最終話

 今年も大晦日を残すのみとなった。正月を迎える支度をほぼ終えた小晦日の夕昏時、申之丈は花野屋の縄のれんを潜った。

 「いらっしゃいませ」と迎え入れたのはおみちだった。

 「おみち殿、燗酒を」頼む申之丈に、おみちは「はい」と少しかがむように会釈し、奥へ姿を消した。

 程なくしておのぶが現れ「奥が空いております」と座敷へ申之丈を誘った。

 座敷へと通された申之丈が座すると、少し離れたはす向かいにおのぶが座った。

 「おみち殿はいかがであろうか」

 「気丈に振舞ってはいますが、時折、寂しげにしています」

 おみちは、父である彦蔵から、「木ノ浦様が西国の藩に召抱えられ、江戸から遠い西国へ旅立った」と知らされた。

 その翌日、おみちの落ち込んだ様子を見たおのぶは、木ノ浦様のことを彦蔵から聞いたのだなと思い、

 「どうしたの?」とおみちに声を掛けた。そして、

 「何年かしたら、勤番で江戸に来るわよ。その時には、きっと、おみっちゃんに会いに来る」と心の激しい痛みに耐え、おみちを欺き、励ました。

 「そうか。時は掛かるであろうな」

 「はい」

 「おのぶ殿は?」

 「わたしは・・」おみちの前では辛く沈んだ様子を見せられない。普段通りにと思ってはいるが、時折、思い出しては気が沈む。

 言葉を途切らせたおのぶに、

 「おのぶ殿にはお志乃坊がついておったな。隣には清衛門殿もお梅さんや留めさんも。心配いらぬか」と申之丈は励ますように言った。

 申之丈が、おみちや自分を気遣ってくれていることがおのぶには嬉しく、「・・ええ」と笑みが少しこぼれた。

 「それに、内藤も、もう江戸には居らぬ」

 「えっ?」

 「国許へ帰ったと緒方先生が申しておった」

 「そうですか」

 「これで、奴の影に怯える事も無い。忘れることは出来ずとも、心持ちをいくらかでも明るくは出来よう」

 申之丈は、内藤を斬り殺した事は、誰にも言っていない。言うつもりもない。

 内藤雅勝の手荷物の通行手形などから、何れは身元が明らかになり福山藩に知らせが届き、緒方が内藤の死を知ることになるかもしれない。

 その時、緒方は察して、申之丈に尋ねてくるかもしれない。もしくは、別の事情を察して、あえて口に出さぬかもしれぬ。

 いずれにしても、この事は申之丈一人の胸の内に止めておくと決めていた。

 ただ、光三郎だけには墓標に手を合わせ報告した。

 おのぶは「はい」と答えたが、気持ちが晴れることはないだろうと思った。木ノ浦光三郎の死を、頭の片隅の奥へ仕舞い込むのには時が掛かり、仕舞ったとしても何かの拍子に表に現れる。そして、その度に、おみちに光三郎が死んだ事を隠していることに、疾しさを感じ、それを死ぬまで繰り返す。

 ただ、おのぶにとって救いなのは、このことを、清衛門や申之丈が知っているということである。日野屋の方々も知っている。自分だけが知っていて、自分だけで思い悩み苦しんでいるということではない。この苦しみを理解してくれる人が身近に居ることがおのぶにとっては心の支えとなり救いとなる。

 今はただ、時が経ち、この胸の苦しみが和らぐのを待つしかない。

 「失礼いたします」と声がして障子が開けられた。

 廊下で正座したおみちが燗酒のとっくりとちょこが載った膳を座敷の中へ差し入れ、

 「おのぶさんお願いします」と膝の前に両の手を添え礼をした。

 その様を見た申之丈は、おなごらしい柔らかな礼をするようになったものだと感じた。

 おみちが障子に手を掛け閉めようとしたところへ、

 「おみち殿、酌をしてくれぬか」と申之丈は声を掛けた。

 おみちは戸惑い、おのぶを見た。

 おのぶは、おみちに目を合わせにこやかに頷いた。

 おみちは座敷に入り障子を閉めると、膳を持ち立ち上がり、申之丈の傍へ歩み寄り、膝を着き座ると、膳を申之丈の前へ置いた、

 申之丈はちょこを持ちおみちの前へ差し出した。

 おみちが両の手でとっくりを持ち上げ、少しぎこちない仕草で酌をした。

 まだ、あどけなさも残るおみちが客から酌をしてくれと頼まれた事などなかったが、おのぶやおひさの酌をする様などを幾度も見ていた。とっくりいっぱいに入っている酒を始めに注ぐのは、初めて酌をするおみちには少し難しかった。酌をしたあと、とっくりの口から底の方へ酒の滴が伝い流れた。

 おみちは帯に挟んである手ぬぐいを左手で取り出し、とっくりの底に当て、滴を拭き膳に置いた。

 その仕草を見た申之丈は、まだ十のおみちに女の色気さえ感じられた。このおみちを木ノ浦殿が見たなら、なんと思われようか。

 申之丈は酒が満たされたちょこに目を移し、なみなみ注がれた酒を一気に飲み干した。

 「ああ・・、うまい」と声が漏れ出た。

 少し間を置き、おみちに目を移した申之丈は、また、「うまい」と穏やかな笑みを浮かべた。

 その笑みを見たおみちは、はじめて木ノ浦光三郎と会い、竹とんぼを飛ばした幼き日のことを思い出した。

 あの時、おじちゃんはわたしが竹とんぼを飛ばしたのを見て、

 「うまい、うまい」と言って微笑んでくれた。

 その笑顔がおみちの瞳に蘇り、笑みが、涙の雫とともに、こぼれた。


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乱舞方 暮林申之丈 寺池 魔祐飛 @mayuhi

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