ただ…

振り返れば、苦い記憶も楽しい時も…


ただただ、がむしゃらだったな…と、思う。


後先考えずに、悩んだところで動いてしまえば解決。みたいな。



いつからこんなに、心を痛めるようになったんだろ…


ただ…あたしは、



ただ、


ただ…




「置いて行かれたと思ってるゆりちゃんに、“違うよ”って、誤解を解いてあげれるのはミヤチしかいないと思う」


「……」


「ヨウタに聞けば分かるから」




あたしはこの時、色んな事に気づいていた。


岸田家の問題に巻き込まれたのは事実だけど、あたしを利用したのは“アイ”じゃない。



「すーちゃんは、ほんとに優しいね」



あたしを巻き込んで、利用してるのは…



「ありがとう」



目の前でニコニコ笑ってる、森ちゃんだ。



午後の授業には少し遅れて行った。


教室に入ると、“アイ”があたしに視線を向けるから…そういえばコイツは学校に来てるんだな…と、変に感心した。



授業が終わって、すぐに“アイ”の元へ行くと、食堂での事が尾を引いているのか、気まずそうに眉を垂らしていた。



「ミヤチの家どこ?」



開口一番に発したその言葉に、口には出さなかったけど、“アイ”が「はっ?」って言いたそうな顔をした。



「あんた知らないの?」


「いやいや…何で?」


「森ちゃんが、ヨウタに聞けば分かるって」


「はっ?森ちゃんが?何で?」



打って変わって険しい表情をする“アイ”に、面倒臭い奴だなぁ…と、説明するのが嫌になる。



「知ってんの?知らないの?」


「知ってっけど、何でおまえに教えんだよ」


「会いに行くから」


「…はぁっ!?」



放課後になって、マジで面倒臭い“アイ”を引き連れて校舎を出た。



兄ミヤチの家は、岸田ゆり子ちゃんの家に行った時と同じように、電車に乗って、やっぱり同じ駅で降りた。



この前来た時と同様に、ここの駅は少しばかり柄が悪いのが多いように思える。



“アイ”の後を離れないように付いて行くと、岸田ゆり子ちゃんの家とは反対側の道に進んで行った。



やっぱり初めて見る風景に、キョロキョロと辺りを見渡してしまう。



それを鬱陶しそうに見やる“アイ”



