21

 待ち合わせの十分前なのに、もう昇はそこにいた。

「早いね、待った?」

「いや、さっき来たとこ。んじゃ、行こうか」

 昇はさっさと歩き出す。僕は慌てて後を追う。正しい距離感が分からない。横に並べば良いに決まってるのに、どうしても気後れしてしまう。そもそも、今の僕たちの関係自体曖昧なのだ。

 僕は全てを洗いざらい昇に話した。僕が今好きなのは雪穂だということ。でも昇でオナニーしたこと。箭内が言うように、自分が常識に囚われているのかもしれない、でも自分の中ではなんとなくそうではない気がしているということ、僕の中に存在するねじれについて。僕は話しながら泣いてしまった。昇は大きな体で僕を抱きしめた。昇は体温が高いのか、布団にくるまれてるみたいな感じだった。

「付き合おう」

 昇は言った。

「俺でオナニーしたんだろ、だったら、可能性はある」

「好きなのが雪穂でも?」

「構わない」

 そう言われて、僕には拒否する理由がなくなってしまった。

 だからつまり恋人なのだ。だけれどお互いに『実験』だと思っている。なぜなら、僕は昇を愛してないから。

 僕は「形」を先に作り上げることにしたのだ。

 前を歩く昇の大きな背中を見ながら、そういえば雪穂も好きではない相手に告白されて付き合ってるのだということを思い出した。

 僕は色んなことを複雑に考えすぎなのだろうか。物事の全てが理想の形にならないと納得できないのだろうか。世間では別にこんな状態は「普通」なんだろうか。僕が罪悪感を覚えるのは潔癖すぎるだろうか。

「わりぃ、歩くの早かったな」

 そう言って昇が振り返った。そうだ、隣を歩こう。それが「普通」だ。友達だって、恋人だって。

 僕たちはあの漫画の専門店に向かっていた。あれ以来、昇はBLにハマってしまったらしい。

「どうして今まで読んでなかったの?」

 と尋ねると、

「いや。多分ゲイでも読んでるのは少数派なんじゃないか? やっぱり女の書いたもんだから、リアリティなんてどうせないだろうって思ってたし」

 昇はちょっと躊躇した後、

「でもあの日雪穂さんに紹介してもらったのは全部面白かったんだよ。あの人、見る目あるな」

 と言った。昇はどういう気持ちで雪穂の名前を出したのだろう。

 漫画店につき、女性向けのフロアに上がる。いつになく、若い女子でごった返していた。

「それにしてもすごい量だよな」

 昇がフロアを見回して言う。改めて言われると確かにその通りだった。ワンフロア全てがそういう漫画だ。街中の小さな本屋のワンコーナーとは規模が違う。

「ネットで見かけて気になったのがあってさ……」

 そう言いながら昇は移動した。慣れた感じで、あの後何度かここに来ているのだな、と分かった。

「ああ、これこれ」

 表紙をこちらに向けて棚に置かれていた漫画を昇は手に取った。その人の別の作品を読んだことがあった。

「その人だったら、前に出た他のも面白かったよ」

「え、ほんと? だったらそっち先に買おうかな」

 そう言って漫画を棚に戻す。ええと、どこの出版社だったっけ。BL作家の人は、色んな出版社で書くことが多いから、棚が分散して配置されていることが多いのだ。僕が周囲を見回していると、何人かの女性が明らかに視線をさっと逸らすのが見えた。あからさまにこちらを指差している年下の女子二人組もいた。

 雪穂と来たときはそんなことは無かった。ただの付き添いだと思われたのだろう。

 一人で来たときも、ここまででは無かった。そういう趣味がある人間、でもゲイかは分からない、という感じだったのだろう。

 だけれど男二人で来ていたら。明らかに冷やかしではなく、真面目に漫画を選んでいたら。

 彼女たちが特に妄想が好きだから、とは言えないだろう。多分、ほとんどの人がごく自然にそういうこと(傍点)なのだろうと思うだろう。そして実際そうなのだ、だけれど、僕はその、極めて露骨な好奇の視線に晒されるのは初めてだった。

