十九
光三郎が亡くなってから半月ほどが経った十一月の二十日、日野屋利兵衛は麹町にある備後福山藩上屋敷に居た。昼の八つ半ごろ福山藩の上屋敷に着いた利兵衛は、藩主で幕府の老中首座でもある阿部正弘に目通りを願い出て座敷に通された。予め書状にて約束を取り付けていたが約束の刻限を一刻半も過ぎている。
何かと多忙を極める阿部様のことを思えば待たされることも想定していた利兵衛は、待つより他はなかった。諸事情により約束が反故になることもある。
利兵衛が「今日はいけぬかもしれぬ」と諦めかけたところへ、
「お待たせして申し訳ござらぬ」と阿部正弘が現れた。
「阿部様にはご多忙の折、時間を割いて頂き申し訳もござりません」利兵衛は畳に両手を着き腰を折った。
「なんの、日野屋殿には我が藩校設立の際には多額の資金を融通して頂いた。礼を申す」
「お役にたちましたならなによりでございます」利兵衛は腰を折ったまま言った。
「で、本日はどのような用向きであろうか?」
利兵衛は面を上げ、
「阿部様は、内藤雅勝様をご存じでしょうか?」と険しい目つきで尋ねた。
「内藤雅勝?・・我が藩の者か?」
阿部は知ってはいたが考える素振りをして、訊き返した。
「国家老内藤様の次男坊でございます」
なにかしでかしたか、と阿部は思った。ひと月ほど前にも下屋敷からの言上で内藤雅勝の行いに対し、面倒見きれぬものがあるので国許へ返してほしいという苦情があった。その苦情も、阿部はそのまま捨て置いていた。そもそも、阿部は国家老の内藤から雅勝を江戸で預かってくれと頼まれていたのである。おいおい阿部はなぜ国家老が息子を江戸に出したのか、というより、追いだしたのかを知る事になった。今では引き受けたことを悔いていた。
「それが?」
「自害を命じてくださりませ」
阿部正弘は眉を寄せ利兵衛を睨みつけた。苦しい藩の財政に援助をしてくれているとは言え、町人である日野屋からそのような事を言われるのは不愉快極まりない事であった。しかし、そう言わせる程のことをあの内藤雅勝がしたのであろう、と阿部は思った。
「日野屋殿」
「分かっております。そのようなことができぬことは。ですが、それほどに、この日野屋利兵衛は怒っておるのでございます。内藤様に」
「何があったのだ?」
阿部の尋ねに利兵衛は、内藤雅勝が日野屋に腕の立つ者を紹介してくれと訪れたところから話し始めた。内藤は、行き付けの料理茶屋の女中を無頼の輩から守るためだと言うので、利兵衛は、信用にもかかわるので、下手に、みてくれだけの剣術使いを紹介するわけにもいかず、日野屋の懐刀とも言うべき、用心棒の木ノ浦光三郎を内藤に引き合わせた。そして、光三郎はその者達と立ち合い、
「手前どもの用心棒である木ノ浦様はその者達に斬り殺されてしまわれたのです」
「それは気の毒な事をした」
ここまでの話しを聞く限り、阿部はそう言うしかなかった。用心棒の木ノ浦とやらが無頼の者達より弱かっただけではないかと。
「その者達は、わざわざ手前どものお店まで来て木ノ浦様を斬ったと言ったのです」
「ふてぶてしい者達であるな」
「その者達は、料理茶屋の女中を伴って来たのでございます」
「どういうことじゃ?」
「私も疑問に思い、尋ねましたところ、その女中は内藤様につきまとわれ困っており、その者達は女中を守っておったと言うのです」
「その者達が偽りを申しているとは考えられぬのか?」
「私も始めはそう思いました。なれど、その者達は木ノ浦様を斬り殺した咎でお縄になる覚悟を持って手前どものお店に来たのです。その者達が偽りを申しますでしょうか?それに、私もその後、今日に至るまでいろいろ調べましてその者達が言っている事が誠であると確信した次第でございます」
「左様か」
阿部としては、日野屋がいかに怒っていようが、そのようなことで内藤を罰する訳にはいかぬ。だが、なんらかの責めを内藤に負わさねば日野屋は納得せぬだろうとも思った。
利兵衛も、これだけでは内藤が罰せられるとは思ってはいなかった。なんといっても、利兵衛は己を責めていたのである。
自分が内藤に光三郎を引き合わせなければ、光三郎を喪う事がなかったのだと。だが、利兵衛の内にある後悔や怒り、憎悪などが、光三郎の死を自分だけの所為にするのを妨げた。
その矛先を誰に向けるのか?おのずから、自分を騙してこの事を企てた内藤雅勝に、向いた。
国家老の息子である内藤に責めを負わせることを考えた時、そんな事が出来るのは藩主である阿部正弘を措いて他にはいないだろうと考え、この事に及んでいる。
「内藤様のお顔は、もう二度と見たくはございませぬ」
利兵衛は阿部に鋭い眼差しを向け、加えて言った。
「阿部様のさばき如何によっては、大名貸しのすべてを返済していただきます」
利兵衛の言葉に阿部は慌てた。
「大仰な」
「決して大げさではございませぬ。木ノ浦様は私どもにとってはそれほど大切なお方だったのでございます」
「その木ノ浦殿を斬った者達は罰せずともよいのか?」
「その者達は内藤様がまとわりついていたおなごを守っていたのです。しかも、初めに刀を抜いたのは木ノ浦様なのです。わが身を守った者達を罰せましょうか」
利兵衛は苛立ちを覚え声が大きくなっていた。
阿部は斬った者達に咎めを受けてもらい、事を収めようとしたが、かえって利兵衛を怒らせてしまった。内藤の倅め、まったくよけいなことをしおって、と思いながら、阿部は何か良い方策はないかと考えを巡らしていた。
思案顔でなかなか口を開こうとしない阿部を見て、業を煮やした利兵衛は、
「それほどまでに、内藤様をかばわれまするか?ならば、勘定方の井上様と返済について話すまで」
畳に手を着き頭を下げ、
「本日はお忙しい中時間を割いて頂きありがとうござりました」
去ろうとしている利兵衛を見て漸く阿部の腹も決まった。
「待て待て」と阿部は利兵衛を引き留め、
「内藤雅勝は江戸所払いとする。二度と江戸へは来させぬ。これが、わしに出来うる最たることである。いかが?」と問うた。
阿部は、先程、利兵衛が「内藤様のお顔を二度と見たくない」と言ったのを聞き、これしかあるまいと思ったのである。
「分かり申した・・。では、お取引はこれまで通りと致します。ただ、ひと月経ちましても内藤様が江戸に居られるようならば御藩とのお取引を絶ちまする」
「江戸所払い」と言えば刑罰に聞こえるが、所詮、内藤にとっては国許へ帰るだけである。いかに藩主であろうともこのような事で、国家老の息子においそれと罰など言い渡せるものではない。だが、なにかしら処分されなければ、利兵衛の気がおさまらぬ。利兵衛としては内藤の顔を見たくも無いことは事実である。ならば、せめて内藤を江戸から追い出してもらおうと考えたのである。
利兵衛は両替商である己がどのような方策で内藤雅勝を江戸から追放出来るかを考えた時に、大名貸しを武器に阿部に迫ることを考え付いた。そして、目論み通りの裁きを阿部から引き出した。
「これぐらいのことしか、わしには出来ん。不満であろうの・・」
利兵衛は心の内で声をふるわせ、光三郎に詫びた。
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