二十一

 内藤雅勝は十九日の朝五つ過ぎに藩邸の門を潜り出た。その姿は、菅笠を被り、背割羽織を纏い、腰の刀には柄袋を被せ、網袋を背負い、肩には旅行李をふたつ紐で結わえ掛けるといった旅装束であった。

 「なぜ、この年の瀬に出立せねばならんのか?年が明けてからでもよいではないか」

 雅勝は不満であった。が、殿である阿部正弘の命には逆らえぬ。

 雅勝は師走に入るとまもなく、阿部に直々に呼び出され、

 「二十日までに江戸を発ち、国に帰れ」と言われた。

 「なぜ、江戸を離れねばなりませぬのでしょうか」

 「心当たりがあるであろう」

 日野屋か?日野屋が殿に何か申したに違いない。と雅勝は思った。

 あの時、あの時とは申之丈が光三郎を斬った時である。

 あの時、雅勝は善福寺裏の屋敷で光三郎が来るのを待っていた。

 雅勝は前日、光三郎と分かれる際に、

 「明晩、闘いが終わったらこの屋敷で」報告を受ける事を申し合わせていた。しかし、光三郎は何時になっても現れなかった。

 「しくじったか」と思った雅勝は、様子を見に善福寺辺りまで行こうかとも思ったが、そこで、奴らと会ったらこちらの身も危ういと藩邸に戻ったのであった。

 後に日野屋から何か言ってくるだろうと待っていたが、数日が経っても一向に来ず、事がどうなったか気に掛かった雅勝は、野田を日野屋へ向かわせ、依頼した件はどうなったか訊いて来いと命じた。

 野田は、利兵衛と光三郎が雅勝を訪ねて来た折り、座敷の片隅に控え、話しを聞いていたので依頼の件を承知していた。

 日野屋で利兵衛に合い対した野田は、

 「内藤様が依頼した件はいかが相成りましたでしょうか」と尋ねた。

 「なし得ませんでしたとお伝えください」

 野田は、険しい顔つきで答えた利兵衛に少し怯んだ。

 「分かり申した」

 「それと・・、人を謀るようなお方の頼み事は今後一切受けませぬと、併せてお伝えください」そう言った利兵衛の声音は怒りに満ち、目には憎悪が滲みでていた。

 野田はたじろぎながらも、「謀る?」と訊いた。

 「野田様もご存じなかったか」と利兵衛は事の実情を手短に話した。

 野田は、あのお方が企みそうなことだと思い「日野屋殿がご立腹なことはよく分かり申した。内藤様に、しかと伝えておきます」と答えた。

 「ではこれで」と立ち上がろうとした利兵衛に、これだけは訊いておきたいと、

 「あの・・木ノ浦殿と申されるお方は・・?」と野田は尋ねた。

 「亡くなりました」悔しげに利兵衛は答えた。

 帰ってきた野田から雅勝はこの事を聞き、その時に利兵衛がかなり立腹した様子であったと併せ聞いた。

 その怒りをもって日野屋は殿に俺のことを訴えたのであろうと雅勝は思ったのだ。

 「日野屋ですか?」と雅勝は阿部に訊いた。

 「それもある。が、それだけではない。他にも心当たりがあるであろう」

 幾人もの顔が雅勝の脳裏をかすめた。「あ奴らめ」苦々しい表情を浮かべた雅勝は、

 「江戸を発つのは年が明けてからではだめでござりましょうか」と訊いた。

 「ならぬ。今月二十日までに発て」

 「では、ひとつ願いがございます」

 「なんだ?」

 「せめて、大阪まで船で行くことをお許しください」

 阿部は眉を寄せ雅勝を見た。

 「なにとぞ」

 雅勝は畳に手を着き伏した。この寒空の下、いくつもの峠越えをして備後の国まで旅するのはさすがにきつい。と雅勝は思ったのである。

 厄介な息子を引き受けてしまったものだと阿部は後悔しながら思案していた。幕府が旅人の船の往来を規制している手前、勝手に大阪行きの船を探して乗られても、いろいろと迷惑な話である。江戸城内に出入りしている問屋に話しを通し、江戸と大坂を行き来している廻船を世話してもらうのが無難なところか。往来手形もそれに準じて記さねばならぬ。手間も人手もかかる。まったくもって面倒な事である。

 しかし、これ以上、面倒を起こされても困ると思った阿部は、

 「よかろう。ただし、こちらで指定した船に乗ってもらう」と許可をした。

 「ありがとうござりまする」雅勝は伏したまま礼を述べた。

 「往来手形と詳細については、後日下屋敷へ使いの者を向ける。それまで、屋敷を出てはならぬ。よいな」

 そして、使いの者が来たのが緒方が福山藩の下屋敷を訪れる前日であった。

 使いの者から往来手形を受け取り、船へと乗り込む湊と日にち刻限などを雅勝は聞いた。当然のごとく、野田弥介はその場に居り話しを聞き、緒方に話したという事であった。

 藩邸を後にした雅勝は南へ向かい目黒川を目指した。目黒川に出て、川沿いに歩けば品川湊へと辿り着く。

 土手を歩く雅勝に、川面を渡る師走の風が吹きつけてくる。背を丸め、知らず知らずに早歩きになる。そのうちに寒さのあまり尿意をもよおした雅勝は、川べりの葦が生い茂っている中で用を足そうと土手を下った。雅勝が葦の茂みに入ろうとした時、

「内藤殿・・、内藤殿ではござらぬか?」と背後から声を掛けられた。

 雅勝は声の方にふり返るとそこには羽織袴姿で菅笠を被った侍が立っていた。

 雅勝は菅笠の縁を手で少し持ち上げ、相手をよく見ようとした。

 「はて?」

 「お忘れか?」と言い、その侍も菅笠の縁を持ち上げ、顔を見せた。

 顔を見ても、よく分からぬと、首を傾げる雅勝に、

 「暮林でござる」と申之丈は名のった。

 思い出すまでさほど時間は掛からなかった。思い出した雅勝は「はっ」として、刀を抜こうと柄を掴んだ。が、柄袋がそれを阻んだ。

 申之丈はすでに刀を抜きはらい雅勝へ素早く近づいた。

 雅勝が柄袋を外し柄を握った時、申之丈は刀を大上段から雅勝の頭めがけて振り下ろしていた。

 申之丈の刃は、菅笠ごと雅勝の頭をかち割り、そのまま胸をも斬り裂き、柄を握った腕までも斬り裂いた。

 雅勝は一言も発することなく、葦の藪の中に崩れ落ち、倒れた。

 申之丈は、もはや屍となった雅勝に近寄った。刀には斬り裂かれた腕が柄を握ったままぶら下がっている。申之丈は屈んで雅勝の羽織の裾で自分の刀に付いた血を二度、三度と拭き取り、立ち上がった。そして、刀を鞘へと納め、雅勝に向かい合掌した。手を解いた申之丈は、何事も無かったかのように土手を上り、来た道を戻って行った。

 土手の道を行き交う人々は、師走の忙しさからか、もしくは寒さの所為か、皆、足早に先を急ぎ、申之丈を気に掛ける者はいなかった。


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