挿話1:ゼンダー公爵の憂慮
同じ深夜。ゼンダー公爵は、自室の書斎で机に向かっていた。しかしその目は、揺れるテーブルランプを見つめ、手元の書類には注意が向いていない。
「ジニー……」
公爵は静かに娘の名前を口にする。夕食の席で騎士団長に任命した娘の姿が、どうしても頭から離れない。ジニーのまだ幼さの残った愛らしい顔には、不安の影が広がっていた。これからあの娘が騎士団長としての職務をどのようにこなしていくのかを考えると、公爵は心配でたまらない。
「まだ若い……経験も足りない……。ああ、ジニーにこのような試練は、まだ早すぎたのかもしれん……」
一瞬、目元が悩ましげに歪む。しかし。
「だが、あの時の発言は……」
改めて、ゼンダー公爵は先程の出来事を思い返していた。高熱は下がったものの、どこかぼうっとして食事が進まない娘。それが気になるもので、公爵は話題を向けてみたのだが、なんと娘は迷う様子もなく兵站の重要性について語ったのだ。その時胸に湧き上がった驚きと期待!
あれは、ただの偶然の発言ではない。間違いなく、ジニーの中に何か特別なものがある。
公爵はそう信じたのだが、それでも彼女にとっては過酷すぎる任務かもしれない。
「ただでさえ病み上がりなのに、無理をさせてしまったのではないか……。少しだけ、元気になった顔だけでも見たい、元々はそれだけのつもりだったのだが」
書斎の窓の外には星明かりが瞬いているが、ゼンダー公爵の心は晴れない。ジニーが自分に見せた笑顔は、いつもどおり公爵家の令嬢らしく優雅で、何の問題もないかのように見える。しかし、父である公爵が愛娘を見守る目はごまかせない。その笑顔の裏に潜む不安や恐れを感じ取ることは容易だった。ましてや返事のときは、ついに声まで震わせて。今ジニーは、どれだけの重荷を背負っているのだろうか。
公爵は、机の上にある一冊に綴られた本へと手を伸ばす。それは、騎士団長に任命された者に与えられる職務指示書だった。騎士団および騎士団長が行うべき職務の内容やそれに関する指示のほか、歴代の騎士団長がどのように困難を乗り越え騎士団を導いてきたかも記されている。公爵はページをめくりながら、自分の決断が正しかったのかを自問した。
「ジニー。お前にこんな重責を背負わせるべきではなかったかもしれない……」
思わず口から出た言葉に、公爵自身が驚く。彼はジニーが騎士団長の任を果たしうると判断している。ふさわしくないと思っているわけではなかった。むしろ、彼女の成長を信じているからこそ、この任命を決意したはずだ。しかし、それでもやはり、彼女がこの重責に押しつぶされてしまうのではないかという不安が、父親としての心を揺さぶる。
「ジニーには、美しさや愛らしさや品の良さや可憐さや賢さだけでなく、強さもある……しかし、その強さは、まだ守られて育つ時かもしれない」
自分の決断が、娘にどれほどの重圧を与えているかを考えると、顔は平静なままでも胸はズキズキと痛む。だが、同時に、彼は娘を誇りに思い、深く信頼しているのだ。あの食事の席で見せた鋭い洞察力、そして確かな意志。それは、国に10家しか無い大貴族「10公家」であるゼンダー家にあってすら、その令嬢として誇らしい、いやそれ以上の特別なものを感じさせたのだ。
その時、公爵の悩みを破るように、控えめなノックが書斎の扉に響いた。
「失礼します公爵様」
了解を得て扉が開くと、そこに立っていたのは公爵を支える能臣のひとり、近年先代の跡を継いだ青年執事だった。彼は公爵の表情を伺いながら、静かに前へ進み出た。
「本日の最終報告をと思ったのですが……ジニー様について、何かお悩みでしょうか?」
ゼンダー公爵は青年執事の言葉に、まるで自分の考えが読まれているかのようだと一瞬の驚きを浮かべたが、その能力を愛でて軽く笑いながら頷いた。
「そうだ、お前の見立て通りだ。……ジニーが騎士団長の責務に耐えられるかどうか、私は心配している」
青年執事はメガネを直して頷くと、更に公爵の近くまで歩み寄る。
「ジニー様は、確かにまだ若く、経験は浅いかもしれません。しかし、お嬢様には、ゼンダー公爵様の血が流れております。必ずや、その責務を全うされることでしょう」
「そうであればよいが……」
ゼンダー公爵は、青年執事の言葉に励まされながらも、まだ心配が完全に消えたわけではなかった。
「誰かを密かにつけ、常に状況を報告させろ。もし問題が起き解決できないような時には、私が直接指揮に出向く」
公爵は、はっきりとそう告げた。ジニーに任せると決めた以上、余計な干渉はすべきでないと分かってはいるが、それでも。もし彼女が限界を迎えてしまった時には、任命した者の責任として事態を収拾せねばならない。ましてや、騎士団が混乱などしたら影響は深刻だ。
それを聞いて、青年執事は笑いながら首を縦に振った。
「たしかに、そのような事になりましたら、公爵様がお出ましになられるべきでしょう。しかし……」
そして青年執事は、今度は首を横に振る。
「公爵様、一度お任せになった以上、それを飛び越え公爵様が直々に動かれるのは、厳に慎まれるべきです。公爵様直々のお声がけとはいえ、承諾しお引き受けになったのはジニー様です。ジニー様はご自分で歩んでいくべき道を選ばれたのですから、どうかその道を信じてお任せください。もちろん、支えるべき時が来たら、その時には公爵様だけでなく私も全力でお支えいたしましょう。しかし、今はジニー様が自分の力を試される時です」
ゼンダー公爵は青年執事の言葉をじっと聞いていた。彼の心の中では、父親としての思いと公爵としての判断が交錯していた。やがて、公爵は深く息を吐き、頷く。
「そうだな……過剰な干渉は控えよう……」
その言葉を口にした瞬間、ゼンダー公爵の胸の中はようやく整理された。そうだ、彼は娘を信じている。自ら彼女の背中を押したのだ。あとは任せ見守り、必要なときにはいつでも助けられるよう準備を怠らないことだ。それこそが、父として、そして公爵としてすべき務め。
「ジニーには私の全幅の信頼がある。それを、皆に知らせよう。……あの娘はきっと、この試練を乗り越えるだろう」
そう告げると、公爵はようやく目の前の書類に視線を戻した。そう、彼が今すべきことは、自分の仕事を全うすることだ。ジニーが困難に直面した時に、いつでも手を差し出せるように。
青年執事は、わずかに困ったような笑顔を浮かべてから、静かに一礼すると部屋を出ていった。
書斎に残されたゼンダー公爵は、再びペンを手に取り、目の前の公務に取り組み始める。しかし心の片隅では、常に娘のことを想い続けていた。彼女の成長と、その先にある未来――それは父親としても、公爵としても、彼が最も望むものであった。
窓の外ではいつのまにか、遠くで雲の間から月が顔を出していた。書斎で執務をする公爵と、同じ屋根の下で今はようやく眠りについたジニーを優しく見守り照らすように。
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