前世英雄、今度は俺の番
@toneru1111
第一話 人格
石畳の路地に、荒い呼吸音だけが響く。
「はぁ、はぁ……」
一人の少年が、パンを握りしめながら必死に走っていた。息が上がり、足はもつれそうになる。それでも止まるわけにはいかなかった。
背後から、重い足音が追ってくる。
「待ちやがれ!」
店主の怒声が路地に響いた。少年は振り返らずに走り続けた。だが、疲労で速度が落ちていく。空腹で力が入らない。視界が揺れる。
そして、それは一瞬の出来事だった。
首筋に、何か太く硬いものが食い込んだ。
「捕まえた!」
店主の手が、少年の後ろ首を掴んでいた。少年の体が後ろに引かれる。足が地面から離れた。
次の瞬間――
「うぐっ!」
少年の体は、容赦なく地面に叩きつけられた。背中が石畳に激突する。肺から空気が押し出され、息ができない。
「おい!クソガキ!何うちの商品に手つけてやがる!」
店主の怒りに満ちた声が、真上から降ってきた。
少年が咳き込みながら息を整えようとした時、重い重量が腹の上に乗った。店主が馬乗りになったのだ。
「ぐっ……」
拳が顔面に叩き込まれた。頬に鈍い衝撃が走る。
「てめぇみたいな盗人が……」
もう一発。今度は反対側の頬だ。
「この……」
腹に一発。殴られた瞬間、口から息が漏れ出た。
「野郎……」
胸に、脇腹に、肩に。拳が次々と叩き込まれる。少年は体を縮めたが、逃れることはできなかった。顔を腕で覆おうとしても、殴打が続く。
殴られる度に、口から「うっ」「ぐっ」と短い呻き声が漏れた。
そして――
店主の手が、少年の手からパンをもぎ取った。
「チッ!」
店主は立ち上がり、手に持ったパンを見下ろした。それは土埃にまみれ、少年が握りしめていたせいで潰れ、無惨な形になっていた。
「これじゃあ売るもんになんねぇじゃねぇか!」
店主は苛立たしげに舌打ちすると、パンを少年めがけて投げつけた。パンは少年の胸に当たり、地面に転がった。
「二度と来るんじゃねぇぞ!」
最後に、店主は倒れている少年の頭を、靴で蹴りつけた。
「がっ……」
鈍い痛みが頭を貫いた。店主の足音が遠ざかっていく。怒声と足音は、やがて路地の向こうへと消えていった。
しばらく、静寂が訪れた。
⸻
「……痛ってぇな」
そう呟いて、俺はゆっくり体を起こした。
頬が熱い。腹の奥も、鈍く疼く。頭を蹴られたところに触れると、はっきり痛んだ。
「……くそ」
でも、動ける。
それだけで十分だ。
視線を落とす。
石畳の上にパンが転がっていた。土にまみれて潰れているが、別にどうってことはない。
ここではこんなことは日常茶飯事だ。
「……」
俺は黙って手を伸ばし、拾い上げた。
形がどうあれ、食えるなら同じだしな。
壁に手をついて立ち上がる。足元が少し揺れた。
「……まだ歩けるな」
パンを胸に押さえ、俺は路地の奥へ向かう。
頬の痛みが脈打つが、気にするほどじゃない。
「……いつも通りだ」
そう小さく言って、俺は足を前に出し続けた。
⸻
路地を抜けた先に、倒れかけた小屋があった。
壁は崩れ、屋根も半分ほど抜け落ちている。人が住むには向かないが、雨と風をしのぐくらいはできる。俺は迷わず、その中へ入った。
床代わりの土の上に腰を下ろすと、体のあちこちが遅れて痛みを主張してきた。
けれど、今はそれよりも――
俺は、脇に抱えていたパンを手に取る。
土で汚れ、潰れている。
それでも、気にする理由はなかった。
黙ったまま、ちぎって口に運ぶ。
味はよくわからない。ただ、噛む。飲み込む。それを繰り返す。
胃の奥に、少しずつ重さが戻ってくるのがわかった。
全部食べ終える頃には、呼吸もいくらか落ち着いていた。
俺はそのまま、土の上に横になる。
背中に伝わる冷たさが、逆に心地よかった。
顔を上に向けると、壊れた屋根の隙間から空が見える。
そこには、思った以上に澄んだ夜空が広がっていた。
星が、静かに瞬いている。
ひとつひとつは小さいのに、数が多くて、やけに明るく見えた。
俺は、ただそれを見ていた。
「……」
何も言わない。
言うことも、考えることも、もう残っていなかった。
まぶたが、重くなる。
星の光が、少しずつ滲んでいく。
――そのまま、意識が落ちた。
どれくらい経ったのか、わからない。
最初に感じたのは、違和感だった。
頭の奥が、じわりと熱を持つ。
夢を見ているのか、起きているのか、その境目が曖昧なまま、鈍い圧迫感が広がっていく。
「……?」
無意識に身じろぎすると、痛みがはっきりした。
ズキリ、と。
今までの殴られた痛みとは、質が違う。
頭の内側から、押し広げられるような感覚。
「……っ」
息が詰まる。
次の瞬間、痛みが一気に強まった。
「……ぐっ……」
額の奥、こめかみ、頭全体が締めつけられる。
まるで、中で何かが暴れているみたいだった。
「……頭が……」
声が、うまく出ない。
呼吸が乱れ、身体が勝手に震える。
