19

 学校に行くのは憂鬱だった。サボってしまいたい。そう思ったけれど、多分僕がサボったら昇が傷つくと思い、学校へ向かった。

 教室はいつもの喧騒で、皆が楽しそうにそれぞれ話に興じていた。週刊漫画のグラビアを覗き込む運動部員、アニメの感想を語り合う帰宅部、彼女の愚痴をこぼす文化部員、誰も僕みたいな化け物を抱えていない。前の席には箭内が座って、いつものように本を読んでいる。多分、昨日買った本のどれかだろう。僕は席に着くと、全てを遮蔽するように机の上で腕を組んで頭をそこに収めた。席につく音で気づいたのだろう、箭内が椅子を動かす音が聞こえた。 

「おはよう」

 いつになく優しい声だった。僕は寝た振りを決め込んだ。

「お前のこと昇に言ったのは、悪かったと思ってる」

 僕は瞑っていた目により力を入れた。目は塞げるのに耳は塞げないことを呪わしく思った。

「俺自身中学で同じ目に遭ったから、裏切られた気持ちになるのは当たり前だと思う。お前が怒るのは当然だと思う。でも俺は、ずっとゲイだったから、——これはすごい傲慢かもしれないけど——そういうことについては人よりちょっと物が見えるんじゃないかって思ってる。ふざけるな、余計な御世話だと思うなら怒ってくれて良い。絶交されても仕方ないことをしたって分かってる。でも昇の相談とお前の相談を両方聞いて、多分これが一番良い結果になるんじゃないかって思ったんだ」

 そういえば雪穂は、まず昇と箭内をくっつけて、次に俺と箭内をくっつけたんだったか、と思い出していた。そのとき昇は、良きアドバイザーだった。雪穂の妄想力もまだまだだ。まさかくっつくのが俺と昇で、アドバイザーが箭内だなんて。

「昇はお前のことが好きで、でも誰にも言えないで悩んでた。お前はゲイかもしれないことを受け止めきれずに、ずっと立ち止まってる。昇がお前の悩みを晴らしてくれるんじゃないかって思った」

 だからそこが違うんだ、と僕は言いたかった。僕は分かってるんだ、僕は男に興奮するんだ。だけど僕が好きなのは雪穂なんだ。

 箭内にも分かってもらえないんだ。僕の心の中の化け物を。

 箭内はとんちんかんなことを言った。

「多分お前の心にはまだどこかでホモを差別する感情があるんだと思う」

「そんなの、ない!」

 僕は寝た振りも忘れ、思わず大きな声で否定した。顔を上げることはできなかった。だから箭内がどんな顔をし、何を考えたかはよく分からない。

「じゃあ、お前の中にがっしりと、『男は女を愛するものだ』って常識が巣食ってるか」

 以前箭内に言われた言葉だ。『ロマンチック・ラブ・イデオロギー』。それが僕の中の化け物の正体なんだろうか。そいつを退治すれば、僕は晴れてゲイになれるのだろうか。僕は黙った。

「昇は、自分が実験体で構わないって言ってる。付き合ってみて、自分がゲイじゃないってお前が分かったら、それはそれで前進だって。それで振られても、全然構わないって言ってる。それくらい本気でお前のことが好きなんだよ」

 昇はどうして、僕のことをそんなに好きなんだろう? 僕の何が昇をそうさせているのだろう? 僕のどこにそんな価値があるのだろう?

「まあ勿論、そもそもお前が昇が全然タイプじゃないって可能性も、勿論あるんだけどな」

 そう言って箭内は少し笑った。

「でもそれはないだろう? あいつ、『空想少年』に出てくる野球部にそっくりだもんな」

 そう言われて、ああ、その通りだ、と思った。保健室で主人公にずっと優しく語りかける野球部のエース。人の良さそうな顔と、逞しい体と、皆の前では剽軽で、だけど一途に主人公を愛する男。最初は心を閉ざしていた主人公が、徐々に心を開いていく物語。僕はあの主人公のように、受け取った愛に何かを返してやることができるだろうか。

 だけれど僕の心の中には——。

「はよーっす」

 昇の声が聞こえた。僕の全身が緊張した。

「寝てる?」

 小声で箭内に尋ねる。箭内がどう答えたかは分からなかったが、昇が話しかけてくることは無かった。

 ——昇が、この化け物ごと僕を愛してくれるなら。

 僕は腕の中の真っ黒な闇を見つめながら考える。

 僕はそれに、何か返さなければならないのではないか。

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