしてあげられない。


自分の望みが何なのかさえ、正直わからない…



何がしたいんだろ…



……何を、やっているんだろ。



完全に“アイ”の姿が見えなくなって……


ブーッブーッと、スカートのポケットが震え出す。



「はい…」


「シケた声してんなぁ」



電話口から聞こえる兄ミヤチの声に、涙腺が少しだけ緩んだ。



「なに?」


「出かける時に電話するって言ったろ」


「あ…言ってたね。出かけるんだ…?」


「…いや、俺に言う事ねぇの?」


「え?」


「CDだよ…」


「あぁ、忘れてた。いや、もう自分で覚えてんじゃん」



呆れた口調のあたしに、兄ミヤチの溜め息をく音が耳に届いた。



「…何かあったか?」



溜め息の後に紡がれた言葉は、胸を締め付ける…



「何か…って?」


「俺が聞いてんだよ」


「何もないけど…」



そう口にすると、再び聞こえた溜め息。



「じゃあ、どうして俯いてんだ?」



足元に視線を向けていたあたしは、ハッと目を見開いた。



「スーの目は、中々俺を映さないな…」



視線を上げたそこに、



「いつまで下向いてんだ」



電話を片手に、通話する兄ミヤチが見えた。



…ゆっくりと、耳から電話を離す。



連鎖するように、兄ミヤチも電話を切り、あたしの元まで近づいてくる。



「何で…ここに居るの?」


「出かけるって言ったろ」



笑みを浮かべた兄ミヤチは、黒のスーツを身にまとっていた。



「凄い偶然」


「ついでに送ってやろうか?」


「目の前、駅ですけど」


「目の前に車停まってますけど」



そう言って兄ミヤチが視線を向けた先には、見覚えのある黒い車があった。



「じゃあ…お言葉に甘えて…」


車に視線を向け、「お願いします」と、頭を下げた。



動き出した車内に、やっぱり音楽は無い。



「…CDは?」


「お、忘れた」



当たり前のように答える兄ミヤチに、そうだろうなと、変に納得した。



「電話して来た意味…」


「そうか? でも、スーに会えた」



運転席からあたしに視線だけ移すと、兄ミヤチは口元を緩める。



「…そうだね」


だからあたしの頬も、自然と緩んでいた。



「兄ちゃんって、ほんとにホストなんだね…」


「何だよ」


「いや、ちょっと疑ってたから…」


「へぇ?」



兄ミヤチは、変わらず笑みを浮かべた。



「ホスト、楽しい?」


「仕事だから」



正面へ視線を戻した兄ミヤチは、質問には答えてくれない。



「辞めたいとか思った事ないの?」


「……」


「ねぇ」


「スーが辞めて欲しいって言ったら、辞めようかな」


「なにそれ…」


「本心」


「…にしては、ちょっと信じがたい物言いだよね」



“ホスト”ってゆうキーワードを出すと、兄ミヤチは話をはぐらかす。


だからあたしは、その先を深く聞く事はできない。



「スーは、日曜、何してんの?」


「なに、急に…」


「休みの日、何してんのか気になって」



“休みの日にでも、ゆりと遊んでやってくんね?”



“アイ”の言葉が不意に浮かんで、あたしの表情を曇らせる。



「何にもしたくない…」


「そうか」


「兄ちゃんは…何してんの?」


「寝てる」


「…つまんない男だね」


「そうかもな」


「誘われたりしないの?」


「会いたいと思う奴はいる」


「へー…」



確かに、兄ミヤチにそうゆう相手が居てもおかしくない。



「誘えばいいのに」


「断られそう」


「えー?断られてる兄ちゃんとか見たくないんだけど」


思わぬ返答に、思わず笑ってしまった。


兄ミヤチでも、好きな人には奥手なのかもしれない。



——車がゆっくりと停車して、家に着いたんだと気づいた。



「昨日に続いて、どうもありがとうございました」


そう言って車から降りると、


「じゃあさ、」


運転席から身を乗り出した兄ミヤチが、言葉を続けた。



「今度の日曜、会おうや」


「え?」


「まさか、断ったりする?」



確かに。


確かに。あたしは言った。



“えー?断られてる兄ちゃんとか見たくないんですけど”



それだから、さっきあんな風に言っといて、断らないよな? そう言いたいんだと思う。



「わかった」



所詮、“誰か”の代わり。



だとしても…



「じゃあまた連絡する」



岸田ゆり子ちゃんとゆう“友達”に、休日を奪われるより、どうゆう関係かわからない兄ミヤチと過ごす方をあたしは選んだ。

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