私は

私は完全に燃え尽きたわけじゃなかった。確かに大学の授業は興味のあるもの以外ほとんど出ていなかったし風見鶏が如くふらふら右へ左へ京都の街を当てもなくウロウロしていた。しかし、むしろ普通の大学生よりか勤勉に勉学に励んでいたと言える。晴れた日には哲学の道で文学少女が如くふわふわとした格好でフェンディの日傘を差し猫に囲まれながら神話を読み耽り、雨の日には三条界隈にあるリプトンでScienceの起源について古代ギリシャ、ローマから続くその終わりなき地平を歩いていた。大学におけるこうした私のような達観した学生は、畏怖と敬意と侮蔑の意味を込めて周囲から“教養人”と呼ばれ、恐れはされないもののどこか遠巻きにされている感は否めないとにかく扱いにくい連中の事を指す言葉として盛んに使われていた。大学の一回生が過ぎ、大学生というものに対しておおよその見切りのようなものをつけていた二回生の頃。五月初めの新緑盛り、よく晴れて風の吹く気持ちの良い日だった。その日の私は一限にある語学の再履修のため、大学で未だ理解できないフランス語をスピードラーニング感覚で聞きに来ていた。受講生のほとんどはもちろん新入生である。どのサークルに入った、とか彼女ができた、とか可愛い子見つけた、とか。そんな話がピヨピヨと私の耳に入り込み、聞いているうちに語学どころでは無くなった。私が学んでいるのはフランス語であり新入生の不埒な活動記録ではない。私は耐えきれなくなって、授業が終わる二〇分前に体調不良を申し出て講義室から出て行った。今日の授業はこの陽キャ仏語しかない。学食でご飯を頂いてから平安神宮界隈を散歩でもしよう。そんな事をぼんやりと考え、食堂へ向かった。ごった返す食堂の中で、私の視界にとある人物が映り込んだ。

「それで? 今年も落とす気? 留年するよ?」

 凛とした銀髪は一本に束ねられ、白飯の量は私の四倍ほど。パワフルという英単語を日本語に翻訳した上で擬人化したらおそらくこういう見た目をしていて、そして肉体の美というものは人間的な美と相関があって然るべきなのだろう。北白川文目(あやめ)。同学部同学科であり去年の語学の授業で一緒だった縁がある。体育会陸上部でありながら家庭教師を三件こなし成績は常に上位であり美人で人柄も家柄もよくおおよそ勝てるところが一つもない完璧超人であった。

「うるさい。美人には分からない事なの。私のような高貴な学生は留年するように見えて留年しない」

「高貴さが留年と相関があるように思わないよ。それに褒められてるのか貶されてるのか分からないよ、美桜」

「大いに関係あるの。あと褒め貶してる」

「奢ってもらってる人間の態度か、それが」

 私は常に金が無い。バイトは始めても続かずして、父上からお小遣いを拝領する自立という大地から百マイルは離れた世界に居を構え生活をしている。脛のかじりすぎで歯を折る心配が出てくるほどである。なので詰まるところ相当の額は頂いているわけだが、古書店での一期一会やカフェでの珈琲代に変換され、月初にエグザイルを形成する福沢諭吉先生が月の真ん中にもなると姿を消し、詰まるところ物質に限定すれば本以外が消滅する。

「誠に申し訳ありません」

「素直でよろしい。もっと申し訳なさそうな顔はして欲しいけどね」

 そんな私を助けてくれるのが文目であった。自分のような教養人とどうして関わりを持とうとしたのか不思議であったが、そこまで深く私という人間に思い入れがあるわけでも無いと考えていた。文目の交友関係は広く多くの友人がいるという話で、人気者であるからして。

「今日はこれからどうするの? また無用な知識を取り入れるつもり? 私はこの後珍しく暇なのだけれど」

 文目に暇があるのは珍しかった。

「無用とは心外。けれど今日の私は書を捨て街へ出るdayなの。平安神宮界隈に行くつもり」

「平安神宮ねぇ……魅力的だけど……パスでっ! また今度」

「どうして?」

 私は愕然とした。持ったままのシャケの切り身がお皿に落ちる。文目は苦笑いとも呆れ笑いとも取れる微妙な表情をした。

「いや、出るって噂じゃん。生粋の“教養人”触らぬ神に祟りなし! 真っ直ぐ帰らせて貰うね」

「あ、ちょっと」

 私が言い終わる前に文目はそそくさと食堂から出て行ってしまった。食べる速度は私の四倍早い。彼女は彼女の有意義な生活を走り続けるのだろう。私は冷めて美味しくなくなった味噌汁を無理やり流し込み、うやうやしくシャケを頂いた。ふらふら時計台の方に向かうと、そこは見渡す限り人間でごった返していた。まだ少しだけドギマギした新入生があーでもないこーでもないと掲示板に貼られたサークルの募集用紙を眺めこの先の未来を見据え、それを遠くから見守るおそらくサークル関係者であろう集団が目をぎらつかせて今か今かと掻っ攫うタイミングを見計らっていた。私は呆れた。そしてゲンナリした。先刻のフランス語の講義も相まって、私の大学から離れたい欲が限界に達したのである。情熱に身を焦がして残るや、空虚な空洞なり。その空洞に響かせるは、刹那の水流にして、鴨川の水が如く流るるばかり。

「何かに情熱を燃やしたって、意味がない。焼け焦がれた身に残るのは器だけ。本を読んだって、運動をしたって、恋愛をしたって、変わるがわる体外に流れて行くの。新入生よ、退廃的で怠惰な生活を送りなさい。先輩からのアドバイスだよ」

