変化

兄ミヤチの登場は、特にこれと言ってあたしの日常に変化をもたらす事はなかった。



あの日保健室で会話をしたとはいえ、渡り廊下を通るのも今まで通りだし、それ以外で接触する事もない。



保健室での事は、あの後、本当にダッシュで来た岸田ゆり子ちゃんに、「大丈夫!?」と心配されたくらいで…


あたしと彼らとの接触は、岸田ゆり子ちゃんに何も話してないし、何も知らない岸田ゆり子ちゃんも、いつも通りだと思ってた。




季節が4月から5月へと移り変わり、制服のブレザーを着る事はなくなった。



夏のように暑い日が続く事もあったけれど、それなりに涼しい風も吹いていて、この時期が好きだなー…なんて、のんびり過ごす毎日。



これと言った変わりは無く、同じような日々の繰り返し。



だけどそれは、起こっている変化に気づいていないだけで、周りでは確かに何かが変わっていたのかもしれない。



だからその“変化”が現れた時、何かが違うとすぐに気づけなかった。



その“変化”ですら、何も変わらない“いつもと同じ事”だと思ったのかもしれない。



“それ”が訪れたのは、GWが終わった最初の登校日。



この日は珍しく、岸田ゆり子ちゃんが休みだった。


彼女の居ない学校生活は、本来あたしがずっと過ごして来た日常そのもので…


一人でトイレに行って、一人食堂でお昼を過ごして、誰とも会話せず、1日を終える。



当たり前だった生活を、当たり前のようにまた過ごせば良い。



なのに…一人寂しいと感じるあたしは、一人の過ごし方が分からなくなっていた。



授業中はまだ良かった。自分の席に着いて、授業を受けている間は、会話をする事もなく、皆一人だから。



だけど時間が出来るとソワソワしてしまう。クラスメイトが会話を始め出すと、どうも落ち着かない。



いつもどうしてたっけ…


どうやって空き時間を過ごしてたっけ…


そんな事ばかり考える。


そして気づくのは、一人だとゆう状況。



いつもは岸田ゆり子ちゃんが、あたしを一人にさせなかった。


空き時間になれば彼女は自然と近づいて来て、お昼になれば当たり前のように一緒にご飯を食べる。


それがずっと日常だったから、一人の過ごし方を忘れてしまった。


当たり前を忘れて、新しく出来た当たり前を覚える。



寂しいなんて感じた事のなかった当たり前が、新しく出来た当たり前によって寂しいと感じてしまう。



その所為なのか、今日1日をソワソワした気分で過ごした。



岸田ゆり子ちゃんが学校を休んだ理由は知らない。聞けば教えてくれるのかもしれないけど、それを特に知りたいとは思わなかった。



それよりも、やっとこの落ち着かない状況から解放される事に安堵して、教室を出る足取りが軽かったと思う。



ただ気がかりなのは、渡り廊下。



あそこを一人で通るのは、やはり抵抗がある。



嫌だ嫌だと思えば、視線はどんどん下がる一方で…気づけば、もう目の前に見える渡り廊下に…



「あれっ?」


疑問が小さな声として漏れた。



唖然とその場に立ち尽くす。


辺りをキョロキョロ見渡して…


はたから見れば、相当不審な行動をとっていたに違いない。



「…居ない」



そう、渡り廊下には誰一人居なかった。



森ちゃんや兄ミヤチだけでなく、いつも集団で群れている先輩が誰一人…



「…居ない」



驚きに困惑したのは一瞬で、そこに先輩達が居ない理由よりも、“居ない”とゆう事実に、背負っていた荷物を降ろしたような、力が抜けていく感じがした。


きちんと歩いている筈なのに、ふわふわと浮いているような…


靴箱まで行き、腑に落ちない思いを抱えながら校舎を出た。



下校中の生徒に混ざって校門まで歩いていると、突如、春一番かと思わせる程の強い風が吹き…



「わっ…!」


咄嗟にスカートを抑えて立ち止まる。


少しして風が止み、顔にかかる乱れた髪を両手で直しながら歩き出すと、



「おい…」



誰かを呼ぶ声が耳に届いた。



手櫛てぐしだと絡まった髪が整わず、鞄の中にくしがあったかな…と探してみる。



「おい…」



鞄の中をゴソゴソと漁り、くしを見つけて、サッと髪を解きほぐした。



「おいっ」



校門へと足を進ませ、スカートが風でめくれていないか、手で何度も確認し…



「おい!」



さっきから聞こえてくる叫び声が苛立ちを含んでいるようで、早く気づいてやれよ…と、何故か呼んでいる奴に同情して溜め息が出た。



「てんめぇ、」


そんなうなり声がすぐ傍で聞こえ――…



「シカトぶっこいてんじゃねぇぞ!」



同時に肩を掴まれて、後ろへ振り向かされた。



「なにっ!?」


「さっきから呼んでんだろうが!」


「誰が!?」


「俺が!!」


「誰を!?」


「おまえを!」


「…あたしを?」



予想外の言葉に、素っ頓狂な声が出た。



「んだよたっく…」


更に不機嫌さを含んだ声が落ち、



「どんだけシカトされりゃいんだよ俺は」


溜め息混じりに呟くと、“アイ”は視線を逸らした。



掴まれていた腕はいつの間にか解放されていて、突然姿を表したコイツに、ちょっとだけ緊張した。



一体あたしに何の用なんだろう…?



