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 普通の恋人は何回めのデートでセックスに至るものなのだろう。村上春樹の小説みたいに、出会ってそのままセックスするなんてこと、この世の中に本当にあるんだろうか。それがスタンダードなのだとしたら、世の中はとんだ淫乱だらけだと思う。僕は彼の小説のそこがどうしても気になって、他の部分がどんなに魅力的でも説得力がないと思ってしまう。だけれども、遂に自分にもその番が回ってきたのだということは鈍感な僕でも分かった。付き合い始めて一ヶ月弱が経ち、夕食を十数回共にし、デートを三回し、初めて家に呼ばれた。キスだって、何回かした。どう考えてもそういうことだ。問題は僕たちは男同士で、どっちがどっちをするのかということだった。だけれどそれは既に昇に訊かれていた。ごく自然とは言えないまでも、なんとなくと言える会話の流れで。僕は入れる側をするはずだった。昇は一方的に僕の希望を聞くだけで、自分がどうしたいのかは全く言わなかった。

「悪いな、散らかってて」

 昇は僕に座布団をすすめた。僕は大人しくそれに座る。人の家に行くこと自体、小学生以来だった。玄関を入るとき特有のあの他人の家の匂いを懐かしく感じたものだ。

 昇の家は、埼玉の、僕の家より都心から離れたところにある一軒家だった。埼玉から東京まで長時間満員電車に乗る僕の父親と違い、昇の親は家の近くに会社があるらしい。両親ともに埼玉生まれ埼玉育ちということだった。そしてその両親は、どうやら今日は結婚記念日で留守らしい。

 部屋は言うほど散らかっていなかった。寧ろ僕の部屋と比べてものがとても少ない。野球に使う備品、ワックスやバットを入れる筒、それに鉄アレイなどが部屋の隅に寄せられている。カレンダーも野球選手のもので、ああ、本当に昇は野球が好きなんだな、と思った。白いカラーボックスの上の段には本が並んでいる。ホームズが全巻揃っていて、いつの間にか抜かされてしまったと思うと悔しかった。その後ろに目立たないようにBLの漫画が置かれているのが分かった。下の段には雑誌が乱雑に詰め込んであった。野球の雑誌や、ターザン、それからファッション誌。平均的な学習机の上には教科書と参考書。昇は成績も優秀だった。

「あんまりじろじろ見ないでくれよ」

 昇は少し照れた口調で言う。

「ごめん、でも、ものが少ないなって」

「そうか? こんなもんじゃね?」

「僕の部屋、ものだらけだよ。こんなに片付かない」

 昇は僕に笑う。

「朗の部屋も行ってみたい」

「昇の体じゃ入るスペースないかも」

 冗談めかして言うと、

「そりゃ重症だな」

 と笑った。

「そういえば」

 昇は体をねじってカラーボックスから本を一冊取り出した。

「また騙したな、これ」

 それは「どんでん返し」のミステリだった。僕はあれから何冊か昇に本を紹介したけれど、数冊に一冊、さりげなく、それとなく、昇が望んだ「どんでん返し」のミステリを仕込んでいた。その度に昇は驚いてくれるので面白かった。

「別の屋敷の話だと思ったら、くっついてたとか、分かるかよ」

「面白かったでしょ?」

「まあ、な」

 昇はその本を戻し、別の僕が勧めた本を手に取った。

「でも最近は、お前が教えてくれる他の本が面白いよ」

 昇が手に取ったのは、文庫で千円以上する、日本のポストモダン文学の代表とされる本だった。タイトルに有名なミュージシャンの名前が入っていたので気になって読んだのだ。その本は「形」を自ら作った本だった。

「これとか正直さっぱり意味分かんないけど、でも、お前が読んだんだって思うと、お前はこれ読んでどう思ったんだろうって思うし、自分じゃ絶対に、多分一生この本を手に取ることは無かったと思うし。そういうのが嬉しいっていうか。付き合うってそういう風だと良いなって俺は思ってるから」

 昇は本を棚に戻した。大きな背中がこちらを向いている。

「まあ、その本は正直僕も意味はよく——」

「俺たち、付き合ってるんだよな?」

 昇は背中を向けたまま言う。

「俺にとって、お前は『特別な存在』なんだ」

 『特別な存在』。僕が箭内に説明した言葉にそっくりな単語が出てきて、僕は驚く。まさか箭内はそこまで言ってないだろうと思う。

「お前にとってはどうなんだ? 俺は『特別』になれてるか?」

 昇の声は、すがりつくような、何かを求める色に塗れていた。

 僕は答えることができなかった。嘘はつかないと決めていたから。相変わらず、昇は僕にとって親友以上の存在では無かった。それ以上の感情は、どうしても湧いてこなかった。

「キスしたよな」

 昇が言う。

「カラオケでしたし、裏道でしたし、学校のトイレでだってした。正直に答えてくれ、嫌だったか?」

「嫌じゃ、ないよ」

 本当だ。僕は嫌じゃなかった。

「じゃあどうして! どうして好きになってくれないんだよ!」

 僕は何も言えなかった。僕に、目の前の苦しむ『親友』に何か言葉をかける資格なんて、どこを探してもありはしないのだ。やっぱり、僕の心の中の化け物は、人を不幸にするばかりなんだ。昇だって分かって僕と付き合い始めたんだ。だけれど化け物は、昇のことを食い殺そうとしている。これ以上『実験』に、この真摯で優しい『親友』を、付き合わせる訳にはいかないと思った。

