雪の軽さに

サークルで過ごす日々のほとんどは酒を飲んだ記憶である。私にとって映画サークルバナネは、先輩との関係を繋ぎ止めるだけの存在であったように思う。先輩はいつも烏龍茶の匂いがした。というのも彼女の下宿が一乗寺のラーメン二郎の近くにあったからである。私を頻繁に誘い、胃袋の限界をゆうに超える麺をすすりそして帰り際には毎回

「一生行かないわ……」

と言い、次の日にはまた同じ量を食べに行く。腹ごなしに歩く事が私と先輩の間でルーティンになっていた。先輩が大学院の博士課程を修了する頃、やはり慣れないラーメン二郎に胸焼けを起こしながら、私と先輩は雪の積もった糺の森を歩いていた。

「私は思います。“このままで”果たして良いのかと」

私はもう十分やった。そう思う。母に強制され、一時は限界に陥った大学受験をした私はもう、十二分に頑張った。が、しかし本当にそうなのだろうか。教養人になって、文目が居て、新入生に無用な学生論を説いて、サークルに入って。そんなものが肯定されるべきなのか。穴の空いた器に水を流し続ける生活は、正しいのだろうか。先輩は私が思考する間も与えずに、雄弁に語った。

「その思考ができる間は大丈夫。まだ、完璧な教養人とは言えないよ」

 先輩の指す完璧な教養人が何か分からなかった。私は質問を変えた。

「どうして私を映画サークルに誘ったんですか」

 先輩はんー、と腕を組み、斜め上の方に視線を向けた。糺の森には、白く清々しい日光が草木の間から差し込んでいた。

「私と出会うため、じゃ駄目?」

 邂逅を示唆する湘南のナンパ男みたいなことを先輩は言った。しかし、悪い気分じゃなかった。

「……いい答えですね」

私はそう言った。文目にも、サークルの同期にも感じない、感情の暴走した状態。恋愛なんて青春語は私に似合わない。だから言わない。言葉にしない。それだけ言って、それで良いのだ。

「いいよ。私がそう思うこと。そして“美桜ちゃんが”そう思うっていうのが大切だからね。寂しいけど、それでもいいよ」

 何も良くない。

「……」

私は、何を思っているんだろう。私と先輩は無言のまま糺の森を抜け、鴨川デルタに足を運んだ。テスト期間だからか、単純に寒いからか、周りに私たち以外の人間は見当たらなかった。静寂。時折誰かを呼ぶような鳥の声だけが聞こえた。

「先に行っちゃうよー」

私が鳥の鳴き声に気を取られている内に、先輩は中央の飛び石に胡座をかいて座っていた。私も急いで追いかける。飛び石の上。眼前に加茂大橋が映る。雪が降る曇り空、冬の鮮明な視界の中で、ニケの石工像が如く神秘的な白さを放つ。しかしその一方で、私は優しく懐かしい感情を抱いた。それはいつも、どこかで見ていたから。

「弘前大学の教授から研究を手伝わないかって連絡が来たの」

先輩は教養人である事を止めるらしかった。

「おめでとうございます」

 反射的に声が出た。

「本心?」

 先輩の表情は見えない。

「そういう考えもあります」

私はそう言った。先輩はゆっくりと立ち上がって私の目をジッと見つめた。それはもはや死んだ魚の目ではなかった。先を見据える、未来を語る目であった。先輩は白衣の内ポケットに手を入れた。そして、お札(ふだ)のようなものを取り出した。

「これが、答えですか」

 二年かかったあの問題に、回答がつくらしい。

「うん。種明かし」

雪が舞った。突発的に起きた吹雪が、鴨川デルタ界隈を包み込んだ。

「まだ美桜ちゃんは間に合う。頼んだよ、私の愛すべき後輩ちゃん」

視界が真っ白になった。何も見えない。だから目を瞑る。雪が私の周りを包んで吹雪いているようだった。

「じゃあね」

先輩の温もりが掌から消えた時、吹雪はゆっくりと止んだ。手元に残ったのは、先輩が持っていた幾何学模様のお札だけであった。

「……結局、なんだったんだろうなー」

 私は独りごつ。誰もいない飛び石の上で、空を見上げる。曇天から降り注ぐ雪が、時たま目に入り込んで、それが水となって頬を伝った。だからきっと、これは涙じゃない。

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