十五

 申之丈は暮六つの鐘の音を聞き終えると、麻布の仙台藩下屋敷の潜り戸から外へと出た。

 暗青が覆い始めた天空から茜の色を僅かに残す西へと目をやれば三日月が藍色の空に静かに浮かんでいた。仙台坂を下り善福寺へ向う途中、家路を急ぐ者であろうか、幾人かの町人たちとすれちがったが、人相が分かりづらい仄暗さである。

 善福寺の門前まで来ると、清衛門が既に来ていた。

 「清衛門殿」と声を掛け近付く申之丈に、

 「かたじけのうございます」と清衛門は頭を下げた。

 「よしてくだされ、頭を下げられるようなことではござらぬ」

 言った後で申之丈は善福寺の境内に目を向けた。

 「なにか、いつもとは違うような・・」

 「気付かれましたか、暮林様。私も先程から中の様子が気にかかっておりまして・・」

 人気の無い境内の佇まいはいつも通りに見えるが、言いようの無い違和感が肌に伝わってくる。

 「ちょっと、見て参る」

 「御一緒仕る」

 申之丈が先に立ち、清衛門が四、五歩離れて後から続いた。

 ゆっくりと辺りに気を配りながら境内の中ほどまで来ると、するどい気配を申之丈は感じ歩みを止めた。

 「この気配は昨夜のものと同じ」思った申之丈は身構えた。

 後ろの清衛門も鍔に手を掛け身構えた。

 その時、灯りのともった石灯籠の陰から光三郎がゆるりと二人の前に現れた。

 双方は対峙し、光三郎が静かに口を開いた。

 「拙者、木ノ浦光三郎と申す。訳あっておぬし等と闘わねばならぬ」

 「某、暮林申之丈と申す。その訳を、お聞かせ願えまいか」

 「出来かねる」

 「私は神田清衛門と申す浪人でござる。もしや、木ノ浦殿は内藤雅勝に頼まれたのではあるまいか」

 清衛門の言葉に光三郎は反応した。

 「知っておったか」

 「内藤の言う事を聞いてはならぬ。あ奴は・・」

 「問答無用」

 光三郎は清衛門の言葉を遮り、刀を抜いた。

 清衛門の言葉を聞くまでも無く、光三郎は内藤の言う事は信用できぬと感じていた。そもそも、光三郎は内藤の依頼を受けたとは思っていない。日野屋の主、利兵衛の頼みを受けたまでの事なのだ。

 利兵衛は、田舎の小藩から出奔して来た剣術しか出来ぬ世間知らずの自分を用心棒として雇ってくれた。それを生業として江戸でなんとかここまで生きてこられた。言わば光三郎にとっては恩人である。

 利兵衛だけではない。番頭の伊助や幸吉をはじめとするお店の者達から受けた恩義に報いるために内藤の依頼を受けたまでの事。

 内藤の言っている事が、もし、偽りだと知ったなら、自分の決心が揺らぎかねない。そうなる前にこの二人とは闘わねばならぬ。

 日野屋のお店の者達の為なのだと光三郎は自身に言い聞かせ、正眼に構え、刃の切先を申之丈に向けた。

 「何を言っても無駄なのか?」

 申之丈の問い掛けに、

 「無駄でござる」と光三郎は答え、じりっと間合いを詰めて来た。

 もはやこれまで、と思い極めた申之丈もまた刀をするりと抜き、舞の「構え」の姿勢をとった。右手に刀を持ち、切先は地に触れるすんでのところにある。

胸を張り、両肘を幾分曲げ、手は腰のあたりに、膝をやや曲げて、重心を足のつま先に乗せるよう僅かな前傾姿勢をとることにより、素早く動ける体勢を整えた。

 刀を抜いた申之丈を見た清衛門もまた、刀を抜き一間ほど後方で正眼に構えた。

 光三郎の構えを見た清衛門は、やはりこの男の剣の腕は傑出していると感じ取った。

 自然体で均衡がとれた力みの無い構えは打ち込む隙が見当たらない。

 それは、申之丈も感じ取っていた。打ち込む隙がなければ打ち込ませればよい。申之丈の構えは受け身の構えである。ただひたすらに光三郎が打って出てくるのを待つのみ。

 光三郎は申之丈の構えを見て、初めはそれが構えだとは思わなかったが、そのまま動かず対峙しているので、「これが奴の構えなのか」と観察を始めた。

 見たところ、先手を取って打って出る構えではない。俺が打って出るのを待っているのか?

 だとしたら、こ奴は右手一本で俺の刃をかわせると思っているのか?

