十七
「清衛門殿、日野屋がどこにあるのか御存知でしょうか?」
善福寺の境内を出たところで申之丈が尋ねた。
「はい、あの辺りはたしか南日ヶ窪町、花野屋からさして遠くはありませぬが・・、行かれるのですか?」
「行って、話さなければなるまい」
「しかし、話した後で日野屋方がどうでるか?」
清衛門は日野屋が役人を呼ぶのではないかと心配した。住職の話から、日野屋の主が木ノ浦殿に目をかけていたことが窺いとれた。その木ノ浦殿を私たちは斬り殺したのだ。その怒りを考えればただではすまされまいと。
「だが、行かねば後々後悔することになると思うのだ」
申之丈の決心は固かった。
「分かりました。案内仕る」
「私も行きます」清衛門の背後からおのぶが言った。
「おのぶ殿もですか?」申之丈が振り向いた。
「おみっちゃんの為にもなぜこんなことになったのか聞いておきたいのです」
おのぶは、おみちの父である彦蔵から、おみちが幼い頃から木ノ浦様に懐いていた事を聞いていた。そして、木ノ浦様が今際の際に「おみち坊を頼む」と最後までおみちの事を心底気に掛けていた事を知り、事の真相を自分の耳で聞き、おみちに話さなければならないと思ったのである。
「お志乃坊はどうする。お梅殿のところで待っているではないですか」
清衛門がおのぶに言った。
「でも、内藤様の依頼で日野屋が木ノ浦様にこんな事を頼んだのであれば、私が行ってきちんと話した方がいいと思うんです。もとはと言えば、私の所為でこんなことになったのですから・・、私の所為で木ノ浦様は・・」
おのぶの目から涙がまたこぼれ落ちた。
「おのぶ殿の所為ではござらぬ。すべてはあ奴が、内藤が悪いのでござる」
清衛門は自分を苛むおのぶが哀れでしかたがなかった。
「では、一度長屋に帰り、お梅殿に訳を話してから行きましょう」
申之丈は、自分を責めているおのぶを見て、連れていかなければこの先深い傷を残したまま生きていくことになるだろうと思った。しかし、行ったとて、傷は癒えることはあるまい。
それは、申之丈とて同じこと。だが、行かねば傷も後悔も残る。
三人はおのぶの長屋に戻ってから南日ヶ窪の日野屋に向かった。
暖簾が下ろされた日野屋では雨戸が閉められ、そのお店の中では、伊助と幸吉がまだ帳場に残り帳簿と金や銀の付け合わせをしていた。この作業がなかなかに手間が掛かり、合わない時には何度もやり直さなければならない。
付け合わせを終えた伊助はこの日の商いの報告をすべく帳簿を持ち利兵衛の元へと向かった。その途中、伊助は木ノ浦様から依頼された件を利兵衛に話すべきかどうか迷っていた。木ノ浦様は話さずともよいと言っていたが、いずれは利兵衛の知るところとなる。
それと、あの時の木ノ浦様からは覚悟めいたものが感じられ、その事も気に掛かっていた。
これまで、伊助は木ノ浦様と数え切れぬほどの借金の取り立てを行ってきた。中には町の者達が恐れる荒くれ者たちや、腕の立つ浪人者達からの取り立てもあった。しかし、木ノ浦様は今日のように「拙者が死んでしまったとしても」などと一度たりとも口に出した事がなかった。
あの時には木ノ浦様が闘いに負ける事などあるはずがないと思い、あまり気に掛けなかった伊助だが、後々考えてみるに、わだかまるのである。
「旦那様、伊助でございます」
利兵衛の座敷の前で障子越しに声をかけた。
申之丈が日野屋の雨戸を叩いたのは戌の刻を過ぎた頃であった。
「御免、誰かおらぬか」
申之丈の声に気が付いたのは、帳場でまだ後片付けをしていた幸吉であった。幸吉は土間に下り、お店の入口の雨戸の内から、
「今日の商いは終わりましてございます」と返事をした。
「拙者、仙台藩の暮林申之丈と申す。木ノ浦殿のことで取り急ぎ主殿に合わねばならぬのじゃ。取り次いではくれまいか」
木ノ浦様の名前が出たことで、幸吉は自分の判断で外の声の主を追い返す事もままならないと思った。かと言って、勝手に雨戸の心張棒を外し中へ招き入れる訳にもいかないので、
「少々お待ちを」と言って利兵衛の座敷へと向かった。
幸吉は利兵衛の座敷の前まで来ると、障子越しに、
「旦那様」と声をかけた。
「幸吉か?なんだね」
「お店の外に、木ノ浦様の事で旦那様にお会いしたいと申される方が来ておりますがいかがいたしましょう」
その言葉に利兵衛の向かいに座っていた伊助の心はざわついた。
もしや、木ノ浦様に何かあったのではないかと。
「はて、こんな時分にだれであろう?内藤様であろうか」
利兵衛が独り言のように言うと、幸吉が障子の外から答えた。
「仙台藩の暮林と申されておりました」
「仙台藩には存知よりの方はおらぬが・・、伊助はどうじゃ?」
「いえ」
伊助は不安が心の内で次第に募り、
「木ノ浦様に何かあったのでは」立ち上がった。
「何?」
障子を開け、廊下を帳場へ急ぐ伊助を、利兵衛も追いかけた。
伊助は土間に下り、雨戸の内から、
「木ノ浦様に何かあったのでしょうか?」と訊いた。
「中で話したいのですが、入れてはもらえまいか」
伊助は振り向き、上がり口に居る利兵衛を見た。頷く利兵衛見て伊助は心張棒を外し雨戸を開けた。
「御免」と言って申之丈がお店の中へ入り、清衛門とおのぶが続いた。
「某、仙台藩の暮林申之丈と申す」
「神田清衛門でござる」
「のぶでございます」
順に名のると、
「のぶ・・、おのぶ?」利兵衛が小声で呟いた。
その言葉が耳に届いたおのぶが、
「花野屋で働いている、のぶでございます」と付け加えた。
利兵衛には「花野屋」と「おのぶ」の名が心に引っ掛かったが、
「主の利兵衛です。で、木ノ浦様がどうかしたのでしょうか?」と訊いた。
「某、木ノ浦殿を斬り殺しましてございます」
申之丈がきっぱり言った。
一瞬の間を置いて、利兵衛の背後にいた幸吉が崩れ落ちるように尻もちを着く音がどすんとした。同時に伊助が雨戸に寄り掛かり、桟をがたがたと音を立て崩れ落ちた。
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