25
雪穂が、裸でベッドの上に横たわっている。僕は少し離れたところからそれを見ている。僕も裸だ。雪穂は恥ずかしそうに体を薄い白い布で隠している。僕はその下の体のことを思うと、とても苦々しい気持ちになる。
——ねえ、こっち来てよ。
雪穂が言う。
——あたしのこと、好きなんでしょう?
僕は何も言えず俯く。
——大丈夫、安心して。
布が払いのけられる音がする。僕は、視線を上げる。雪穂の胸はささやかな膨らみだ。綺麗な色の乳首が、その先端に丸くついている。僕の心臓は高鳴る。そんなはずはない。視界の端に映ったものが信じられない。ゆっくりと視線を下ろしていく。女性らしいくびれた体が、わずかに腹筋の浮いた胴体が、こちらを向いている。異物が目に入る。僕はそれを見る。あるはずのないものがそこにある。
——ね、これならできるでしょう?
そこには男性にしかないはずのものがある。それが血流を帯びて屹立している。
——これが欲しいんでしょう?
これは夢だと僕は気づく。これは、これこそが僕の願望なのだろうか。女性でありながら男性である存在。僕はそれを望んでいるのだろうか。
それは違うのだ。夢の中の僕は、それを見て興奮していなかった。
僕は女性としての雪穂が好きなのだ。雪穂にそれがついていたらそれでいい、そんなことはない。
そう思うと、ぼろぼろと目の前の塔は崩れていった。
そして現れた真実の体は、やはり僕のことを拒絶した。
目覚めると、尿意を催した。今日は母親のパートは休みで家にいるはずだった。僕はこっそりと部屋を出ると、トイレに向かった。夕飯の匂いが家の中に漂っている。
座って用を足していると、電話が鳴る音が聞こえた。手を洗ってトイレを出ると、母親が目の前に立っていた。
「雪穂ちゃん」
そう言いながら電話の子機を差し出した。僕はしばらく迷って、電話機を受け取る。
「……もしもし」
どうしても先ほどの夢を思い出してしまう。
「朗、学校行ってないって本当?」
母親め、と思う。
「ちょっと、体調悪くて」
「嘘でしょ、携帯も通じないからおかしいと思って電話したんだから」
「ああ、携帯はたまたま充電忘れてて」
雪穂のため息が聞こえた。
「嘘はやめようよ、ね?」
「……うん」
「なんか色々中途半端だったから、ちゃんと話がしたくて」
僕は部屋に戻った。ベッドに腰掛ける。
「とりあえずあたしはさ、ちゃんと学校行ってるから、心配しないで。むしろ暴露してやったら、相手の男の株暴落してるから」
僕はそれを聞いてとても安心した。それと同時に、相手の男と自分を重ね合わせた。雪穂はそれを察したようだった。
「あたしは自分がされたことと朗がしたことはさ、おんなじだとは思わないよ」
「いいよ、そんな慰めはさ」
「だけど、相手の子も、事情は分かった上だったんでしょ? あたしがされた『罰ゲーム』とはやっぱり、違うんじゃないかな」
「でも、僕は昇を傷つけたよ。それは間違いない」
電話を切ってしまいたかった。自分のしたことに向きあいたくないのだ。
「恋愛なんてそんなのばっかりだよ」
雪穂が言う。
「そんなこと言ったら、あたしの方がよっぽど傷つけられてるよ。ずっと好きだったのに、全然気付いてくれないんだもん。鈍すぎだよ」
「……ごめん」
「でも、あたしのこと、好きなんでしょ?」
僕は先ほどの夢を思い出す。
「好きだよ」
「でも、セックスはしたくない」
その言葉に僕は黙った。
「あたしがそれでも構わないって言ったら、どうする?」
そんなことを言ってくるとは思っていなかった。セックス抜きで付き合うということ。僕はふと思った。
「それって、今の関係と何か変わるのかな」
「変わるよ。私が朗の彼女になって、朗が私の彼氏になるんだよ」
「名前の問題?」
「名前は大事だよ」
高校生の間はそれでも良いかもしれない。そんな関係を続けられるかもしれない。でも大人になったら。
「気の早い話して良い?」
「良いよ」
「雪穂言ってたじゃん、子供欲しいって」
雪穂は少し笑った。だけれど僕は真剣だった。僕は一生多分それに悩むのだ。
