お姉ちゃんの憂鬱は

お姉ちゃんの部屋から変な物音が聞こえるようになったのはニートになってから数ヶ月経った頃である。大きな生物が動く音や、話し声、獣の匂いがしてきたりと一体部屋の中で何が起きているのか知りたいようで、知りたくなかった。とにかく物音がうるさいので心配よりも怒りが勝りかけてきた時、それは実にお姉ちゃんが引き篭もってから二年が立った頃だった。唐突にドアが開け放たれ、お姉ちゃんがげっそりとした様子で中から出てきた。

「葵、散歩に出るよ」

「う、うん」

実に二年ぶりの会話だった。自宅から市バスに乗り、なぜか清水寺を目指す事になった。八坂神社の前で降り、祇園の雑踏を横目に少し歩く事になった。清水道を歩く中でお姉ちゃんから質問の嵐にあった。

「ゼウスとクロノスは元気? お母さんとお父さんは?」

「げ、元気だよ」

「そっか。ところで葵も元気?」

「僕は元気だよお姉ちゃん……ところでお姉ちゃんは?」

「毎日毎日知らんやつの相手してて死にそうよ」

そう言って頭を掻きむしるお姉ちゃんは、大学に入る前のお姉ちゃんのようだった。清水寺に着くや否や飛び降りようとするお姉ちゃんを何とか抑え込み、心を落ち着かせるためちょうど真下にある甘味処へ寄る事にした。僕の奢りである。妹に奢らすなよ。

「もう何がなんだか分からないの……。この原因を作った先輩は説明が少ないしどうやってこの生活を終わらせることができるのかも分からないし」

正直色々意味がわからなかった。ニートになってから何をしていたんだ。

「と、ところでさ、お姉ちゃんの大学の話を聞かせてよ。お姉ちゃんが大学の時は全然お話しできなかったし」

「うん……」

お姉ちゃんは半分泣きながら先輩の悪口を言い続けた。そして、頻繁に我が家を訪れていた北白川文目さんについても、少しだけ語っていた。甘味を食べ終わっても話し続けるお姉ちゃんと僕は店員に座敷から追い出され、言いたいことは全て語ったのか電池が切れたように話さなくなったお姉ちゃんは、僕を市バスに連れ込み四条大橋の東詰あたりで手を引かれるままに降ろされた。お姉ちゃんはちょうど橋の真ん中の辺りで急に鬼ころしの蓋を開け、ストローも使わずにゴクゴクと飲み始めた。

「少女よ、お前の姉は今どう映っておる?」

どこからともなく声が聞こえてきた。それが足元の狐が発した声であると気づくのには時間がかかった。

「狐が喋ったッ!」

「これうるさいぞ。質問に答えよ」

狐は僕の肩に乗り、口をペシっと軽く叩いた。

「うぐ……」

「答えよ、そうしなければペチペチし続けるぞ」

「ちょっと可愛いですね、ペンギンみたいで」

「ワシはペンギンでない。それよりも答えるのだ」

「分かってますって、だから小突くのやめてください……うーん」

今のお姉ちゃん。どうだろうか。僕が知っているお姉ちゃんの大半は高校までで、そしてその本質を知ったのはお姉ちゃんが高校三年生になった時である。大学生のお姉ちゃんとの会話はほとんどなく、さっき甘味処で話を聞くまで、何も知らなかった。けれども分かった。きっとお姉ちゃんは大学で自分を見失っていたんだろう。“教養人”なんていう言葉に惑わされて、超然的になったふりをしていて。けれども、だからと言ってその全てが否定されてはいけないはずだ。全てが間違いだったとも思わない。そんなお姉ちゃんも

「どうにもこうにも、これが僕のお姉ちゃんですよ。周りに振り回されて、それに必死で応えちゃうような、そんな自慢のお姉ちゃん」

全てお姉ちゃんである。

「そうか。うむ、よく分かった。ワシはまだ不安じゃが……それも然り。人間とは矛盾を孕む生き物に違いない。一人の己なんぞあり得ん。それ故、他者が決定する己は己じゃない。救い、救われるなぞ有り得ぬ。勝手に救われるだけなのだ。よくよく、姉を見くびるでないぞ」

「それはどういう」

 僕が聴き終わる前に、狐は霧の中に消えていった。

「わっ」

狐が残した一本の毛が、ポンっと音を立ててお札へと形を変えた。幾何学的な紋様の真ん中には漢字で『解呪』と大きく書かれており、どこか引き込まれそうな感覚を僕は感じた。ふと、鼻に冷たいものが当たった。それはすぐに溶けてしまい水となった。顔を上げてみると、河原町の暗闇に季節外れの雪が降り始めていた。街灯に照らされ、黒い影を点々と歩道に映す。お姉ちゃんが雪を指差し、楽しそうに僕を手招きしている。僕が目の前まで来た時、お姉ちゃんは少し悲しそうに、けれども嬉しそうに笑ってこう言った。

「死にそうな毎日の方が楽しいのっておかしのいかな」

 うん、可笑しい。でもね

「それでもいいんだよ、きっと」

お姉ちゃんは僕の言葉を聞いて、優しく微笑んだ。そして、お姉ちゃんは前を向いた。これからは散歩に行く事が多くなりそう。なんとなく、そう思った。なぜなら四条大橋を大股で闊歩するお姉ちゃんが、どこまでも楽しそうだったから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

お姉ちゃんの憂鬱は 宇治抹茶ひかげ @hikagenon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