 では、お手並みを拝見しようか。

 石灯篭の灯りがゆらりと揺れ、光三郎の刃がその光を反射したその刹那、ふいに申之丈の眼前に光三郎の切先が迫った。

 申之丈は右手を上方へ素早く振り上げ、光三郎が眉間目がけ突いて来た刃を自分の刃で上へと弾き上げ、そのまま弧を描き光三郎の左脇腹へ打ち込んだ。

 光三郎は振り払われた刃を、左肘を引き上げるようにして、引き戻し、申之丈の刃が左脇腹をえぐる直前で受け止めた。

 「ガキィ」という音と閃光を残し二人は分かれた。

 そういう太刀筋か。光三郎はまた正眼に構えながら次なる手を考えていた。

 申之丈もまた光三郎の太刀筋を見て、今度は構えを変えた。

 斜に構え両足を広げ腰を沈め、刀を持った右腕を前方へ真っ直ぐ出し切先を天へ向け、刃越しに光三郎を見た。

 構えは変わったが、これもまた受けの構えではないか。ならば。

 光三郎は石灯篭が自分の背後に来るように徐々に位置を変えていった。

 今の立ち合いを見た清衛門は、この勝負、僅かに反応が遅れた方が負けると思った。暮林様を死なせるわけにはいかない。それには・・。清衛門は考えを廻らした。

 申之丈は光三郎と剣を交え、太刀の速さは互角と見た。一瞬の動き出しの遅れが命取りになると感じた。しくじりは許されぬ。

 緊迫した時が如何程流れたろう。申之丈も光三郎も対峙したまま動かない。こうなると、自然体で構えている光三郎に対し、腰を沈め中腰の申之丈は、腿に負荷が掛かり、加えて刀を右腕だけで持っているので、その右腕にも負担が掛かる。

 三人が動かず見合っているその時、おのぶが善福寺の門のところへとやって来た。

 いつもであれば清衛門が来ているはずなのだが見当たらない。たちどころに不安に襲われたおのぶは辺りを見渡した。

 善福寺の境内に目を巡らした時、石灯篭の灯りに浮かび上がる三人の人影を捉えた。

 「はっ」と息を呑み、目を凝らしてその人影を見れば、刀を構え向き合っているのが分かった。申之丈と清衛門が昨夜話していたあの侍と闘っているのだと直感したおのぶは立ち竦んだ。

 その受け身の体勢でいつまで我慢できる?

 光三郎は申之丈が何れしびれを切らすと確信していた。

 清衛門は、この状況では申之丈が不利であると思い、光三郎に気付かれぬよう少しづつではあるが二人との間合いを詰めていった。

 申之丈も光三郎の戦略を見透かしていた。

 奴は、某が耐えきれずこの構えを変えるその時を待っている。

 ならば、誘い出そう。

 申之丈は光三郎の少しの動きも見逃すまいと、光三郎を凝視したまま左手をゆっくり動かし柄を両手で持った。

 石灯篭を背にしている光三郎の顔は暗く、申之丈にはその表情を読み取ることは難しいが、些細な事も見逃すまいと努めた。

 そして、前に出している右足をすっと引いた。

 「この時を待っておったぞ」

 と、同時に光三郎は申之丈が足を引いた速さと同じ速さで前へとすっと踏み込んで刃を突きだした。

 石灯篭の灯りを背にしている光三郎の動き出しに気付くのが一瞬遅れた申之丈は、眼前に迫った光三郎の刃を振り払おうと、垂直に立てている刀を右へと倒した。

 しかし、申之丈の刃は空を切った。光三郎はそれを見こして刀を上へ振り上げ、申之丈の刃をかわし、がら空きとなった申之丈の頭へと刀を振り下ろした。

 申之丈は死を覚悟した。と、同時に一矢報いるため右へ倒した刀を光三郎の左脇腹目がけ打ち込んだ。

 申之丈の眼前に火花が走った。そして、申之丈の刃が光三郎の脇腹を切り裂いた。

 光三郎の刃は申之丈の頭をかち割る寸前で、清衛門の刀が受け止めていた。

 光三郎は崩れ落ち倒れた。

 「木ノ浦殿」

 申之丈は光三郎の名を呼び、倒れた傍へ片膝をついた。

 「木ノ浦殿?」

 決闘の一部始終を寺の入り口で見ていたおのぶの耳に申之丈の声が届いた。

 「まさか」

 おのぶは三人の所へふらふらと歩み寄っていった。

 石灯篭の灯りに照らされた光三郎の顔を見たおのぶは、

 「木ノ浦様」と叫んで傍らへしゃがみ込んだ。

 「おのぶ殿、知っているお方か?」

 驚いた清衛門が訊いた。

 「おみっちゃん・・おみっちゃんの知り合いです」

 「おみちの?」申之丈がおのぶに尋ねた声に反応したように、

 「お・み・ち・坊」と、か細い声を発し光三郎は薄目を開けたが、その瞳はおみちを探すように彷徨っていた。

 「木ノ浦様、のぶです。木ノ浦様」

 おのぶは光三郎の顔をのぞき込み叫んだ。

 「おのぶ・・殿、おみち坊を・・た・の・む」

 やっとの思いで言葉を紡いだ光三郎は苦悶の表情を浮かべた。

 おのぶは「はい」と何度も頷いた。

 光三郎の苦しみに歪む顔を見た申之丈は、

 「おのぶ殿、清衛門殿のところに行っていなされ」と声をかけた。

 申之丈は目で合図するように清衛門を見た。

 清衛門は頷くと、しゃがんでいるおのぶの肩を両手でそっと抱え立ち上がらせた。

 「え?」という表情で清衛門を見たおのぶを清衛門は光三郎から遠ざけ静かに背を向けさせた。

 その時、申之丈は「御免」と言い、光三郎の首に刃を当てると、掻き切った。


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