 誰に伝えるわけでもなく、独りで話しながら新入生の間を通り抜けていく。

「なんだ? 今の人」

「さぁ?」

 サッカー部とアーチェリー部のビラを持つ新入生が、そう言った気がした。気がしただけで、真相は定かでない。新緑の風を一身に受けながら、私は平安神宮へと向かった。晴れ晴れ、気分爽やか。おみくじを引いて、ポメラニアンと目を合わせ、岡崎公園を横切り、そろそろ帰ろうと図書館近くを通り抜けようとした。その時である。右手に京都国立近代美術館、左手に京セラ美術館。美術館と美術館の間の神聖な、オセロ的に間を通ると美化されてしまいそうな空間に、人目を引く変質者が腕組みし、仁王立ちしていた。セミロングの黒髪を後ろに束ね、特徴的な丸メガネには死んだ魚のような目が映る。その下にあるクマは慢性的な寝不足を思わせた。もっとも特徴的なのはスラッとした痩せ型の体型にそれを包み込むような白衣と、口元に加えられたタバコであった。残念な美人、というのが第一印象だった。第二印象は“関わりたくない”だ。

「やあ、今目があったね。まさかここで出会えるとは、神様も妙な叶え方をしてくれるものだ」

 変質者は私を知ってる風であった。

「目を合わせたつもりはないです」

「私が合った、と思った事が重要なんだよ、こういう場合は」

 そう言ってふっとタバコの煙を吹いた。そしてどこか含みのある微笑みを携え、私の方へ向き直った。

「こんにちは、私の名前は雨宮甘菜(あめみやあまな)。今は大学院の三年生。あなたは有栖川(ありすがわ)美桜さんで合っているかしら」

そう言って残念美人もとい雨宮甘菜はタバコを地面にポイ捨てした。私は咄嗟に彼女の右頬をぶん殴った。

「ぐへぇ」

RPGの雑魚キャラのような声を発し、豆鉄砲をくらった鳩のような顔を私に向けた。そして次には何だかションボリして、白衣の内側に忍ばせていた缶コーヒーの空き缶に吸い殻を拾って捨てた。

「聞いていた話より随分武闘派なのね……」

「どういう話を聞いていたかは知りません。次いで私は煙草を吸う事に対して特別思うところはありません。しかし吸う方のモラルについて思うところはあります。京都の景観を汚すヤニカスは積極的にしばくのが吉です」

雨宮甘菜は私の説教を聞いている間、ずっとションボリしていた。“雨宮甘菜”そう名乗った彼女は、大学にほとんど行かない私でも耳にした事がある有名人であった。学内随一の教養人として知られる一方、彼女の所属する映画サークルは度々いい意味でも悪い意味でも話題に上がるからである。抽象化されすぎてもはや映画的キュビズムの領域に達したとか、これは映画じゃない、とか。その作品は鑑賞者の誰一人として理解できるものはおらず、私も昨年の学園祭で彼女のサークルが作る映画を見たが、やはり理解の及ぶことはなかった。

「ごめん、気をつけるよ」

素直な雨宮甘菜は可愛かった。小動物を愛でたくなるような気持ちに近いサディスティックな欲望に駆られたとでもいうべきだろうか。私は少しだけ、この先輩に近づきたいと思った。先輩が私を知っている事はこの際置いておくとして、おそらく私の生活で何か共感するところがあったから話しかけてきたのだろう。しかし、安い女に見られてしまってはいけない。私は毅然とした態度で先輩に向かった。

「ところで何の用でしょうか。私はこれから市立美術館に入る予定ですが」

「ちょうどいいわ。私も美術館に入るところだったの」

「実は京都市動物園に行くつもりなんです」

「私も」

「平安神宮にお参りするんです」

「さっき行ってたじゃない。分かったわよ。奢るからenfuseにでも行きましょう」

 Enfuseは京セラドーム美術館内にあるカフェである。珈琲が美味しいだけでなく、季節のスイーツは無類である。

「行きます」

「現金だねぇ……」

金欠大学生にとってタダより魅力的なものはないのである。それがenfuseとなれば尚更である。

「行きましょう。早くしないと売り切れちゃいます」

 京都市近代美術館から京セラ美術館に向かう横断歩道の信号機は、青から赤に変わる直前のところだった。

「待ちなさい、有栖川美桜」

 雨宮先輩は走り出そうとする私を静止させた。そして、白衣の内ポケットからマッチ箱を取り出した。

「……」

 そしてマッチの先を擦った。どこにでもある普通のマッチ。読者諸賢もその後の想像は難くないだろう。明るいオレンジ色の火がついて、ゆっくりと燃え尽きていく。しかし、私のその予想は裏切られる事となった。先輩が取り出したマッチの先端は青白く光りだし、そしてあたりの光を吸収するようにして、美術館界隈を瞬く間に夜にした。周囲は何事かと一瞬の狂乱状態に陥った。先輩はその光景を見て悪戯が成功した子供のように、ニヤッと笑い。ふっ、とマッチの火を消した。するとあたりは元の光を取り戻し、何事もなかったように昼が戻ってきた。

「今のは……」

「意味は考えなくていいよ。いずれ分かる事。そのうち話すからさ、とりあえずは閑話休題。単刀直入に言わせてもらおう、有栖川美桜さん。私の所属するサークルに入らないかしら」

雨宮先輩はそう言って、右手をポケットに突っ込みながら私に手を伸ばした。

「入ります」

信号はとっくに赤に変わっていた。けれどもその時の私は、先輩の顔をより近くで見ることに、重きを置いていた。

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