二十

 師走も半ばに差し掛かり、嘉永六年も残すところ僅かばかりとなった。医師の緒方由比は日が落ちようとする夕昏時、仙台藩下屋敷の申之丈を訪ねていた。

 「先生、今日は冷えますのでお茶の代わりにこちらを」と申之丈が差し出した湯呑には燗酒が注がれていた。

 「おお・・」と緒方は湯呑を取り酒を啜った。

 「ああ~温まるのう」

 「この屋敷で誰ぞ風邪でもひかれたのでありましょうか?」

 申之丈もまた燗酒を啜りながら尋ねた。

 「いや、今日は其方に話したい事があって参ったのじゃ」

 「なんでございましょう」

 「内藤雅勝のことじゃ」

 にこやかな表情から険しい顔つきに転じた申之丈が、

 「あ奴が?」と訊いた。

 「国許に帰るらしい」

 「近頃、まったく見かけないものだから、もう江戸には居ないかもしれぬと思っていたが、まだ居ったか」

 「昨日、往診で福山藩の下屋敷を訪れた折り、野田殿と逢うてな」

 野田とは野田弥介のことである。野田は何かと内藤の世話をしている、というより、世話をさせられていて、内藤に関して知っている事も多く、そして、不満も多く抱えていた。

 その野田と屋敷でばったり会い、

 「その後、内藤様の額の傷はどうであろう?」と緒方は尋ねてみたのだという。

 「傷はもう良くなられたようにございます」

 「それは、なにより」

 「はい。ですが、拙者にとってなによりなのは内藤様が国許に帰る事が決まった事でござる。実に喜ばしい」と野田は晴れやかな表情を見せた。

 「この年の瀬に帰るとは、急でございますな。何か訳でもおありかな?」

 「お聞きになりたいですか?」野田はにやりとした笑みを浮かべた。

 「ええ・・まあ、ちょっとは」緒方はよほど話したいようだなと思いつつ答えた。 すると野田は辺りを見回し誰もいないことを確認して、緒方に近寄り少し声を絞って「実は・・」と話し始めた。

 野田が言うには、内藤が福山藩に出入りしている両替商の日野屋から腕の立つ浪人者を紹介してもらい、ある侍を斬ってくれと頼んだというのだ。日野屋とその浪人者には、内藤が通っている料理茶屋の女中を、その侍から守るためだと言ったが、実のところ、内藤がその女中を自分の女にしようとしており、その侍が内藤の邪魔をしていたのだという。

 「もしや、内藤様の額の傷は・・?」緒方が尋ねると、

 「左様、その侍にやられた傷なのでござる」野田の話しは続いた。

 日野屋が紹介した浪人とその侍が立ち合い、浪人が斬り殺されてしまったが、その浪人は日野屋が目を掛けていた用心棒だったらしく、さらに、内藤がその女中を我がものにしようとして企んだ事も露見して、日野屋は激怒。日野屋の主が我が藩の殿に内藤の処罰を願い出て、内藤は国許へ返される事になった。

 「ということなのですよ」

 緒方は野田の話しを聞き、その浪人を斬った侍が暮林殿であろうと推察した。と同時に、怪我などしなかったであろうかと暮林の身を案じた。だが、怪我をしたなら私の所に来るはず。来ていないという事は無事なのであろうと思った。

 「左様か。内藤様もあくどい事をされますなあ」

 「悪巧みは何ればれてしまうものなのですよ」

 野田は自分で言った事に納得したように、うん、うん、と頷いた。

 「しかし、阿部様がよく日野屋の申し出を受けられましたな」

 「実は、我が藩は日野屋にかなりの額の借金があるらしいのです」

 「ほう」

 野田は声を絞って、「噂によると、その額は数千両と言われております」

 「なんと」

 「それを返せと殿に迫ったみたいでござる」

 「それで阿部様が・・」

 「はい、しかたなく内藤様を江戸から国許へ帰すことで折り合いをつけたと聞きました」

 「しかし、これで野田様の悩みの種が無くなるという事ですな」

 「左様。実に喜ばしい。おっと、この事はご内密に」と、にんまりした口元に人差し指を当てた。

 「心得てござる。で、いつ江戸を発つのじゃ?」

 「二十日に品川から船に乗ると申しておりました」

 「船で?」

 「船で大阪まで行ってそこから陸路で福山までと聞いております」

 「船で大阪までは禁令が出ておらなんだか?」

 緒方は、幕府が街道沿いの宿場を保護するために、旅人が船で移動する事を規制していると聞いた事があった。さらに、お上が、関所を通らずに大阪まで船で行くことを許しているのだろうかとも疑問を持った。

 「よくは分からぬが、あの方のことだから、殿に我がままでも申したのではあるまいか」と野田は言い、十九日の朝に下屋敷を発ち、その晩は品川湊の宿に泊まり、二十日の朝に船に乗り込むようだと教えてくれた。

 話し終えた緒方は少しぬるくなった湯呑の酒をごくりと飲み干し、

 「日野屋の用心棒と立ち合われたのは暮林殿であろう?」と尋ね、湯呑を置いた。

 「やむを得ず」

 「左様か」

 「清衛門殿がいなかったら、某は今ここで先生と話しをしてはいなかったでしょう」

 「清衛門殿もおられたのか」

 「はい、木ノ浦殿の刃を受け止めてくれたのです。でなかったら、某の頭はかち割られておりました」

 「木ノ浦と申すのか、その浪人は」

 「木ノ浦殿を斬った事、無念でなりませぬ」

 申之丈は木ノ浦との闘いを仕組んだ内藤を憎んだ。そして斬った事を悔いていた。なれど、斬らねば斬られていた。それゆえに、この闘いを仕組んだ内藤に対する怒りと憎悪が計り知れないほどに膨らんでいった。

 「わしの話しはこれまでじゃ」

 「知らせて頂き、かたじけのうございます」申之丈は頭を垂れた。

 「この事は其方には知らせねばなるまいと思ってな」

 緒方は立ち上がり申之丈が住む長屋を後にした。

 帰り道、緒方は、頭を下げて礼を言われる程の事でもないのだが、と思い返していた。ふいに、ある事が頭をよぎり、「まさか・・」緒方の口から呟きが漏れた。


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