岸田家に行った時は、特に会話なんてしなかったのに、今日はやたらと会話が進んでいた。



まぁ殆ど、口喧嘩みたいなものだけど。



それでもあの時よりは、確かに“アイ”とあたしの距離は近づいているんだと…思えた。



「…ここ」



駅から歩いて5分ぐらいだろうか。


“アイ”が不意に見上げた先に、マンションが立ち並んでいた。



エントランスと呼ばれる場所は、ガラス張りとなっていて、“アイ”が機械に向かって操作すると、扉が開くからビックリした。



「これって、勝手に入ってんじゃないの?」


「あぁ、いんだよ別に。ミヤッチそうゆうの気にしねぇから」


「…いや、あたしが気にするし」



ぶつぶつ呟いた言葉は独り言となり、“アイ”がエレベーターに乗り込んだからあたしも慌てて駆け込んだ。



…ドキドキして来た。


これから兄ミヤチに会うからなのか、初めて訪れるマンションへの好奇心による高鳴りなのか…判断さえ出来なくなっていた。



チンっと音が鳴り、エレベーターの扉が開く。


スタスタと足を進めて行く“アイ”の後を、少し足早に追いながら、ここが何階なのか確認さえ出来てなかった。



「ミヤッチ寝てるかもしんね」


「…え?」



やっぱりキョロキョロしていたあたしが、“アイ”に視線を向けた時には、一つのドアの前に立っていて、チャイムを鳴らした瞬間だった。



「……」


物音一つしない。


ドアの前に二人で立ったまま、中からの反応を待ってみた。



「……」


やっぱり物音一つしない。



「寝てるとかゆう以前に、居るの…?」


「……」


「…あんたさ、」


「居ねえかも…な…」



「あっれぇ…?」なんて言いながら頭を掻く“アイ”に、冷めた視線を送る。



「あ、飯買いに行ってるとか?」


「あたしに聞くな」


「コンビニとか?」


「知らん」


「もー…どこ行ってんだよ…」


「知るか」



溜め息を吐くあたしの横で、「あぁーもうっ…」っと、苛立ちを含んだ様な言葉と同時に、“アイ”がドアを軽く蹴った――…



「コラ」



ジャラッっと金属が擦れる音が聞こえ―…



「人の家のドア蹴ってんじゃねぇぞ」



——鍵を手にした兄ミヤチが、佇んでいた。



多分―…ビクッと震えたのは、あたしだけじゃないと思う。


黙り込んでしまった“アイ”は、蹴り上げた足が片方だけ地面に落ちきっていない。



「何か用?」



視線はあたしに向けられていたけど、「コイツが連れて行けってゆうから来た」って、“アイ”が答えたから、その質問は誰に向けたのか定かでは無くなった。



兄ミヤチは鍵を差し込み、慣れた手つきでドアを開ける。



「入れば?」



「おー」って答えたのはやっぱり“アイ”だったけど、その視線は確かに…あたしに向けられていた。



後ろでガチャンとドアが閉まる。


先に奥へと進んで行った二人に追いつこうと、ローファーを脱ぎながら「お邪魔します…」と小さな声で呟いた。



男の子の一人暮らしの部屋は、もちろん初めて入る。


…何てゆうか、男臭い。


別に散らかってるとか、変な臭いがするとか、そうゆう意味じゃなくて。むしろ良い匂いしかしない。



男の子の部屋を想像した事なんてないけど、同世代の男子の部屋と言うより、これは…大人の男性の住まいだ…



正面の突き当たりにある部屋のドアが開いている。


そーっと中を覗くと、そこにはリビングが広がっていて、大きなL字型のソファーに“アイ”が座っていた。



さっさと入れば良いのに、やっぱり人の家とゆうのは凄く不安になる。


疎外感みたいな、どうしたら良いか分からないまま佇むしかない。



あまり部屋を見渡すのも失礼かなと思ったり。


そんな事に気を使って部屋を見ないようにしていた。



「アイ」


その声が聞こえた方へ視線を向けると、奥にキッチンが見えた。



「おまえちゃんと見てやれ」


部屋の構造の所為か、キッチンの中は見えにくく、声で兄ミヤチだとわかる。



「あー…」


“アイ”が気まずそうにすると、「こっち、ここ座れ」と、自分が座っているソファーを叩いて見せた。



「で…何でおまえそんなちけぇんだよ」



雑誌をパラパラ捲る“アイ”の隣に、隙間なく座ったあたしは、


「…気にしないで」


“アイ”の左腕が自分の右腕に触れるぐらい、密着していた。



「気にするだろうが!気になって仕方ねぇだろうが!」



ただ、何となくこの空間に居心地の悪さを感じただけ。


広い部屋にある大きなソファーの上で、あたしは“アイ”だけが頼りだったんだと思う。



「あっち行けよ!」


そう言って少し離れた場所を指差す“アイ”に、


「いいじゃんか!」


頼むからそんな事を言わないでくれと、悲願しそうになる。



「何なんだよっ…」



“アイ”の怪訝そうなその言葉に、そんな言い方しなくても…と、気持ち1ミリ横にズレた。



「お茶で良いか?」


視界に入って来たのは冷たそうなグラスで、兄ミヤチがあたしの背後からそれを差し出している。



フワッと香る男の人の匂いに、“アイ”からは感じないその香りに、何故か赤面しそうなぐらい頬が熱くなり…


ソファー越しに、後ろに立っているであろう、兄ミヤチの顔を見る事が出来なくて、「はい」と、グラスを見たまま答えた。



あたしがグラスを受け取ると、兄ミヤチはローテーブルにもう一つグラスを置き、「アイ」と名前を呼んで、自分の分は持ったまま、L字型のソファーの正面にある四角いソファーに腰を下ろした。