「ホントに気の早い話だね。うーん、それは確かに欲しいけど。でも体外受精とか、色々方法はあるんじゃない? よく知らないけどさ」
「それに雪穂自身だって、そういうことしたいんじゃないの?」
「あたしはいいや、とりあえずしばらくは」
雪穂がされたことを思い出した。
「そっか、ごめん」
でもだとしたら、尚更相手は自分なんかでは無い方が良いのでは無いか。僕みたいな壊れた人間より、例えば昇が僕にしてくれたように、愛を持ってセックスをしてくれる人間と付き合い、ちゃんとそういうことができるようになる方が、雪穂のためなのではないか。
「……僕じゃ無い方が良いよ。もっとちゃんと、『普通』の相手と付き合った方が絶対に良い。雪穂ならもっと良い相手が見つかるよ。僕なんかと付き合っても、時間の浪費にしかならないと思う」
「あたしは今の話をしてるんだよ、今あたしは朗が好きで、朗はあたしを好き、それで十分なんじゃないの?」
「でも僕は、別に性的に不能なわけじゃない。僕にだってちゃんと欲望があるんだ」
今度は雪穂が黙った。
「雪穂が例えば僕が、他の男の人を考えながらオナニーしてても、それでも大丈夫だって言える? 他の男の人とセックスしてても平気? それで僕が雪穂を愛してるって言って、ちゃんと信じてくれる?」
しばらく電話口にはホワイトノイズが流れていた。
「あたしのことを愛してるなら、それは我慢してって言っても、無理なの?」
今度は僕が黙る番だった。
「本当に愛してるなら、そうして欲しい。あたしだって我慢するから」
雪穂の言うことはもっともだと思った。そしてもしかしたらそれは可能かも知れなかった。僕はもともとそんなに性欲の強い人間では無いから。
しかし僕はもう知ってしまったのだ。僕は昇とセックスをしてしまった。昇が僕に与えてくれた快楽がもう二度と味わえないというのは、僕には耐え難いものに思えた。
「……やっぱり、本当は昇くんのことが好きなんじゃないの」
僕の考えていることを見透かしたようなことを言う。
「それは違うんだ、僕は」
「——ごめん、やっぱり、あたしには分からない。朗がどういう状態なのか、多分ちゃんと分かってあげられない。さっきはああ言ったけど、やっぱり好きな相手とはくっつきたいって思う。それが自然なんだってあたしは思う。あたしは朗が好き。朗とくっつきたい。だけど朗はそうじゃないんでしょう?」
「うん」
「じゃあ、やっぱりこの話は無しにしよう」
「うん」
僕はそれがいい、と思った。それが雪穂のためだ。雪穂はこんな世界(傍点)に関わるべきじゃない。
「だけどさ、これからも、友達として——」
「それは無理だよ」
雪穂ははっきりと言った。
「だってあたしは朗が好きなんだもん。それで朗もあたしのことが好きだなんて言って、それで友達続けるなんて、無理だよ。あたし、期待しちゃうもん。無理ならもう、きっぱりと離れるしかないよ」
「そっか」
「これはあたしの我儘だから。ごめんね、これじゃ、なんのために電話したのか分かんないね」
黙っている僕に雪穂は、申し訳なさそうに言った。
「ごめんね、本当に。でも、あたしは朗が好きだった。朗はもっと自分に自信を持って欲しい。あたしは朗の苦しみを分かってあげられない。でも、好きだったよ」
「うん、……ありがとう」
「早く元気出して、学校行きなね。きっと友達が待ってるよ」
勝手に涙が出てきたので、気付かれないように必死だった。雪穂が沈黙をどう受け取ったのかは分からなかったが、しばらく経つと、
「じゃあね、ばいばい」
そう言って電話は切れた。
僕は泣きながら、これが当然のことなのだと言い聞かせた。これで良かったのだと思うことにした。雪穂が言うように、これで叶えられない期待を持たせることもないのだ。
しかしはっきりしたこともあった。これから僕がどれだけ女の子を好きになろうと、おそらく同じ結果が待っているということだった。
僕は深い穴の底にいて、見上げても光は見えてこなかった。
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