あの渡り廊下での一件以来、“アイ”と会話するのは久しぶりで、気まずい思いは勿論の事、何故か後ろめたい気持ちで一杯だった。



それは、どうやら“アイ”も同じらしく、視線が合うとすぐに逸らされる。



「なに?」



校門の手前でずっと立っている訳にもいかず、どこか落ち着きのない“アイ”にかけた言葉は、凄く偉そうな響きになってしまった。



「別にたいした事じゃねぇよ」


あたしの態度が気に入らなかったのだろう。


元々不機嫌だったけど、更に感じ悪くなった“アイ”は、


「ちょっと来い」


偉そうに顎で指示をしてくる。



先々前を歩く“アイ”に、正直どこ行くんだよ?って思ったし、何であたしが付いて行かなきゃならないのか、不満はあった。



だけど、「どこ行くの?」って聞いたところで、コイツは無視するか感じ悪いかどっちかだと思う。


だから何も言わず、“アイ”の後ろを歩いた。



校門を出て右に曲がった“アイ”は、どうやら駅に向かっているみたいで…



「これからゆりの家に行く」


首だけ振り返ってそう呟いた。



それに反論しなかったあたしは、どこかで分かっていたのかもしれない。


岸田ゆり子ちゃんが休んだ日に、“アイ”はあたしの前に現れた。



授業に出ないどころか、教室に顔を出す事すら減って、散々あたしを避けていたくせに。



だからこのタイミングで現れた“アイ”に、少なからず予想はした。



きっと岸田ゆり子ちゃん関係の事だろうな…と。



電車に乗ると、下校中の学生がたくさん乗っていて、戸惑いながら“アイ”の後を付いて行った。



座れる場所があるか、あたりに目を向けながら車両を進み、最前列まで来て、やっとチラホラ空いている座席を見つけた。



「座れば?」



出入り口付近の座席に腰掛けながら、隣の空いている席をポンポンっと叩いて“アイ”へ促した。



「俺はいい」



人の好意を無愛想に断ると、“アイ”は背を向け、腕を組んで片側だけドアに寄りかかる。



まぁ、隣合わせに座ったところで会話が弾む訳が無いし、このポジションがベストかもしれない。


向かいの窓から見える景色を眺め、電車の揺れに身を任せた。



これから起きる出来事なんて、到底分からない。すぐそこの未来すら予測出来ない。


だから浮かれて良いのか、沈めば良いのかさえ分からない。


自分がどうゆうテンションを保てば良いのか分からない。


未来は分からない事だらけで、不安になる。



お互いに違う場所を見つめたまま、電車が二つ目の駅に停車した。



「降りるぞ」


“アイ”の呟くような声と同時に、反対側のドアがプシューッと音を発して開く。



先々電車を降りる“アイ”の後を、慌てて追いかけた。



外の空気に触れた瞬間、ふと現実に引き戻される様な気分になった。



改札を抜けて駅を出ると、あたしが住んでいる場所とたいして変わらない風景が広がっている。


電車を使わなくても、学校までなら自転車で十分通える距離だと思った。



初めて訪れた場所に、高鳴る好奇心は抑えられず…辺りに視線を向けてしまうのはしょうがない。



