23
セックスの後の気怠さというのはこういうものなのか、と感じていた。僕たちは裸のまま体を重ねあっていた。昇の大きな体が僕の体を圧迫していた。暖かくなってきた気候の中、裸で重ねあった体は汗が吹き出てきた。僕は、セックスの結果についてどう昇に告げれば良いのか分からなかった。嘘はつかないと決めていたけれど、限界かも知れなかった。僕のために血まで流したのだ。
そのとき、僕の脱ぎ捨てたズボンのポケットから、スマホが震える音が響いた。
鳴り止まない。電話だ。
僕は服を手繰り寄せてスマホを取り出した。
電話は雪穂からだった。僕は冷水を浴びせられた気がした。雪穂からいきなり電話がかかってくるなんて、もしかしたら初めてかも知れなかった。
「ごめん、電話……」
そう言って昇を体の上から動かした。昇が、不安そうな目でこちらを見た。もう相手が誰なのか分かったのかも知れなかった。
「もしもし?」
電話口に呼びかけても、返って来るのは無音だった。
「もしもし? どうした?」
イタズラ電話だろうか。雪穂がスマホを落として、誰かが僕に電話をかけている。そうであって欲しいと思った。僕はちらりと昇の方を見た。僕は視線を逸らして、言った。
「雪穂? どうした?」
呼吸の音がわずかに聞こえた。向こうに誰かいる。
「雪穂? 雪穂なのか?」
僕の心臓が高鳴っていくのが分かった。わずかに聞こえる呼吸の音が、震えているように聞こえたからだった。
『朗……?』
聞こえてきたのは、あまりに小さな、かき消えそうな、弱々しい、聞いたこともない雪穂の声だった。
『会いたい、……会いたい』
雪穂の声が震えていた。
「もしもし、雪穂どうした? 今どこにいる?」
『駅前の公園、……今から来れる?』
「分かった、すぐ行く」
ただ事ではない気配に思わずそう言って通話を切ってから、昇の存在を思い出した。昇は裸で、こちらを見上げていた。その昇の表情を、どう形容すれば良いのか分からない。だけれども僕は今ここで急に心臓が止まって死んでしまえれば良いと思った。そんなことはあり得なかった。だから僕は言わなくてはならなかった。嘘はつかないと決めていたから。
「雪穂が呼んでるんだ。行かなきゃなんだ」
昇は俯いた。僕はそれをありがたく思った。あの表情をあれ以上見させられたら、僕は自殺していたかもしれない。僕は辺りに散らばった服をかき集め、着込んでいった。完全に服を着終えると、
「ごめん」
とだけ言って部屋を出て、見慣れない家の廊下を通り、玄関から外に出た。
僕は心臓が狂ったように脈動するのを感じていた。雪穂に何があったのだろう。僕は激しく動揺していた。
僕の心臓は割れそうに早鐘を打っていた。スマホを取り出して地図を見る。来る時は緊張していて、道なんて覚えていられなかったからだ。
駅は思っていたより遠かった。来る時は時間の感覚も曖昧になっていたのだと思った。僕の頭の中はとにかく雪穂のことでいっぱいだった。ホームの電光掲示板を見て、電車が来るまでの五分間をこれ以上なくもどかしく感じた。
待っている間、昇のことが頭をよぎった。息苦しくなったけれど、今はそれよりも雪穂のことが大事だった。スマホからメッセージを送る。『すぐ行くから、待ってて』
電車に乗り込んだ。駅に停まるたびにメッセージを送った。返事が来ないのが僕の不安を煽り立てた。
地元の駅に着くと、尚更雪穂のことを心配する気持ちがどんどんと膨らんだ。駅前の公園は歩いてすぐだった。
休日の公園。日の暮れかけたそこから、人々が手を振って立ち去っていく。その流れに逆らうように歩いた。小さな男の子と女の子が、砂場で何かを作り上げていた。女の子は帰りたそうにしていた。男の子がそれを引き止めている。これができあがるまで待って。あとちょっとだから。女の子はしぶしぶといった風を装ってそれに付き合う。本当は男の子と、少しでも長く一緒にいたいと思っている。僕は視線を動かした。ベンチに、雪穂と思しき人がいた。俯いていて顔は見えないけれど、間違いないだろう。僕は歩み寄った。
「雪穂」
呼びかけると、雪穂は顔を上げた。ぼんやりとした目でしばらく僕を見つめていた。僕が誰なのか理解できていないように見えた。やがて目に生気が戻り、
「ああ、朗か」
と言った。そして力無く笑った。
「何、朗、その顔、なんか変」
そう言う雪穂は、先ほどのぼんやりした表情を除けば、普段通りにも見えた。
「はは、なんかそんな顔見ちゃったら、涙引っ込んじゃった」
「何があったんだよ」
冗談めかしておどける雪穂に僕は言った。思っていたよりもきつい声がでた。
「ごめんね、急に呼び出したりして。あたしちょっとおかしくなってた」
「だから、何が」
「振られちゃった」
雪穂は再び俯いたので表情は見えなかった。
——それだけ?
