靴を脱ぎ、上履きに履き替える。靴箱の扉を閉めると、榎本がこちらにやってきた。

「おはよう、二宮」

 貼り付いたような笑み、気持ちが悪い。

「おはようございます、先生」

「今日の体育、体力テストだからクラスメイトと組めよ」

「はい、わかりました」

 わたしが言うと、榎本は職員室の方に歩いていった。その後ろをスカート丈の短い同級生たちがついていく。親に縋るカルガモのようだ。

 着くと、教室を異質な空気が包んでいた。いつものスポットライトはどこにも見えず、暗い劇場でエキストラだけが騒々しい。トップアイドルの姿は、見えない。

「お、おはよう」

 いつもなら話しかけない隣席の学ランへ話しかける。

「おはよ、二宮」

 話したこともないはずなのに、快い返事があった。その時、視界が白んだ。ふと太陽を視界に入れてしまったような、突如懐中電灯を向けられたような、そんな感覚。

「まぶしいね、スミレちゃん」

 後ろから子供っぽい声が聞こえ、振り返る。ドアにもたれかかってこっちを見るほたるは東からの陽に照らされ、顔が陰って見えない。何を思っているのか、わからない。

「ほたる」

「おはよう」

 彼女はわたしに抱き着くと、その子供らしさからは想像もできないくらいのつややかな手つきで、わたしを抱きしめた。ふんわりと、どこか懐かしいような、甘くて爽やかな香りが鼻腔を刺激する。シャンプーでもヘアオイルでも表せない、特別な香り。彼女の匂いをわたしは、どこかで嗅いだことがある気がする。

「今日、体育テストらしいよ。さっき榎本先生が言ってた」

 わたしの聞いた情報を、既に彼女は知っていた。その情報は教室に響いたようで、背後から同級生の声がする。マジで、嫌だな、だりぃ、早く言え、等々。

「スミレちゃんって、髪の毛きれいだね」

 ざわつく教室を尻目に、彼女は言う。わたしの髪に手を通しながら、彼女に見つめられた。

「髪の毛だけ、ね」

「あたし、髪の毛きれいじゃないから、羨ましいよ」

 彼女は目を細めて言う。無邪気な笑みに、わたしの口角も上がる。

「そうかな」

「そうだよ」

 いったいどうして、こんなにも可愛らしい彼女が、わたしのことを見ているのだろう。ついこの間まで、わたしは彼女を見ているだけだったのに。それだけでよかったのに。

「そろそろチャイム鳴るぞお」

 担任の桜井先生がガラガラとドアを開け、教室に入ってくる。

「じゃあ、またあとでね」

 彼女はそう言い、自分の席へと駆けていった。

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