0-13 相棒

「わっ!?」

「ゔ……」


 不意にぶつかったものだから堪らず一緒に倒れ込んだそれは、人であった。頭の位置が安定しないようで大きく揺れるは低く呻いて口元を手で覆い、粘性の低い何かを吐いた。びちゃびちゃと山舘の制服に染み込む液体は生地を変色させることなく、ただ水のように暗くするだけで染み込んでいく。街灯に照らされる飛沫も透明に見えたのだが、強く血液に近似した鉄臭い匂いを放っていた。


「は……ぁ……」


 彼はふらふらしているのに、胸元からハンカチーフを抜き取って濡れた制服に押し付ける。おそらくはきちんと拭ってくれようとしているのだろうが、手が持ち上がる様子は無かった。むしろハンカチーフを抜き取るためにバランスを崩したことで頭の横に浮遊する水のリングが溶け出すように流れ落ち、更に濡れてしまっている。彼に、そしてその様に呆気にとられていた山舘は、ついにその名を呼んだ。


「シノ……くん?」


 ピクリと反応してようやく顔を上げた彼は、今にもあの波間のような青の光が失われそうな黒髪の隙間からブルーグレーの目を覗かせた。水面の潤いは霞み、淀んだ瞳の瞳孔はかろうじて形を保っているように見える。彼は焦点を合わせるように数回まばたきをして、唇を開いた。


「やま……て、く、?」


 力が入らないようで、その声はほとんど聞き取れないほど掠れている。「山舘くん」と呼んだのだろう瞬間、気が抜けたように倒れ込んだ。山舘は慌てて肩を抱く。


「ど、どうしたんだ! 何が……気を保ってくれ!」

「わ、かぁ……な、くて、いま……」

「わ……分からない?」

「ぃま、……よ、る、……かな」


 その目を見て、これはただ時間を聞かれているわけではないと直感した。同じ目で『信じてくれる?』とかれたのが脳裏に浮かぶ。山舘は一瞬、体を強張らせた。地面に落ちたままの手帳をちらりと見て、目を閉じ、少し深めの息を吸って、まっすぐにシノの目を見通す。


「夜だよ、シノくん」


 シノはへにゃりと笑って「おしえてあげる」と途切れ途切れに言いながら山舘の耳元へ口を寄せた。普通の声量だったが、酷く声が掠れているせいで聞き取るのは困難であった。


「ぅみづ、せ……やく。しが、にじゅ、ぅな、なに。じゅ、ろ……じ、は……。すてら、の、…………」


 聞きながら、手帳に書いたキラキラ光る薬を発売している会社の一覧に『海月うみづき製薬』があったことを思い出す。Stellaの取り引きかなにかが、4月27日の16時半にあるということを伝えたいのだろう。そこまで思い至って、シノの声がしなくなっていることに気が付く。


「シノくん? ……シノくん!」


 声を発しなくなったシノは山舘の肩口にだらりと顔を伏せていた。急いで状態を確認したい気持ちを抑えて、傷病者への心得を思い返す。


「できるだけ動かさないように……」


 山舘は抱きかかえるように頭と胴体を固定しながらシノを横たえる。一息ついて脈を確認すると、異常な脈拍ではありながらも動いてはいた。薄いながら呼吸もしている。それから出会い頭に何かを吐いていたことを思い出し、頭を右に横向かせた。

 冷静に行動しているようでいて、山舘の頭は混乱を極めていた。どの情報を拾えばいいか、次は何をするべきか。いつもであれば手帳に書き出すことで脳のキャパシティを整理しているのだが、今、そんな時間的余裕は存在しなかった。


「通報、救急は、えっと、電話」


 携帯電話を仕舞ったポケットはどれか探る手が、それよりもよほど目立つ肩に付けた大ぶりの機械にぶち当たった。手の痛みでハッとして無線の受話器を手に取る。回し慣れた位置に電波ツマミを回して聞き慣れた警察たちの声が聞こえるようになると、会話を聞く間も無く「こちら萬津橋3」とヘリを使っていないにも関わらず名乗ってしまった。訂正するべきか? いや、その前に通報を、いや。更に情報が増えてしまった頭では次に何を言ったらいいか分からなくなり、沈黙する。少し間があって、統制官の声がした。


『こちら本部。萬津橋3、どうしましたか? どうぞー』

「あ、あの、急病の……」


 応援、そうだ、応援を。応援は、なんて伝えたらいいんだ?

 山舘は人の応援に駆けつけるばかりで、自分が応援要請をするのはこれが初めてであった。言葉が見つからない。焦る目が、救護対象……シノを捉える。昨晩の――


  『刑事ものでは、得てして相棒が居るものじゃない?』


――いや。そうだ、山舘にだって本来の相棒が居るのだ。


「た……助けてくれ! 誠志くん!」


 賑やかだった警察無線が静まり返った。一旦叫んで落ち着いてみれば、目星は今寝ているはずだ。聞いているわけもなければ、返答があるはずもない。困惑気味の統制官が『ええと、山舘くん』と何かを言いかけたとき、マイクをシーツに擦ったようなノイズが走った。


『今、だれか呼んだぁ……?』


 明らかに寝起きの、半ば寝ているとろとろとした声。特徴的な間延びしたハスキーボイスは、名乗る必要もなく山舘に届いた。


「誠志くん!」

『はいー……こちら、誠志くんですー……。えー……うきょう~?』

「羽梟だ! 助けてくれ、僕、救急車をっ」

『ん~? 落ち着きなよぉ……ってかこれ共通無線じゃねえか恥ッず』


 一気に目が覚めたようで、勢いよく布団を剥いで起き上がる音が聞こえた。統制官が大きめの咳払いをする。


『こちら本部。目星くん、何かしらのインシデントが起きているようです。内容の確認ができ次第こちらで適切に処理しますので、山舘くんから何があったのかの聞き取りをお願いします。どうぞ』

『は、はあ……。こちら目星、了解です……?』


 目星は首を傾げたような声で統制官の指示を了承する。仕事に関しての切り替えが早い彼は、早速『えーと、救急車を~? ヘリで撥ねたか、急病人が居るのか、どっち?……』などと聞きつつ、仮眠室を出るために扉を開けたようである。彼ならきっと、ここまでたどり着いてくれる。山舘はようやく落ち着いて報告のことを考えられるようになった。

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