僕は思ったが、黙っていた。それ以上の何かがあるのは間違いないと思った。僕は雪穂の隣に座った。俯いているので、横顔に髪がかかってやはり表情は伺えない。
僕が黙っていると、雪穂は言葉を絞るように話し出した。本当は話したくない、という声色だった。
「罰ゲームだったんだって。あたしと付き合うの。誰が言ったのか知らないけど、あたしがオタクだってバレてて、それでターゲットにされたみたい。おかしいと思ったんだよね、明らかにあたしと釣り合いの取れる相手じゃなかったから」
僕は衝撃で何も言えなかった。漫画なんかでよく見る典型的ないじめだった。本当にそんなことをする人間がいるとは思えなかった。ましてや雪穂がそのターゲットにされるなんて。
「気付かないあたしが悪かったんだよね、だって一ヶ月も付き合ってるのに、手も繋ごうとしないんだよ? 最初は恥ずかしがってるのかなって思ったけど、さすがに鈍いよね。どう考えたって相手は今まで色んな女の子と付き合ってるようなタイプだったのに」
雪穂はまたしばらく黙った。そして、腹痛に苦しんでいるかのように体をぎゅっと縮めた。腹の前で両手を祈るように重ねていたけれど、その手が震えているのが見えた。
「だけど、だけどさあ」
雪穂の声が大きくなった。
「何もいきなり無理やりセックスして、それで種明かしって、ひどくない? なんでお前から何にもしてこないんだって、おかしくない? ふざけるなって、こっちのセリフだよ」
雪穂の声は震え、鼻声になった。雪穂は泣きだした。本当に小さな声で言った。
「あたし、初めてだったのに」
僕は激しい憤りを覚えた。許せない。人の心を弄んで、自分勝手な理屈で相手をねじ伏せて、体だけ味わって最終的には捨てるように別れるなんて。
「雪——」
雪穂に手を伸ばしかけたときに気づいた。
自分が全く同じことを昇にしたと言うことに。昇が最後に僕のことを見上げた顔が蘇った。雪穂の小さな体が、痛みに震えていた。昇は今頃、部屋でどうしているのだろう。
僕が今雪穂に何を言っても、それはそのまま自分に返ってくる言葉だった。そんなの許せない。そんな奴は最低の人間だ。人間の屑だ。そんな人間のことなんて、はやく忘れてしまいなよ。そんな奴、絶対不幸になるに決まってる。
僕は昇が女子をカモフラージュに利用したことについて怒った。
僕がしたことはそれより遥かに悪辣だった。
——偽善者!
