17
軽快な音を立てて、ピンが勢い良く薙ぎ倒された。
「いぇーいストライク〜」
昇がガッツポーズを取ってくるくるまわる。もう三ゲーム目で、僕の親指の爪は割れかけているし、上腕ももう力が入らなくなっていたのだけれど、さすが体育会系の二人はまだまだ余裕そうだった。
三人で校外で遊ぶのは初めてだった。場所は埼玉県民大好き池袋だ。都民の箭内がいることを考えると、当然の選択だった。遊ぶきっかけは、僕が箭内に雪穂のことを話していたのを昇が盗み聞きしたことだった。最近部活で忙しく話す機会が減っていたことを、昇自身少し気にしていたらしい。
「最近二人でばっかり話してるけど、何話してるんだよ」
「何って、本の話とか」
箭内は僕のことは言わなかった。
「でもなんか今女子の話してただろー! 分かるんだぞ、そういうの」
昇は意外と耳敏い。僕は素直に、雪穂に彼氏ができたということを告げた。
「雪穂ってあの子か? あの漫画の子?」
僕は頷く。
「なんだよ、朗も失恋かぁ」
も?
「も、って何」
「あ、言ってなかったか。俺、別れたの」
「え、知らない。箭内知ってた?」
知らん、と言うと思った。
「知ってた」
マジかよ、と思った。
「っていうか早くない?」
「お、さらっとキツいこと言ってくれるねぇ。まあ、なんかイメージと違うって言われちゃってさー」
いやはや参ったね、と昇は頭をかいた。
「そうだ! 俺今度部活オフなんだけどさ、三人で遊ぼうぜ。カラオケでもボウリングでもいいからさ。残念パーティしようぜ!」
僕は正直残念パーティなんて気分では無かったのだけれど、三人で遊んだことは今まで一度も無かったので、せっかくだから、と了承した。箭内は関係なかったけれど、断る理由も無いようだった。
そして今日に至る。
「もう無理、限界。腕痛い」
二時間フリーゲームだけれど、これ以上続ける元気が無い。
「ひ弱だなぁ、朗は。そんなんじゃモテねぇぞお」
昇は随分攻撃的だ。振られてヤケになっているのだろうか。
結局次のゲームからは僕は脱落して、二人の争いを静観することにした。パーティだということで、持ち込み禁止のお菓子がテーブルの上に並んでいる。これならカラオケにした方が良かったのでは、と思ったけれど、僕はそれを食べることに専念した。
投球の準備をする昇の背中を眺めていると、
「まだ好きか、あの子のこと」
と箭内が聞いてきた。
「多分、好きだと思う」
正直な気持ちだった。昇がボールを投げた。足を後ろに出す綺麗なフォーム。
「自分がゲイだって受け入れるのに時間がかかる人もいる」
球が転がる。僕はぼんやりそれを見つめている。昇の左手から放たれたボールはカーブを描いて、一番ピンと二番ピンの間に吸い込まれる。理想的なコースだ。違うんだ。僕はもう分かってる。僕は男に興奮するんだ。それは間違いない。ピンが弾け飛び、互いを倒し合う。後には何も残らない。でも好きなんだ、雪穂のことが。多分それは、箭内には分かってもらえない。
「うん……そうかもね」
僕はそう言うことしかできない。喜びはしゃぐ昇に変わって箭内が立ち上がる。箭内は僕に微笑みかけた。その笑顔が辛かった。
「またなんか話してた?」
箭内に変わって昇が座る。まだ制服は衣替えしていないけれど、もう十分に暖かくて、昇はTシャツ一枚だった。野球で鍛えられた体のラインが良く出ている。僕はどきりとして視線を離した。
「なんか最近二人だけで色々話してるよな」
昇はしけたポテトチップスに手を伸ばした。
「まあ色々あるだろうけどさ、俺はちょっと寂しいよ」
昇がそんなことを言うのが意外だった。昇は野球部でも大勢の友人がいて、休み時間にしょっちゅう呼び出されていたし、他の運動部員なんかとも仲が良く、やっぱり僕と住む世界の違う人間なんだと思っていたから、まるで僕みたいなことを言うのに驚いた。
「それはこっちのセリフだよ、別れたこと箭内には言ったくせにさ」
「いや、朗にもちゃんと言うつもりだったんだけど、タイミングがさ」
昇はチョコレートを食べ、
「なんかあるなら、俺だって相談乗るぞ?」
と言ってきた。
「うん、ありがとう」
本心から嬉しかった。だけれど言えない。言っても理解してもらえない。周囲の騒がしい音が、一枚の薄い膜の向こうのもののように聴こえた。
結局途中脱落した僕は論外として、五ゲーム投げて三勝二敗で箭内の勝利だった。昇は自分が菓子まで持ってきたのに負けるなんて、と悔しがっていた。
池袋に来たからには、と大型書店へと移動する途中、昇が
