第2話 生まれたのはペンギンだった?
私は田舎の町に12月の雪の降る日に生まれた。私の両親にとって初めての子供であった。以外と大きく3000g位だったそうだ、母は出産に不安もあった。父は長距離トラックの運転手で、その日も他県へ荷物を搬送していた。母から私が生まれた時は不安だったと父に言ったが、父は笑っていた。私はそんな父の笑顔が大好きだった。私も父親になるのだが、よく仕事ができたなぁと感心していた。私なら、いくら家計のためとは言っても、まともに仕事ができないからだ。どれだけ心配していたのだろう。笑っていた父を見ながら考えていた。そんな私は生まれた時は羊水を飲んで生まれてからも大変だった。産声をあげ、この世界に生きる資格を得た。尊厳を持ち生まれ人権を得たのだ。私の父も[ますおさん]だった。母方の家に住み、母方の祖父母と共に生活していた。母や祖母から食べ物を与えられ、すくすく成長していったある日、私は捕まり立ちが遅く歩き方も変だった。そして、県立の病院へ行きレントゲンを撮影した。母は医者から私の足の骨を見せられ、「大きい病気ではありませんが、両足の股関節を脱臼したまま生まれたようですね」そう告げられた、女児に多く見られる先天性股関節脱臼と言われた。祖母も片足を脱臼して生まれていたようだ、医大病院へ紹介され両足をギプスで固定する私腰回りから膝辺りまで固定されており、歩くとペンギンのようだった。それでも笑いながら歩く練習をする私を見て、祖母は泣いていたという。「私がこうだったからかな」泣いている祖母を慰める母、父は「大丈夫だから、命に変わりはないんだから」そう言ったそうです。祖母もありがとうと泣いていたそうです。そんな私は変わりなく過ごしていき、母は医大に行ったり泊まったりと初めての息子の子育てが病院から始まると思っていなかっただろう。この後、私には弟が3人できる。
そんなペンギンさんは、半年という時間を入院して過ごしていた。入院中に髄膜炎になったりして、大変だったと母は言っていた。ペンギンさんの私は正座や胡座をかく事ができず、女の子座りを良くするようになる。退院後は週に一回、2週間に一回、一ヶ月に一回と感覚が延びていく、それに通うため両親はどれだけ大変だったのだろう。保育園生活は何ら変わりは無かった、足も気をつけていたし、足以外は普通の気弱な男の子だった。祖母は私が保育園の頃に、癌で亡くなった。私は祖母が好きだった。兄弟ができると、弟に親の目は行ってしまう。長男長女に生まれた人は分かると思います。そんな心のスキマを埋めてくれたのは、祖父母であった人も多いのではないかと私は思う。私には保育園や小学校の記憶はあまりない。しかし、小学校は[いじめ]の記憶があった。私は、いじめられていた。ランドセルを8個持たされたり、路上に生えている雑草を食べさせられたり、ティッシュを食べさせられたり、五年生の頃には不登校になる。担任の先生も家に来た。あの頃も父は仕事で家にいない。父は喧嘩ができて強かった、父一人に対し多人数で喧嘩になったが、瓶を割った物を手にしている父が勝った、傷つけたりはしていなかったそうだ。そんな話をされたが、私には
「父さんだからできたんだ、自分にはできない。こんなことで学校に行きたくないんだから」
それでも父は普通にしていた。私を見ていた。そんな父の視線が重かった。だが、嬉しかった。
それから一ヶ月で登校を始め、卒業に至る。私の幼い頃はそんな記憶で一杯だった。中学校に上がり中学一年の辺りには、股関節脱臼で運動制限があったが制限がなくなり普通に部活をした。
私は書いていないが野球をしており、万年補欠だったが父は、「お前はへたくそだったが、努力する才能がある!」と嬉しそうに言っていた。この言葉は父にとっては誉め言葉だったのだが、私には当たり前の事で努力をすることは誰でもできること!そう思っていた。その言葉は大人になってもひきずっていくのである。
そして、私は高校生になった
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明日はくる、ぼくらをおいて @moti1222
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