僕の中で叫ぶ声がした。そうだ、僕はとんでもない偽善者だ。僕は、僕のことをあんなに愛してくれた人間に、最悪の仕打ちをした。
「あたしさ」
そんな僕の葛藤を知らず、雪穂が顔を上げた。涙が頬を伝っていたけれど、雪穂は無理に笑ったようだった。
「ほんとは朗が好きだったんだ」
その言葉は、僕を絶望の淵に叩き落とした。それ以上何も言わないでくれ、もう何も聞きたくない。
「ほんとは中学の卒業のときに告白しようと思ってたんだけどさ、勇気がなくてできなかったの。だってずっと友達だったから、このまま友達でいられればそれでいいかなって思っちゃって。告白して振られて、会えなくなるのが一番怖かったから」
雪穂、今目の前にいるのは、さっき雪穂を最悪の形で侮辱した男の生き写しなんだ。
「最初は朗が良かったなあ」
僕の背筋に悪寒が走った。雪穂が目の前の男の本性に気づいていないということと、女性とセックスをするということに。
「なんてね、ごめんね、朗はあたしのことそういう風に見てないって、分かってるから——朗? なんで泣いてるの?」
雪穂に向かって伸ばした手を宙に浮かせた姿勢のまま、溢れ出す涙が頬を伝っていた。泣けば許してもらえるとでも思っているのか。誰のために泣くのか。本当に泣きたいのは僕じゃない。僕には泣く資格なんて無い。だけれど涙は止まらなかった。
分かっていたことじゃないか。見えていた結果のはずだ。僕の中の化け物が、どんな不幸を呼び寄せるか。
僕は告白を断るべきだった。
僕は初めて愛されて浮かれていたんだ。僕には愛される資格がそもそも無かったのに。
「やだ、そんなにあたしとするの嫌だった?」
雪穂は冗談めかして言う。それが外れていないことが、また僕の涙腺を壊した。手から力が抜けた。涙で視界がぼやけて何も見えなかった。
「大丈夫? どうしたの? 朗」
雪穂の声が聞こえる。本当は泣きたいのは雪穂なんだ、そして昇なんだ。僕には泣く資格なんてないんだ。慰めないで欲しい、雪穂は自分を汚した人間を慰めているのと同じなのだから。はやく雪穂を止めないと、雪穂が自分を汚している。
「——同じなんだ」
「え?」
「雪穂を侮辱した男と、僕は、同じなんだ」
「何言ってるの? 朗はそんなことしないでしょ?」
「したんだ、同じことを、いや、もっとひどいかもしれない」
雪穂は黙った。僕の視界は相変わらず濁っている。
「僕は最低の人間だ」
気がつけば僕は全てを雪穂に打ち明けていた。雪穂が好きだということ、でも女性とセックスはできないということ、男性に性的に興奮すること、でも男性には恋愛感情が持てないということ、昇が僕に告白してきたこと、『実験』として付き合い始めたということ、昇が僕のことを、とても大切に、本当に愛してくれたこと、それでも、昇とセックスまでしても、昇のことを好きだとは思えなかったこと、そんな昇を捨てるように置いてここに来たということ。
僕の体に、昇の熱が蘇った。ファミレスで机の下で握り合った手。トイレで隠れてしたキス。告白のとき抱きしめてきたあのぬくもり。そして先ほどまでの、セックスの感触。
その時初めて、僕の中に昇に対する『特別な感情』が湧いてくるのが分かった。だけれど、だからこそ、僕はまたぼろぼろと涙をこぼした。
僕はその感情の名前を知っていた。
——『家族愛』。
「僕は心が壊れてる人間なんだ」
そう言う頃には、涙は止まっていた。僕は眼球に残った涙を腕で拭った。雪穂の顔がはっきりと見えた。雪穂は泣きそうな顔をしていた。
「それってあたしのせい?」
雪穂は顔を歪めた。
「あたしがBLを貸したから、朗はおかしくなっちゃったの?」
僕は驚いた。そんな可能性、考えたことも無かった。だけれどそれははっきりと違うと思った。
「それはないよ、だってずっと僕はあれをファンタジーだと思ってたんだから」
「だけど、無意識に影響を受けていたのかもしれない」
無意識のことなど、誰にも分からない。それでも反論はできた。
「でも、僕が女の人に興奮しない理由にはならない」
そう、仮にその影響を認めるとしても、僕はバイセクシャルになるだけで、女性とのセックスへの嫌悪感の由来の説明にはならないのだ。
「だったら」
雪穂はまっすぐ僕を見た。
「朗はあたしのことが好きなんでしょ? 愛してくれてるんでしょ? だったらあたしとしてみれば、何か変わるかもしれない。本当は女の人とそういうことができるってわかるかもしれない」
僕は雪穂の顔を見た。その目は、あの時の昇と全く同じものだった。僕はその先に何が待っているのかもう知っていた。僕は、もう誰かを『実験』に使いたくなかった。これ以上僕の中の化け物の犠牲者を増やしたくなかった。できなかったら、雪穂が傷つくだけだ。そして、僕は確信していた。雪穂が相手でも、絶対にできないのだと。
僕は首を振った。
雪穂の顔を見て、結局、雪穂を傷つけてしまった、と思った。
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