第30話 ずっと独りでいてね
民家の外れにひっそり建っている空き家の陰で、ラントはぺブルを抱いて息を潜めていた。
五件ほど先の家屋は既に燃えているもののこの空き家付近はまだバステラ軍が侵入しておらず、生い茂る草に隠れてやり過ごすことができる。
「お母さんは。お母さんはどこ?」
たった今行われている惨状をどうにか見せないようにしても、ぺブルは全身を震わせて母を求めている。
「きっとどこかにいる」
「ぺブルお母さんに会いたい」
「黙ってろ。奴らに見つかる」
ラントが言うと、ぺブルはきゅうと口をすぼめて俯いた。
兵士に見つかればどうなるか、幼いながらに理解はしているのだろう。
だからこんなに全身を震わせている。
「何が起きてるの、お兄ちゃん」
「敵の陣地争いに巻き込まれたんだ」
「ぺブルとお母さんはどうなるの? お兄ちゃんは?」
「黙れ」
努めてひそひそと話すぺブルの口を片手でふさいで、ラントはぺブルに釘を刺した。
強い口調に小さな身体はさらに小さくなり、怯えて固まっている。
しかし仕方がないのだ。
この小さくて単純で玩具のように脆い器に入った命を守るには、もうなりふり構っていられない。
なんとしても守り抜くためなら、怯えられても嫌われてもかまわない。
ガサガサと草木が揺れる音がしてはっと辺りを見る。
ぺブルを抱く手に力が入る。呼応するように、ぺブルもラントの胸に顔を埋めて小さな瞳だけを動かし辺りを伺う。
誰かがいる。人の気配がするが、なにか探るように揺れる草の葉に、今この国を襲う兵士の勢いは感じられなかった。
様子をうかがうようにゆっくりと気配が近づくと、やがて見慣れたひっつめ髪が姿を現す。
「お母さん!」
ぺブルが絶叫して、ラントは慌ててそれを制止した。
「ぺブル! こんなところにいたのかい!」
いつだったか、ぺブルが父を探してこの国を飛び出した時のように、パドラは頭に絹のはちまきのようなものを巻いていた。
とは言え、艶やかな生地は燃えかすがついて濁り、さらには額の汗でびっしょりと濡れている。
何度洗濯してもくたびれない丈夫なシービアは灰だらけで、裾は焦げて爛れていた。
ぺブルがラントの腕をすり抜け、パドラに向かって走り出す。
一瞬の出来事だった。
身体の小さな子供だと侮っていたわけではない。
それでもラントの制止を振り切って、ありったけの力を込めて草木を抜け、母の元へ向かったのだ。
あ、と声を上げた時には遅かった。
精悍な眉が下がり涙ぐんだパドラの顔も、その後一瞬にして険しく歪む。
走っているぺブルの背後に兵士が立っていた。
「ぺブル!」
暴走した荷車のようにふくよかな身体が飛び上がる。
気配を察したぺブルが立ち止まり歪な影を見上げた頃には、影の主は剣を振り上げていた。
青く澄んだ瞳が、自分に向かう血だらけの刃を見据える。
兵士が剣を振り下ろした時、パドラがぺブルに覆いかぶさるように抱きしめた。
「やめろー!!」
ラントは立ち上がった。と同時に作物が潰れるような鈍い音がして、嫋やかに揺れていた草花に大量の血が飛び散る。
兵士はかまわずすぐにもう一太刀浴びせた。今度は上から下に、押し込むように。
踊るように小気味良く家や畑が燃える音、戦場をもろともせず吹き抜ける風の音。それら全ての音が、ラントの世界から消えた。
すぐ目の前で、気丈で豪快で、情に脆く優しい親子が折り重なって倒れている。
ラントはふらふらと歩き出した。
剣を煩わしそうに振って血を落としている兵士に掴みかかる。
怒りか悲しみか憎しみか、感情が身体の底からせり上がって怒鳴り声を上げたが、言葉にならない。ただ、殺してやる。そう思った。
兵士は息を漏らして剣を振り上げると、そのまま鞘の部分をラントの首めがけて振り下ろした。
あっけなくラントは地面にひっくり返る。
首から頭にかけて痺れるような痛みに襲われて、立ち上がりたくても身体が動かない。
「お前はマヌスの人間じゃないな。ああ、顔が違う」
曇った声には安堵の色が見て取れた。兜をつけていないその下級兵士は、角ばった輪郭に太く雄々しい眉を上下させているが、そのどこか怯えたような表情は、ラントと年齢も変わらないのではないかと思うほどの幼さも見え隠れしている。
「だったら見逃してやる。こいつらみたいになりたくなきゃさっさとこの国を出るんだな」
冷静で淡々とした声が、ほんの少しだけ震えている。逞しい甲冑の男は狼狽していた。
兵士が去っていくと、ラントは這うようにして横たわる二人ににじり寄った。
パドラは駄目だった。うっすらと開いている瞳からは生気は感じられず、口からは血を流している。何より、ぺブルに覆いかぶさって背中いっぱいに真一文字の傷を受けており、着ていたシービアは元の色が分からないほど真っ赤に染まっていた。
死んでいるパドラの胸の中で、か細い呻き声が聞こえた。
慌ててパドラから引き離し小さな身体を引き寄せると、ぺブルが宙を見ながら涙を流している。
ぺブル、しっかりしろ。そう呼びかけてもまるで聞こえておらず、痛みと混乱の中でぺブルは一人耐えて歯を食いしばり、喘ぎ、そして手当をする間もなくすぐにその声はか細く遠のいていき、すぐにラントの腕の中で息を引き取った。
仲睦まじい親子はそうやって死んだ。ラントは、その場で絞り上げるように泣いた。
国の息の根を止める業火が容赦なく迫り、すぐそばの草木までもがされるがままに燃え始める。
かつて家だったもの、そして国を育む大地だったものが簡素な灰となりラントの頬や髪を掠める。火の手がすぐそばまで迫っても、かまわずラントは泣き続けた。
火の粉が降りかかる赤髪を、ひんやりとした手が撫でる。
細く華奢で、冷たい身体がラントを覆うように抱きしめた。
「また独りになっちゃったね。本当に可哀想な子」
ティアの白い肌が赤い炎に染まって、不気味に光っている。
その華奢な指はラントの涙と唾液を丁寧に拭うと、涙を流し続ける瞳を優しく覆い、なにも見えなくした。
「でも大丈夫、あなたには私がいる。ううん、私しかいない。だからこうやってずっと独りでいてね、ラント」
泣きじゃくるラントはティアにしがみついてさらに泣いた。
笑ってそれを受け止めるティアの表情は言葉とは裏腹に、どこか乾いて、物憂げであった。
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