「あのさ、もう」

「お前の事情は分かってる」

 昇は言った。鼻声だった。

「分かってて付き合ってるんだ。苦しいのは多分お前の方だ。俺はただ我儘を言っているだけなんだから」

 そんなことは無い。どう考えてもおかしいのは僕なのだ。

 昇が振り返った。目が潤んでいた。苦痛に顔を歪めていた。

「ヤろう」

 そう言いながら僕の方へにじり寄った。

「そうすれば、何か変わるかもしれない」

 昇は僕に覆いかぶさった。僕は抵抗する気は無かった。

 昇は僕の顔をその無骨な両手で掴むと、唇を貪るように吸ってきた。荒い呼吸が聞こえた。昇が興奮しているんだと思うと、僕も興奮した。互いに舌を絡める。鼻呼吸をすると、濃厚な昇のにおいがした。昇は僕の顔を舐め、首筋を舐め、顔中をべとべとにした。重たい体が僕に密着して、僕の股間が硬くなる。

「ほら、勃起するだろ?」

 昇がまたすがるような声で言う。起き上がると、着ていたシャツを脱いだ。

「朗も脱いで」

 僕はその肉体に圧倒されながら、自分の貧相な体を晒した。情けない体が恥ずかしかった。そんな体に、昇はまた舌を這わせる。乳首をしゃぶられると、僕の体は震えた。その反応を見て、昇は執拗に乳首を責め立てる。僕は声を出すのをこらえた。

「親、いないから、……声、出せよ」

 僕は昇の言う通りにすることにした。僕が喘ぐと、昇はやっと嬉しそうな顔をした。

「一緒に気持ち良くなろう」

 そう言って僕のズボンを下ろした。半立ちのそれを、昇はとても愛おしそうな顔で見た。そしてしゃぶった。しゃぶられるのはあの時以来だった。純朴な昇が、嬉しそうにしゃぶるのを見て、僕の体の底から熱が湧き出てくるのが分かった。僕は激しく喘いで腰を振った。

「やばい、イキそ……」

 と声を漏らすと、昇はしゃぶっていた口を離した。

「なんで」

 僕は多分、哀願するような声になっていたと思う。昇は好色な笑みを浮かべて、自らのズボンを下ろした。僕のものよりかなり大きな、立派なものがぶるんと現れた。完全に勃起しているみたいだったけど、皮は半分しか剥けないようだった。

「ここ、使ってくれよ」

 昇が背中に手を回しながら言う。

「ちゃんと練習したから、多分、入るから」

 BLだったら何の苦労もなく結合できるところだが、現実はそんなに甘くない。昇がどれほど苦労してそこを慣らしたかと思うと、僕の心が強く痛んだ。昇はベッドの下からローションを取り出した。それを手に垂らすと、自らの指を何本か入れ始めた。苦しそうに顔を歪め、そこを準備する昇。僕は起き上がって昇にキスをした。先ほど自分がされたように、昇のいろんなところを舐めた。しばらくそうしていると、

「多分、もう、……大丈夫」

 そう言い僕を押し倒した。勃起した僕のものを掴んで、尻の穴に当てがった。

 僕は昇の初めてをもらうんだと思った。本当に良いのか? 僕にその資格があるのか? だけれど、本当にもしかしたら、それによって何かが劇的に変わるかもしれなかった。その可能性を、二人が信じていた。その時僕たちの心は一つだったと思う。

「入れる、ぞ」

 ゆっくりと昇が腰を下ろした。みちみちっと肉を割る音がして、僕の先端が昇の中に入った。はあーっと昇は一度深呼吸をした。僕は先端が入っただけで、その未知の感触に頭が飛びかけていた。見ると、結合部から血が流れていた。僕がそれに気づいたことを察したらしく、「平気だ、大丈夫だから」と昇は言い、「最後まで、入れるぞ」と言って、ずん、と腰を下ろした。

 全部が入った。

 僕たちはセックスをした。それは(少なくとも僕は)とても気持ちが良かった。昇はうわごとのように僕の名前を呼び、僕はそれに応えるようにキスをした。そうしながら腰を動かして、互いを求め合った。

 だけれど僕の中では何も変わらなかった。僕はとても興奮していたけれど、快楽に飲まれそうになったけれど、僕の中の化け物は相変わらずそこにいて、寧ろこの状況を、与えられる快楽を貪り食って吸収していた。

 僕は村上春樹の登場人物なんかより遥かに淫乱だった。彼らのセックスにあるささやかな紐帯さえ、僕の中には無かった。僕はただ快楽のためだけに、愛情を全く抱かずに腰を振った。

 さすがに中には出せなかったので、僕はイく直前にちんこを抜いて外に出した。そして興奮の収まらない昇のそれをしゃぶった。昇は何度も僕の名前を叫んで、僕の口の中に出した。僕にできることはそれくらいだった。

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