「そういや紡最近彼氏さんとどんな感じなの」
と訊いて、箭内の恋人のことは自分と箭内しか知らないと思っていたので驚いた。昇が寂しがるように、自分の知らないところで箭内と昇も話をしているのだ。
「この間二丁目連れてってもらった」
「マジか。すげーってか年齢!」
「十八って嘘ついて、酒は飲まなかった。ばれなかったよ。いや、もしかしたら暗黙の了解で見過ごしてくれてたのかもしんないけど」
「で? どんな感じだった?」
「行ったのは先生の行きつけのバーで、うーんなんか正直何のために行くのか良く分かんなかったなあ。やっぱまだガキには早いのかも」
「どんな人いた?」
「めっちゃオカマ口調の人とかもいたけど、基本フツーだったよ。落ち着いた店だったし。ただ店員、店子(みせこ)って言うらしいけど、それは皆イケメンだった。ああ、んでめっちゃ体触られたわ」
「紡良い体してるもんなあ。俺も頑張って鍛えよ」
本屋に着くと、エスカレーターで文芸書のフロアに上がる。新刊のコーナーを見て、箭内は純文学の本を一冊手に取った。僕は好きな作家の新刊が出ていたけれど、お金がないので図書館で借りようと思う。文庫コーナーに移動すると、
「なんかさ、どんでん返しがすごいミステリ教えてくれよ」
と昇が言ってきた。どうやら先日、たまたま話題になっていたので読んだミステリがいたく面白かったらしく(僕も読んだ、確かに衝撃的などんでん返しのある作品だった)、似たような衝撃を味わいたいらしかった。僕は苦笑して、
「よくそういう質問されるんだけどさ、どんでん返しがあるって分かって読んでたらもうその時点でどんでん返しじゃなくなっちゃうんだよ」
と言った。昇はきょとんとしていたが、しばらくして「確かに」と納得したようだった。
「まあ勿論それを知って読んでも十分面白い作品、いっぱいあるけどさ。どうせならまっさらな状態で読んでほしいなあ」
などと宣う僕の横で、箭内は、
「ホームズでも読んどきゃいいんだよ」
と言いながら、新潮文庫の『シャーロック・ホームズの冒険』を昇の手に置いた。
「ミステリなんて古典でほぼ完成してんだから」
と言う。だけれどホームズには叙述トリックは出てこないぞ、と思ったが黙っていた。それに自分も、ホームズを全部読んだ訳ではなかった。
箭内はその後何冊か文庫を選んで(中には千円以上する文庫があって、昇が仰天していた)、僕はノベルスの新刊を買い(昇は見たことのないサイズの本に興味を示した)、昇はホームズを持ってレジに向かった。
もう日は傾きかけていたのでお開きになった。埼玉県民に無縁な地下鉄に乗るという箭内を見送ると、僕と昇は東武東上線のホームへ向かった。停まっていたのは各駅停車だった。
「次急行だし、待とうか」
「おう」
ベンチに腰掛けて、電車に吸い込まれていく乗客を見ていた。昇は疲れたのか急に黙り込んで、スマホをいじっている。やがて扉が閉まり電車が出て行った。向こうのホームで立ち尽くす女性の姿が見える。同じようにスマホをいじっている。僕は先ほど買った本を取り出し、書店でかけてもらった紙のカバーを外して、袖の部分の著者の言葉を読んだ。挑発的な言葉が並んでいて、面白そうだと思った。もしかしたら「どんでん返し」があるかもしれない。そう言えばこの作者のデビュー作はまさにそれだった。それとなく昇にオススメしよう。そんなことを思っていると、電車がホームに滑り込んだ。快速だ。早く乗らないと席が埋まってしまう。僕が立ち上がると、シャツの裾を昇が掴んだ。
「待って」
昇はスマホから視線を外さない。
「え、早く乗ろうよ」
「いいから」
そう言ってぐいと引っ張られた。仕方なく僕は座る。続々と客が乗り込んで、もう席は埋まってしまっているだろう。昇は相変らずスマホを見ている。僕は苛立ちを覚えた。
「何、どうしたの? 早く帰ろうよ」
「いいから、ちょっと待って」
「だから、どうしたのさ」
僕が声に怒気を含めると、昇はスマホをいじるのを止めた。そして、肘を膝に乗せ、祈るように額を拳の上に乗せた。長い溜息をつき、視線を上げ、乗客を見つめていた。僕は何も言わず昇を見つめていた。
「——好きだ」
昇が言った。喧騒に紛れてよく聞こえなかったが、多分、そう言った。何が好きなのか分からなかった。
昇はこちらを見た。まっすぐに、真摯な表情で。そしてもう一度、今度ははっきりと言った。
「お前が好きだ」
意味が分からなかった。何を言っているのだろう。僕が好き?
