十四
申之丈が花野屋の前まで来ると、清衛門とおのぶが店の外で待っていた。
「いかがでござった」清衛門が尋ねた。
「善福寺の裏通りで見失ったのですが、どうもある屋敷に逃げ込んだようで・・」
「左様でござるか」
「当分の間、用心した方がよいかと思います」と申之丈はおのぶを見た。
「私もですか?」おのぶが自分の胸に手を置き訊いた。
「左様、われら皆です」
「でも、お二人とも知らないお侍だったのでしょう?」
「内藤が雇った浪人かもしれません」清衛門がおのぶに答えた。
「そこまでするものなのでしょうか?」
「緒方先生も気を付けた方がよいと言っておられた」
「どうして緒方先生が?」おのぶの疑問に申之丈が続けて答えた。
「某が内藤の額に付けた傷を緒方先生が診たと言っていましたが、その時、某を相当恨んでいたようであったと」
「私の所為で、暮林様まで恨まれるようなことになって・・・」
おのぶは清衛門と申之丈を巻きこんで、事が次第に大きくなって、もう自分ひとりではどうしようもなくなっていることに申し訳なさを感じていた。いっそのこと、志乃とふたりでどこか遠くに移り住んで静かに暮らせたらと思うのだった。
申之丈はおのぶの言葉に頭を振り、
「とりわけおのぶ殿が花野屋から帰る時が一番危ないように思われます」
「暮林様の申す通りでござる。暫くは私がいつも通りおのぶ殿を迎えに参ります」
「某も迎えに」
「いや、それは・・」清衛門が断ろうとするのを申之丈が遮った。
「清衛門殿、あ奴、ただ者ではござらぬぞ」
「それは私にも分かるが・・」
「我ら二人でも、あ奴に勝てるかどうか・・」
「そんなに・・」おのぶが不安げに言葉を漏らした。
「承知いたした。ここは暮林様の申し出に甘え、当分の間は三人で帰る事にいたしましょう」
「うむ」
三人は花野屋を後にし、帰路へ着いた。
おのぶは、清衛門と申之丈に挟まれて俯き加減で歩いていた。
「心配でござるか?」
申之丈の言葉に、「はい」と静かに頷いた。
「我ら二人の腕を見くびってもらっては困るな、おのぶ殿」
「左様ですぞ、おのぶ殿。暮林様と私が組めば怖いものなしです。安心しなされ」
「そうですね」
おのぶは二人の励ましの言葉に、作り笑いを返すより他がなかった。
その翌日、昼にはまだ一刻ほどあろうかという頃、光三郎は日野屋の帳場に顔を出し、
「伊助殿」と、番頭の伊助に声を掛けた。
「へい」
「すこし、よろしいか?」
伊助は帳場机に手をつき立ち上がった。
「今日の取り立ては無かったはずでは?」
「うむ。伊助殿に折りいって頼みがござってな」
「何でございましょう?」
光三郎は周りにちらっと目線を巡らした。
察した伊助は、
「あちらで伺いましょうか」と接客用の座敷へと光三郎を案内した。
伊助が座敷の襖を開け、光三郎を先に中へ入れ、続き伊助が座敷へ入り襖を閉めた。
伊助は無言で手を伸べ光三郎に座るよう促した。
「かたじけない」
二人が座すると、
「いかがされました?」声を低めて伊助が尋ねた。
「伊助殿は、拙者が福山藩の内藤様の依頼事を引き受けた件を御存知か?」
「へい、旦那様から聞いております」
「左様か」
「この仕事を最後に日野屋を去られるのでございましょう?」
伊助は肩を落とし、なんとも寂しげな表情を浮かべた。
「いずれにしても、そうなる」
いずれにしても、とは、あの二人と戦い、勝てば、福山藩へ仕官する事になり、負ければ死ぬことになる。どちらにしても日野屋から居なくなるということである。
内藤は、「懲らしめてくれ」と言っていたが、懲らしめるも何も、自分の命を賭けなければならないほどの相手とは、光三郎も思ってもいなかった事であった。
命を賭けるとは申せ、死ぬと決まったわけではない。しかし、覚悟はしておかねばならない。
そうした時、光三郎に心残りがあることに気が付いた。
「おみち」である。
江戸に出て来て、おみちと出会ってから四年程が経った。おじちゃん、おじちゃんと慕ってくるおみちに情が沸き、かわいくて仕方がなくなってしまった。彦蔵が知人の借金の請人になった所為で幼くして花野屋で奉公する事になってしまった。十のおみちには辛い苦労であろうと光三郎は思うのである。
その、かわいいおみちの行く末が心配でならない。近くに居れば見守ってやることも出来ようが、この仕事を最後に別れなければならなくなる。
「それでだが」
「へい」
「拙者が日野屋を去った後にしてもらいたいことがあるのだ」
「これまでお世話になった木ノ浦様の頼み事とあれば、なんなりと。但し、手前が出来ることにしてくださいませ」
「分かっておる。これは伊助殿にしか出来ぬ事でもあるし、伊助殿にしか頼めぬことなのだ」
「へい、それは何でございましょう」
「その前に、先程、日野屋を去った後と申したが、拙者が死んでしまったとしても、してもらいたいのじゃ」
「なんと」
伊助は目を剥いた。
「浪人者を懲らしめると聞いておりましたが・・」
「うむ、浪人相手ゆえ真剣での勝負となろう。さすれば、何が起こるか分からん」
「ですが、木ノ浦様に限って」
「心配いたすな。万が一の事を言ったまでの事。拙者が負けるはずがないではないか」
「そうですよね。びっくりさせないでくださいまし」
伊助は胸を撫で下ろし息を吐いた。
「それで、その頼み事とは?」
光三郎は伊助に依頼の件を話し始めた。四半刻ほど話しは続き、伊助は一度座敷を出て帳場に向かい、そして、戻ってきた。座り直すと懐から包み紙を出し、畳に置き、その包みを広げ五枚の小判を光三郎に見せた。
「本当にこれだけでよろしいのですか?」
「うむ。残りは件のごとくお頼み申す」
光三郎は五枚の小判を紙ごと掴み、包み直し袂へ仕舞い込んだ。
「この事を旦那さまには?」
「申すまでも無い」
「承知いたしました」
「では、伊助殿、お頼み申す」
光三郎は膝に手を置いたまま腰を折った。そして、刀を掴み座敷から出ていった。
伊助は、取り立てに行く時とは違う面持ちの光三郎に一抹の不安を感じた。
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