「頭が!!」
思わず叫び、両手で頭を押さえた。
指に力を込めても、何も止まらない。
「あ……たま……!!!」
痛みは、波みたいに押し寄せてくる。
一度引いたかと思うと、次はさらに強く、深く。
視界が、暗転する。
いや、違う。
暗闇の中に、何かが流れ込んでくる。
知らない景色。
知らない声。
知らない感情。
――でも、なぜか「知っている」気がした。
「……っ、なんだ……これ……」
頭の中で、映像が勝手に再生される。
自分が見ていないはずの記憶。
自分が生きていないはずの時間。
胸がざわつく。
いや、それだけじゃない。
怖い。
まるで、俺の中にある「俺」が、少しずつ押し出されていくような感覚。
自分が、自分じゃなくなっていく。
「……やめろ……」
誰に向けた言葉なのかもわからない。
ただ、必死だった。
そのとき、頭の奥で、名前が浮かんだ。
――ハルド。
意味も理由もわからないのに、その名前だけが、何度も、何度も。
ハルド。
ハルド。
ハルド。
「……ちがう……」
歯を食いしばる。
でも、映像は止まらない。感情が流れ込んでくる。怒り、後悔、決意――どれも俺のものじゃないはずなのに。
頭が割れそうだった。
いや、割れているのかもしれない。
小屋の中で、俺は身を丸め、頭を抱えたまま震え続ける。
呻き声が、何度も喉から漏れた。
痛みは、夜が深まっても終わらなかった。
強くなり、弱まり、また強くなる。
痛みは、収まるどころか、さらに強さを増していった。
波のように、ではない。
今度は、逃げ場のない濁流みたいに、頭の内側を満たしていく。
「……っ、あ……」
声にならない息が漏れる。
頭を押さえる手に、力が入らなくなってきた。
――おかしい。
考えようとすると、思考がほどける。
「俺」が、どこにいるのか、わからなくなる。
名前が、遠くなる。
……俺は……。
その瞬間、はっきりとした感覚が流れ込んできた。
鮮やかで、強くて、疑いようのない“確信”。
――ハルド。
「……俺は……ハルド……?」
疑問のはずなのに、その言葉は妙にしっくりきた。
頭の痛みが、一瞬だけ和らぐ。
次の瞬間、映像が弾ける。
笑い声。
大勢の人間に囲まれている感覚。
肩を叩かれ、名前を呼ばれ、称えられる。
力があった。
比べるまでもなく、圧倒的な力。
欲しいものは、手を伸ばせばそこにあった。
食うことにも、寝る場所にも、困ったことはない。
隣には、いつも誰かがいた。
友人。
恋人。
一人ではなかった。
「あぁ……」
喉の奥から、自然と声が漏れた。
「……俺は、英雄だったんだな……」
そう思った瞬間、胸の奥に、奇妙な納得が広がる。
これが本来の自分なのだと、言われている気がした。
同時に、別の感覚が、ゆっくりと薄れていく。
――今までの俺。
殴られて、追われて、空腹に耐えてきた日々。
路地裏。
石畳。
奪われるばかりの人生。
それらが、遠ざかっていく。
「あ……」
意識が、沈む。
抵抗する気力さえ、奪われていく。
――そうか。
自分の人格が、ハルドに上書きされていく。
その事実を、薄れていく意識の中で、理解してしまった。
……ムカつく。
その感情だけが、妙に強く残った。
……何でだ。
何で、俺なんだ。
何で、全部持っていたお前が、
俺の中にまで入ってくる。
――何で、俺が諦めなきゃいけない。
沈みかけていた意識が、そこで一気に引き戻された。
「……っ!!」
呼吸が荒くなる。
胸が大きく上下し、心臓がうるさいほどに脈打つ。
怒りが、込み上げてくる。
何で何もかも持っていたお前が、
俺の人生まで奪うんだ。
ふざけるな。
ふざけるな。
ふざけるな。
ふざけるな。
ふざけるな。
「……黙ってろ……」
誰に向けた言葉なのかは、もうはっきりしていた。
「黙って、俺の人生を見てろ……!」
頭の奥で、何かが揺らぐ。
ハルドの記憶が、ざわつく。
俺は歯を食いしばり、震える身体を無理やり起こそうとした。
頭の中で、必死に叫ぶ。
俺は違う。
俺は、あいつじゃない。
「俺は――」
喉が裂けそうになる。
「俺の名は……ラグナだ!!」
その瞬間、何かが弾けた。
流れ込んでいた記憶が、逆流する。
押し込まれていた“俺”が、前に出る。
ハルドの感情が、力が、記憶が、
今度は俺の中に吸い込まれていく。
拒むのではない。
受け入れて、呑み込む。
「……俺の中に、いろ……」
それが、最後の言葉だった。
次に気づいたとき、俺は倒れた小屋の床に横たわっていた。
視界が揺れ、天井の向こうの星空が滲んで見える。
息が、うまく吸えない。
「はっ……はっ……」
過呼吸気味に、空気を吸い込む。
全身が汗で濡れ、背中に張り付いた服が気持ち悪い。
心臓の音が、耳の奥で響いていた。
――戻った。
その事実だけが、はっきりとわかった。
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