「どうした?」

 昇が僕の肩に手を置いた。止めてほしい、と思った。それすら食いものにされるんじゃないかと僕は恐れた。

 箭内は自分でカミングアウトする道を選んだ。それは常にこの視線に晒されるということなのだ。どれだけの決意があればできるだろう。

「こっち」

 僕は素知らぬ振りをして人混みを縫って歩き、目的の漫画を見つけると昇に渡した。常に肌に視線が刺さっている感覚がした。早くここを立ち去りたかった。

 『弱肉強食』という雪穂の言葉が蘇った。女子は常にこんな目で見られているんだろうか。電車で、学校で、街中で。僕だったら耐えられない。

 昇は結局他にも三冊漫画を選んで購入した。

 店を出た後も、僕の不安な気持ちは続いた。僕たちはどう見えるのだろう。友達に決まってる。そう思ったけれど、実際そうではないのだから、不安は消えない。

「どうしたんだよ、ちょっと様子おかしいぞ」

「いや、その、視線が気になって」

 なるべく昇に嘘はつかないでおこうと決めていた。半ば予想はしていたけれど、昇はやはり傷ついた顔をした。

「そう見られたら嫌か」

「うん、なんか、居心地悪い」

「まあ、そりゃそうだよなあ。俺だって良い気はしないもん」

「本当?」

「だから黙ってるんじゃん。紡みたいになれる奴はほとんどいないよ。大丈夫。さっきの場所はアレだったけど、普通の友達にしか見えないから、安心しろって」

 そう言って昇は僕の肩を抱き寄せた。その行為自体がどう見えるか、と思ったけれど、視線を上げると、通行人は皆スマホを見るか、うつろに行く先を見ているかで、誰も僕たちのことなんて見ていなかった。

 その後ファストフードで昼食を済まし、予定だったパフェの店に行くと、店内は女子ばかりだった。

「混んでるしやめとくか」

 と昇は言った。行きたがっていた場所なのに、多分自分のことを思ってそう言ったのだと分かった。大丈夫だから、と言おうと思ったけれど、先ほどの好奇の視線が蘇って僕の言葉を遮った。

 結局他に大して行く場所もなく、カラオケに行くことになった。三十分ほどの待ち時間、昇は野球部のことについて話をした。今まで昇から部活の話を聞いたことはほとんどなかったので、僕から話題を振ったのだ。毎朝六時半からの朝練、夜は七時まで、話を聞いているだけで僕には到底無理だと思えた。そのモチベーションがどこから来るのか知りたかった。

 やがて部屋に通された。カラオケ店特有の薄暗い部屋だ。順番の関係か、かなり広い部屋に通されたが、昇はすぐ隣に座った。僕が女性歌手の歌を一オクターブ下げて歌っていると、昇が手を重ねてきた。大きな手だった。野球のせいかマメができていて、皮が厚くごつごつした手だ。僕は動揺したけれど歌い続けた。その続きがあるかと思ったけれど、昇はそれ以上何もせず、自分の歌の番になると手を離した。

 カラオケが終わると外は日が傾き始めており、僕たちは帰ることにした。

 僕たちの目の前を高校生らしきカップルが幸せそうに手を繋ぎ、見つめ合い、笑い合っている。

「手繋げたら良いのにな」

 昇がぼそっと言った。

「でもできないな」

 そう言って僕に笑いかける。それは、周りの目があるからできない、なのか、僕の気持ちが中途半端だからできない、なのか、その両方なのか、分からなかった。僕は目を伏せた。

 帰りの電車、昇と別れたあと、一人きりで席に座りながら向かいの窓を流れていく景色を見ていた。付き合い始めてしばらく経ち、昇は部活が忙しかったので、今日が初めてのデートだったけれど、やはり、自分の中に昇に対する恋愛感情は微塵も見つけることができなかった。スマホが震えた。

『今日は一日ありがとう。今度のオフもまた遊ぼうな』

 僕の選択は果たして正しいのだろうか。分からなかった。

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