「そんな風に見てっと絡まれんぞ」



ロータリーを抜けようとした時、いつの間にか立ち止まっていた“アイ”にぶつかりそうになった。



「何が?」


「…だから、そんな風にキョロキョロしてっと、絡まれるっつってんだよ」



呆れた口調で見下ろしてくる“アイ”は、目つきの悪い目が更に細く尖っていた。



「絡まれるって…?」


どうゆう意味か分からなくて、自然と眉間に皺が寄ってしまう。



そんなあたしの困惑に、何とか気づけたらしい“アイ”は、



「あそこ見てみろ」


視線を斜め右に動かすと、少し声を潜めて“何か”を見ていた。



「あれって…」



“アイ”と同じ方向に視線を向けると、何か良く分からない集団がバラバラと散らばっている。



何が分からないって、制服を着てたり、私服だったり…何かの作業着みたいな格好だったり、一見関わりの無さそうな人達が、同じ集団の中に居る。



「この辺、ガラ悪いの多いから」


大した説明も無く、“アイ”はそう言い放つと、背を向けスタスタと歩き出した。



確かに、あの風貌はどうも悪そうな雰囲気を醸し出してる気がした。渡り廊下の先輩達とも、また少し違うような…



土地勘の無い場所を歩くのは、とても不安だった。だから目の前を行く“アイ”だけが頼りで…



だけど後ろを歩くあたしを気にも留めず、振り返る事なく歩き進むコイツは、やっぱり胸くそ悪い奴だと思った。



暫くすると、見覚えのある住宅街が見えて来たから、「着いた?」と、“アイ”の元へ駆け寄った。



だけどやっぱり胸くそ悪いコイツは、「あぁ」とだけ呟いてすぐに視線を逸らし、また口を閉ざして歩き出す。



次に“アイ”が口を開いたのは、岸田家の前に立った時だった。



以前、父と一緒に岸田ゆり子ちゃんをここまで送り届けた時と、外観が少し違って見えた。


前来た時は、夜だったからかもしれないけど。夜来た時よりも、今日はやけに静まり返って見えた。



「…おい」



岸田家の外観を見上げていたあたしは、“アイ”に視線を移した。



門に手をかけたまま、“アイ”は背を向けて立ち止まっている。



「何?」



その背に向かって口を開いたあたしに、“アイ”は少しだけ肩を揺らした。



そして、小さく…


ほんとに小さく…




「…ハンカチ、ありがとな」



“アイ”はそう呟いた。



何について言ってるのかは、すぐに分かった。だけど唖然として、すぐに反応は出来なかった。


“アイ”はきっと、誕生日プレゼントの事を言ってるんだと思う。


あたしが適当な気持ちで選んだあのハンカチ…


どうしてこのタイミングで“アイ”がお礼を言ったのかは分からない。まさか“アイ”にお礼を言われるなんて思ってもいない。



いつもはしゃいでいる“アイ”からは想像もつかないぐらいの小さな声が、“アイ”とゆう存在をとても近くに感じさせてくれる。



少し優しく見えて来たその背中に、あたしの頬は自然と緩んでいた。

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