第二話 経験
目を覚ましてから、どれくらいの時間が経ったのかはわからない。
ただ、壊れた屋根の隙間から差し込む光が、夜のそれではなくなっていた。空が、わずかに白んでいる。
荒かった呼吸は、いつの間にか落ち着いていた。
肺の奥まで空気が入り、吐き出すたびに胸が静かに上下する。
さっきまで耳の奥で鳴り続けていた心臓の音も、今はただの鼓動に戻っていた。
「……俺は、ラグナだ」
小屋の床に座り込み、低く呟く。
喉はまだ乾いているが、その声は確かに“今の自分”のものだった。
「ハルドなんかじゃない」
もう一度、はっきりと言う。
頭の奥に別の声が割り込んでくることはない。
名前を呼ばれることも、押し流される感覚も、今はない。
……大丈夫だ。
意識ははっきりしている。
思考も、感情も、ちゃんと自分の手の中にある。
「くっそ……」
思わず、息と一緒に笑いにもならない音が漏れた。
「前世の自分に、消されかけるなんて……」
冗談みたいな話だ。
だが、あの夜に感じた恐怖は、現実だった。
自分が自分でなくなっていく、あの感覚。
思い出すだけで、背中に薄く冷たいものが這う。
それでも――。
頭の奥に、確かに“もう一つ分”の記憶がある。
消えてはいない。
むしろ、無理やり押し込まれたものが、整理されて、そこに居座っている。
「……二つ、か」
人生が二つ分、重なっているような感覚。
自分が経験していないはずの出来事が、知識として、感覚として、理解できてしまう。
しばらく、黙り込む。
「……変な気分だな」
ため息を吐き、腕を見る。
細く、筋張ってもいない腕。
皮膚の下で骨の形が主張している。
――ハルドの身体が、頭をよぎる。
力が満ちていた。
地面を蹴るだけで、世界が応えた。
武器を持たずとも、恐れるものは少なかった。
それに比べて、この身体は――。
「……貧相」
口に出してから、少しだけ眉をひそめる。
比べる気はなかった。
だが、記憶がある以上、否応なく比較してしまう。
「しかも……あいつ、クソ強かったしな」
強さは、ただの力じゃない。
判断の速さ。
状況を見る目。
無駄のない動き。
全部が、積み重ねられたものだった。
一瞬、気分が沈みかける。
「……まぁ、いいか」
首を振る。
「今は、今だ」
俺は、今の俺で生きるしかない。
今日を生き残ること。それが最優先だ。
「……腹も減った」
立ち上がり、小屋を出る。
スラムの朝は、相変わらず濁っている。
湿った空気と、腐った匂い。
だが、見慣れた場所だった。
身体が、自然に動く。
路地の影を選び、視線を避け、人の流れを読む。
足音を殺し、角を曲がるタイミングを測る。
――驚くほど、うまくいく。
店の裏口。
積まれた木箱。
一瞬、店主が背を向ける。
その瞬間、手が伸びる。
掴む。
引く。
パン。
心臓が跳ねる前に、もう距離が取れている。
次の店。
果物の籠。
赤く熟れたりんご。
「……」
一拍、待つ。
頭のどこかで「今だ」と声がした。
りんごを一つ。
もう一つ。
さらに一つ。
誰も気づかない。
気づかれても、追いつかれる前に、もう視界の外だ。
「……?」
胸の奥に、引っかかるものが生まれる。
――今まで、こんなことはなかった。
見つかって、追われて、殴られて。
それが当たり前だった。
なのに、今日は。
何度も、逃げ切れている。
拠点に戻り、食料を並べる。
パン。
りんご。
干し肉。
チーズ。
「……?」
動きが、止まった。
「……どうなってる……」
目の前の量に、言葉が出ない。
多い。
明らかに、今までとは違う。
「……これ……」
ざっと見積もっても、二ヶ月は生きられる。
今までなら、考えられなかった量だ。
「……やっぱり……」
前世の記憶。
動き。
判断。
関係ないわけがない。
そう考えた、そのときだった。
空気が、変わる。
視線を上げる前に、気配を感じた。
三方向から、じわじわと。
「……っ」
身体が、反射的に強張る。
いつの間にか、三人の男が立っていた。
スラムの連中だ。
目は濁り、口元は歪んでいる。
それぞれの手には、ナイフ。
「おい」
低い声。
「お前だよ、ガキ」
視線が、床の食料に向けられる。
「ずいぶん溜め込んでるじゃねぇか」
別の男が、いやらしく笑う。
「食料を渡せ」
一歩、距離が詰まる。
逃げ道を塞ぐ位置取り。
「……チッ」
小さく舌打ち。
――油断した。
周囲を確認する。
距離。
足場。
ナイフの角度。
頭の奥で、静かに何かが動き始める。
(……さて)
心臓は、不思議なくらい落ち着いていた。
(どうする……)
答えは、まだ出ていない。
