18

 雪穂に会いたい。家に帰ると真っ先にそう思った。晩ご飯の時間だけれど、今まではそんなことを気にせずに互いにファミレスに呼び出しあっていた。

 だけれどできない。今雪穂は恋人がいるのだ。付き合い始めたと聞いてから、僕は極力雪穂に連絡しないようにしてきた。例えば彼氏が独占欲の強い男だったら、幼馴染とはいえ男と二人で食事をすることなんて許さないかもしれない。仮にそんなことなくても、他の男と連絡を取ること自体、やはり歓迎する男は少ないのではないか。それに自分が雪穂に好意を持っていると自覚してしまっては尚更、人の彼女に連絡するのは憚られた。雪穂からは時折、なんでもないようなメッセージが届いたけれど、僕はわざとなるべく会話が続かないような返信をした。僕には、雪穂との適切な距離がすっかり分からなくなっていた。

 大体、実際雪穂と会ったとして、一体何を話せば良いのか?

 そういえば、雪穂に昇がゲイだと妄想されて怒ったこともあったと思い出す。今じゃ三人ともゲイだ。雪穂が聞いたらどう思うだろう。そして「ゲイ」の僕が、雪穂のことが「好き」だなんて言っても、全く理解できないのではないか。自分自身、意味不明なのだから。

 そう、意味不明だ。

 僕は箭内と昇のことを考えた。二人は純粋に、こんな意味不明な僕のことを心配してくれただけなのだろう。

 昇のことを思った。まっすぐ自分を見つめて告白をしてきた初めての人間だった。カモフラージュに使われた女子のことを思うと胸が痛んだが、「女子の恋は上書き保存」なんていうふざけた俗説が事実なら、すぐに忘れ去られるものかもしれなかった。

 誰かに愛される日が来るなんて、思ってもみなかった。どんな恋愛小説を読んでも、ボーイズラブを読んでも、それは空想の中のものでしか無かった。小説の中で人々がいとも容易く恋に落ちるのが分からなかった。主人公たちは唐突にキスし始めた。どこにそのスイッチがあったのか、読み返しても分からなかった。雪穂のことが好きなんだと実感してからも、自分が好かれるということは想像できなかった。

 僕の脳裏に、今日の昇の体が蘇った。シャツに浮き出た鍛えられた肉体。ボウリングで汗が少し滲んでいる。頭の中で記憶が勝手に漁られて、体育の着替えのときの昇の体が再生される。自分の体とは全く違う、全体的にどっしりとした肉体。絞られた筋肉のついた箭内とは違って、胴回りがほとんどくびれていない体。膨らんだ胸に、その先端の小さな乳首。

 僕の頭の中に蓄積された膨大なBLと、その体が結びつく。今までファンタジーでしかなかった、おかずにしたこともなかったそれらの漫画が、質感を帯びてリアルになる。昇は僕のことを好きだと言った。漫画の中で愛し合っていた人たちがしたように、昇は僕としてくれるんだろうか。気がつくと僕はズボンの中に手を突っ込んで、熱を帯び汁を垂らすそれを一心不乱にしごきあげていた。昇が僕のものをしゃぶるところ、寝転がった僕に昇が股がって、昇の中に入れるところ。野球部で鍛えた健脚で昇は自ら腰を動かして、昇は喘いでいる。とても気持ちよさそうに。昇は繋がったまま体を倒して、僕の顔に近づき、唇を重ね、そして舌を入れて——。

 気がつくと頭が真っ白に飛んで、手にべたべたの液体がかかっていた。パンツの中はぐしょぐしょだった。荒い呼吸で僕は精子に塗れた自分の手を見ていた。僕はなんとなく、それを舐めた。口の中にへばりついて、青臭い匂いが鼻に広がる。とても苦い。思わず飲み込んでしまっても、口の中にいつまでも感触が残っていた。漫画では嬉々として飲み込んだりするけれど、やっぱりファンタジーなんだな、と思った。

 ベッドの上でぼんやりしているとスマホが震えた。僕は汚れていない方の手で画面を点けた。昇からのメッセージだ。

『今日はごめん。色々本当に申し訳ないと思ってる。でも本気だから。返事はいつでもいいから。ずっと待ってる』

 今しがた君でオナニーしたところです、などと送れるはずもなく、僕はそのメッセージに返信することができなかった。

 昇を相手にセックスをする妄想であんなに興奮したのに、僕の心の中心にいたのは雪穂だった。僕の心は引き裂かれていた。性欲と恋愛感情が、僕の中では完全に逆の方向を向いているのだと思った。僕は雪穂のことを愛していると言いながら他の男を思ってオナニーをして、昇をオナニーのおかずに使いながら他の女を愛していた。

 こんなに不誠実な人間がいるだろうか。浮気や不倫どころでは無い。僕は気持ちが冷めたとか、一時の気の迷いでそうしている訳ではないのだ。がそうできあがっている。僕は自分の手がザーメン塗れなのを忘れて、両手に顔を埋めて声を殺して泣いた。僕はゲイだ、そう断言できる二人が羨ましかった。愛していることを素直に誇れる二人が妬ましかった。僕の歪な心にあるのは、愛と性欲のねじれた得体の知れない化け物だった。名前が欲しい。いや、名前をつけても何も変わらない。は、誰のことも幸せにすることができない。僕は一生このままなのだろうか。一生この化け物と付き合って生きていかなければならないのだろうか。僕の口から泣き声が漏れた。僕はゲイになりたい。差別されても、気持ち悪がられても構わない。愛と性欲を結びつけたい。愛してくれた人をちゃんと愛したい。そして愛する人と、愛のあるセックスがしたい。

 母親が晩ご飯を告げる声が聞こえてもなお、僕は泣き止むことができなかった。

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