「初めて会ったときからずっと好きだった」
昇が余りにまっすぐに僕を見つめるから、僕は視線を外すことができない。初めて会ったときから? おかしい。
「でも、彼女、いた、じゃん」
それを言うと、昇は苦虫を噛んだ顔をして、初めて視線を逸らした。
「カモフラージュだった。紡と一緒にいるから、ゲイなんじゃないかって部員に言われた。冗談半分だったけど、そうじゃないって証明しないとだった」
僕はそれを聞いて、心の奥底から湧き上がるような怒りを覚えた。そんな、利用するようなことをしたら、女の子がかわいそうだ。昇は僕の表情を見て察したようだった。
「——仕方なかったんだ。体育会でゲイだってバレたら生きていけない。でも、キスもしてない。なるべく傷つけないように別れたつもりだ」
ひどい言い訳だと思った。だけれど、体育会でゲイがバレることは、僕の想像より遥かに過酷なのかもしれないと思った。彼らはまるでゲイなんじゃないかというくらいベタベタくっついている。でもそれは、お互いがゲイじゃないという前提があるからこそのことなのだ。もしそれが揺らいだら。
「野球を続けたかった」
他に方法はなかったのか、という思いは消えなかった。だけれど、多分昇にはそうする以外の道はなかったのだろうと思った。昇は僕と違う世界に生きている。僕と抱えているものの量が違いすぎる。やがて昇は語り始めた。
「ずっとゲイだった。誰にも言えなかった。中学で女子と付き合ったけど、キスをしてやっぱり違うって思った。それで高校でお前に会った」
僕の何が良かったのだろう。僕は体を鍛えてもいないし、顔も地味だし、面白い話ができるわけでもない。僕のことを好きになる理由がわからない。
「好きになるのに理由はいらない。まあ、顔が好きだったっていうのが、最初だけど」
「僕みたいな不細工より、紡の方がよっぽどイケメンだよ」
「俺は紡よりお前の顔の方が好きだ。お前の顔を見てると癒されるよ。笑顔が好きだ」
僕は余りの恥ずかしさに黙り込んだ。
「それに紡に会った。自己紹介を聞いたときは本当にびっくりしたけど、同じ境遇の人間に会うのは初めてだったから、興奮した。すぐに打ち明けた。自分がゲイだって」
それを聞いて驚いた。自分の知らないところでそんなことになっていたなんて。
「お前が好きだってこともずっと相談してた。でも告白するつもりはなかった。紡も最初は止めてた。紡は中学のとき、クラスメイトに告白していじめられるようになったから」
箭内が埼玉の高校に来た理由。
「でもBLを読んでるとか、そういう話を聞く内に、告白しても大丈夫なんじゃないかって思うようになった。少なくとも言いふらされたりはしないだろうって。でもお前があの女の子と一緒にいるのを見て、やっぱり止めようと思った。お前はあの女の子に惚れてるんだと思った」
やっぱりそう見えるんだ、と思った。
「でも——違うんだろう?」
昇が、息苦しそうな顔をしてこちらを見た。
「謝らなきゃいけない。お前の秘密を知ってることを」
心臓が震えた。
「お前も——ゲイなんだろ? 紡に聞いた」
指先から力が抜ける気がした。聞いた。どこまで? どこから? あのトイレのことも?
「まだ迷ってるんだろ? わかるよ、受け入れられない気持ち。なあ、はっきりさせないか? 俺と付き合ってみれば、本当のことがわかるんじゃないか?」
雪穂の言う通りだ。他人にバラされるか自分から言いだすかは、本当に違う。僕の頭が赤く怒りに染まるのが分かる。僕の気持ちが滲み出ていたのか、
「紡は悪くない。俺がカマをかけたんだ。確かにあの女の子のことを好きなんだろうって思った。でもあのとき勧められた漫画を読んで、これを読んでる人間がノンケだとも思えないと思った。最近二人で何か話しこんでたから、何を話してたのか教えてくれってせがんだ。それで一か八かお前がゲイかどうか悩んでるんじゃないかって言ったら、当たりだった。俺が無理に聞き出したんだ。紡は責めないでくれ」
僕は静かに目を瞑って、深呼吸をしていた。
「それに紡はお前のことを思って、お前がいつまでも迷わないようにって。だから俺も告白することにした」
僕は自分の感情の置き場所を完全に見失っていた。昇は僕のことが好きで、だから無理に聞き出した。紡は僕のふらふらした態度を心配した。誰にも悪意は無い。だけれど、僕のいないところで、僕の大事な心の問題がやりとりされた。それに何より、僕はゲイか迷ってるんじゃない。ゲイであることを受け入れられてないから、雪穂を好きだと思い込もうとしているんじゃない。僕は本当に雪穂のことが好きなんだ。少なくとも、僕はそう思っている。
「ごめん、今は、返事はできない」
怒り散らそうとするのをなんとか抑えて、僕は言った。
「朗——」
「帰る」
ホームに、発車のベルが鳴り響いた。各駅停車だったけれど、僕は滑り込むように電車に乗り込んだ。ホームを振り返ることはできなかった。
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