「おまえコーヒー飲めねぇの?」


「え?」



何を今更と思ってみたけど、あたしがコーヒーを苦手な事を“アイ”は知らなくて当然だ。



“アイ”は「それ」と、あたしが持ってるグラスを顎で差し、「おまえだけお茶じゃん」と、グラスを見つめる。



“アイ”のグラスと兄ミヤチのグラスに目を向けると、確かに…自分のよりも微かに色が濃く見えた。



「それコーヒー?」


“アイ”の持ってるグラスに視線を向けると、



「アイスコーヒー」


そう言って“アイ”は、グラスを口にあてた。



ゴクンと喉を鳴らし、


「つーか、この家でお茶飲んでる奴初めて見た」


なんて、馬鹿げた事をぬかす。



「大袈裟だろ…」


そうだそうだ!と、その言葉に賛同しそうになった。



あまりにも普通に会話に入ってくるから、


「おまえがコーヒーしか飲んでねぇんだろうが」


意識して見ないようにしてた兄ミヤチの方に、あたしは視線を向けてしまった。



「だっていっつもコーヒー出して来るじゃん」


「コーヒーしか飲まねぇじゃん」


「ミヤッチだってコーヒーばっかじゃん」


「だから何だよ」


「だから…そこは3人分コーヒーだろ?普通は!」



ヒートアップする内容なんだろうか…それは。


本当にコイツはガキだ。



「コーヒー苦手っぽいじゃん」


落ち着いた声を出す兄ミヤチを見ると、てっきり“アイ”を見てるんだと思ったその視線は、あたしに向けられていて…



「そんなのコイツ見て分かんの?」


隣から“アイ”の視線も感じた。



「さぁ…雰囲気?」


そう言って、兄ミヤチはテーブルに置かれてあった煙草を手に取ると、ジッポで火を点け、フーッと煙を吐き出した。



その言葉、その仕草…


目を奪われてしまうその一連の動作に、流石だな…と感心した。



女の子なら誰だって、そうゆう気遣いは嬉しいものだと思う。


しかもそれを自然にしてしまうんだから、兄ミヤチがモテるのは良く分かる。



ただ、その反面、警戒心が芽生える。


これがホストかと…


このマンション、部屋、家具からして…稼いでるんだろうなと思った。



だって…高校生が一人暮らしするなら、1Kのアパートで十分だと思う。



不意に、正面から笑った気配がして、視線を上げると…兄ミヤチがあたしを見ていた。



「何…ですか?」


重なった視線に耐えられず、思わずそう聞いたあたしに、


「いや、アイに懐いてんなぁと思って」


口元に笑みを浮かべたまま、未だ密着しているあたし達を交互に見る。



「ここ、そんなに怖いか?」


兄ミヤチは、少し悲しそうに目を細めた。



隣で、ページを捲る音が止まる。


いつの間にか消された煙草が、目の前の灰皿に転がっていた。



「何しに来た?」


変わらない声色で、兄ミヤチがそう続ける。



「俺に用があるんだろ?」


どうしてあたしはいつも、責められてるように聞こえちゃうんだろ…



何しに来た? 何の用だ? って、悪者にでもされてる気分だ…



「あたしは、ただ…」



何だろ。


ただ、何だろ…



言葉に詰まってしまう。



「あたしは…」


確かめるようにそう繰り返せば、



「何が聞きたい?」


兄ミヤチが、話しやすいように導いてくれる。



「…ホスト、辞めないんですか?」


そう言った後で、何を言ってるんだ?って、思ったけど遅かった。



辞めるとか辞めないとかは、兄ミヤチの自由で…あたしが一々促す事じゃないのに。



「辞めて欲しい?」


可笑しそうに笑うその顔を見て、辞めて欲しい。と言いそうになった。



だから隣に座る“アイ”の腕をグッと掴んで、この人…兄ミヤチに惑わされないよう、力を込めた。



それに対して、“アイ”があたしを見たのは分かった。だけどあたしの視線は兄ミヤチを見つめたまま。



「あたしが……辞めて欲しいって言ったら、辞めるの?」


その挑発とも取れる言葉に、兄ミヤチの顔から、分かり辛い笑みが消えた。



「…兄ちゃんが、妹に一言、“違うんだよ”って、言ってあげれば良いのに…」


「……」


「何も話さないのは、罪だと思う」


「……」



静かに視線を落とした兄ミヤチに、少しだけ同情した。



偉そうに理屈を並べるのは好きじゃない。


偉そうに説教を垂れる資格もない。



ただ、何となく流れで…ここまで来てしまった。



兄と妹の問題に巻き込まれ、仲直りさせる為に利用され…


全て解決した後には、捨てられるのだろうか…



あたしをこの問題に巻き込んだのが“アイ”ならば、それを利用したのは森ちゃんだ。



じゃあ、最後に“あたし”を捨てるのは…



“誰”…なのか。




「…アイ、おまえは帰れ」


口を開いたと同時に、“アイ”へ近づき、あたしから引き離した。



「おまえはあいつのとこでも行ってろ」


続けて、兄ミヤチが低い声を出す。



「…でも、」


“アイ”は、立ち上がらされた状態で、座ったままのあたしを横目に、


「こいつは大丈夫だ」


兄ミヤチによって、半ば強制的に帰らされた。



この広いリビングで、2人きりになってしまった事に、思いの他、恐怖は感じなかった。



ただ、兄ミヤチが言った、“あいつ”ってゆうのが、岸田ゆり子ちゃんの事かと思うと…悲しかった。



名前があるのに、存在を示す為のその名を…



“あの人”とか、“あいつ”って呼び合う事で、その存在を無視してるように感じるのは、あたしだけだろうか。



さっきまで“アイ”が座っていた場所に、兄ミヤチがゆっくりと腰かけた。


少し距離を取るように、兄ミヤチから離れる。



ドキドキドキドキ…速まる心臓は、緊張や恥ずかしさから高鳴っているのか、未だ払拭出来ない警戒心によって不安を抱えているのか。



「…仕事は仕事だ」


兄ミヤチは、ゆっくりとあたしを見た。



「嫌いとか好きとか…そんなんで仕事を選んでる余裕はなかった」



ホストってゆう職業の事を言ってるんだろうか。



「…仕事は、仕事なんだ」


そう続けた兄ミヤチに、何も言葉を返せない。



慰めを求めているようには見えないし、同情して欲しいのかとも思えない。



兄ミヤチもきっと、寂しい人なんだと思った。



…森ちゃんが言っていた言葉を思い出す。



“ミヤチにも思いがある”



その思いを、少しだけ知りたくなった。

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