24

 僕は学校に行かなくなった。

 最初の数日は体調が悪いとだけ伝えたが、三日を過ぎると、さすがに親もおかしいと思ったようだった。いじめられているのか、何かあったのか、クラスに馴染めないのかと聞かれたけれど、僕は何も答えなかった。親に説明できる事情など何一つ無かった。

 昇はどうしているだろう、と思った。昇はちゃんと学校に出ているだろうか。それが心残りだったけれど、スマホの電源は切って、誰とも連絡を取らないと決めたので、どうなったかは分からなかった。

 母親がパートに出かけ、家が無人になる。僕は布団の中で、覚醒と睡眠の間を漂っていた。眠ろうと思えば、人間は幾らでも眠ることのできる動物なのだと僕は知った。僕はこのまま社会からドロップアウトするのだろうかと思った。僕は漠然と、常にそんな予感があったことを思い出した。例えば普通に彼女を作り、別れたりくっついたりを何人か経て、そのうちにセックスをし、そこそこの大学に進学し、就職は厳しいかもしれないが、恐らくどこかそんなに有名ではない企業に就職し、そのうちに一生を付き合える女性と出会い、結婚をし、子供を作り、子供を育て、反抗期などを経て、やがて子供も大人になり、妻が先立ち、自分も死ぬ。細部に違いこそあれ、「人生」と呼ばれて想起されるそんな物語から、自分は疎外されている、という自覚があった。多分自分はどこかで石に躓くだろう、そう思っていた。常にどこか綱渡りをしているような感覚があった。見せかけの日常、その裏側に何かが潜んでいる。だけれどそれが、こんな化け物だとは思わなかった。僕は自分が傷つくことは予期していたが、誰かを傷つけることは全く予想していなかった。

 僕は体にかかったバスタオルを払いのけ、起き上がった。机の引き出しからカッターナイフを取り出す。死ぬ気は無かった。化け物を追い払うには、こうするしかない。僕はズボンを下ろし、局部を露出させた。毛の生えそろったその根本に、カッターナイフを当てる。手が震えた。どうしてこんなことになったんだろう。僕は何をしようとしているんだろう。だけれど、これ以外の方法が思いつかない。誰か、僕をここに連れてきた人間がいるならば、今僕はそいつを躊躇なく刺すだろう。だけれどそんな人間はいなくて、そして、言い訳をすることが許されるならば、僕にだって責任はないんじゃないか。僕は自分で化け物を飼いたいと思ったわけではない。化け物が勝手に僕の中に住んでいたんだ。だったらなぜ僕はこんなことをしなきゃいけないんだろう。罪のない罰。ナチスの元では、同性愛者たちは収容所に連行されたという。彼らに何か罪はあっただろうか。だけれど僕には一つ確実な罪があった。昇を傷つけたということ。そしてこの化け物がいる限り、多分それは永遠に繰り返される。化け物は常に腹を空かせて、僕の中の性欲や愛情を弄んで、僕を乗っ取ろうとする。それもこれも、僕の股にぶら下がる「こいつ」のせいなのだ。「こいつ」がなくなれば、化け物はいなくなる。僕は解放される。切り落とせ、さあ!

 僕の頭の中に、昇が幸せそうな顔で「こいつ」をしゃぶっている姿が蘇った。だからこそ、昇は傷つくことになったのに。あの昇の顔を思うと、手が止まってしまった。そして昇の中に「こいつ」が入っていったこと。血を流しても、昇が嬉しそうにこちらを見つめたこと。「こいつ」はあのとき、昇に少しでも喜びを与えることができたんだろうか? やがて力の抜けた手からカッターナイフが滑り落ち、その拍子に刃先が数本の毛と、皮を少し切り裂いた。鋭い痛みが背筋を駆け抜けた。ほんの少し切れただけ、血が一直線に滲んでいるだけなのに、驚くほどの痛みだった。僕はなんて恐ろしいことをしようとしていたのだろうと思った。すっかり気力は萎えてしまった。

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