だが、ただ奪われる気も、逃げるだけの気もなかった。
俺は、ゆっくりと息を吸い込んだ。
冷たい空気が肺に入り、胸の奥で静かに広がる。
それだけで、頭の中が妙に澄んだ。
三人。
距離は近い。
囲まれているが、完全じゃない。
(……いける)
そう思った瞬間、自分でも驚くほど自然に身体が動いた。
最初に踏み出したのは、右足。
音を立てないように、土を踏みしめる。
「な――」
男の一人が声を上げかけた、その瞬間だった。
視界が、一気に狭まる。
余計なものが消え、必要な情報だけが浮かび上がる。
ナイフの角度。
肩の力の入り具合。
重心。
(……遅い)
自分でも、そう思った。
腕を振り上げようとした男の懐に、すでに俺は入り込んでいた。
力任せではない。
ほんのわずか、肘の内側を押す。
「ぐっ……!」
男の腕が痺れたように落ち、ナイフが地面に転がる。
同時に、膝裏を払う。
バランスを崩した身体が前のめりになり――
俺は、その後頭部を、床に叩きつけるように押さえ込んだ。
「……っ」
鈍い音。
男の身体が、ぐったりと動かなくなる。
――一人。
考える暇はなかった。
背後で、風を切る音。
二人目が、横薙ぎにナイフを振ってくる。
(……見えてる)
半歩、後ろに下がる。
刃は、空を切った。
次の瞬間、俺は男の手首を掴んでいた。
いや、掴んだというより――そこに手があった。
ひねる。
関節の可動域を、ほんの少し越える。
「いだぁっ!?」
悲鳴と同時に、力が抜ける。
ナイフが落ちる。
そのまま、肘を男の顎の下に滑り込ませる。
――軽く、打つ。
「……っ」
男の目が白くなり、身体が崩れ落ちる。
――二人。
残った一人が、息を呑む音が聞こえた。
「な……なんだ、こいつ……!」
声が、わずかに震えている。
(……逃げるか)
そう思ったが、男は逃げなかった。
恐怖よりも、欲が勝ったのだろう。
ナイフを構え、距離を取る。
慎重な動き。
(……なるほど)
俺は、ゆっくりと歩み寄る。
そのとき――
身体の奥で、何かが、ふっと流れた。
温かい、けれど鋭い感覚。
血流とは違う。
力とも違う。
(……?)
次の瞬間、視界がわずかに“広がった”。
男の呼吸。
筋肉の緊張。
次に踏み出す足。
全部が、手に取るようにわかる。
(……これ……)
考えるより先に、身体が反応する。
男が踏み込む、その直前。
俺は、地面を蹴った。
一気に距離を詰め、男の胸元に掌を当てる。
――押す。
それだけだった。
なのに。
「がっ……!?」
男の身体が、まるで見えない壁にぶつかったみたいに吹き飛び、背中から床に叩きつけられた。
「……?」
俺自身が、一瞬、呆然とした。
男は、ピクリとも動かない。
気絶している。
……三人とも。
小屋の中に、静寂が落ちた。
俺は、ゆっくりと自分の手を見る。
震えていない。
熱もない。
(……今の……)
胸の奥に、答えが浮かび上がる。
「……魔力……?」
口に出して、確信した。
そうだ。
今の感覚。
流れるような動き。
――覚えがある。
ハルドの記憶だ。
魔力を、特別なものとして扱っていない。
呼吸の延長。
身体を動かす感覚の一部。
(……そうか)
点と点が、繋がる。
前世の記憶を思い出したことで、
ハルドの“経験”が、俺の中に染み込んでいた。
考えなくても、身体が理解している。
魔力の流し方。
無駄のない使い方。
(……だから……)
だから、今日――
捕まらなかった。
気づかれなかった。
逃げ切れた。
全部、偶然じゃない。
「……はは……」
小さく、乾いた笑いが漏れた。
「……とんでもねぇな……」
床に転がる三人の男を見る。
全員、呼吸はしている。
死んではいない。
俺は、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥が、ざわついている。
恐怖でも、後悔でもない。
――可能性。
そんな言葉が、頭をよぎった。
(……さて)
視線を上げる。
小屋の外は、もう完全に朝だ。
俺は、まだ何も決めていない。
どう生きるかも、どこへ行くかも。
だが――
一つだけ、はっきりしたことがある。
(……俺は、もう昨日までの俺じゃない)
床に転がる食料と、気絶した男たちを見下ろしながら、
俺は、静かに拳を握った。
前世英雄、今度は俺の番 @toneru1111
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。前世英雄、今度は俺の番の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます