0-10 迷子のキミ
シノは丁度ヘリが安定空域に達したところで話し始めた。
「伝えてもいい? どうも、屋上に自殺志願者が居るらしい」
彼は無線機を耳に当てながら、居るものなんだね、と物珍しげな声で呟く。山舘は「案外珍しくないんだ」と府庁の方向に舵を切った。
「しかし、おかしいな……。こんな時間だ、府庁は締め切ってるはずなのに、いったいどこから……?」
「関係者なのかもしれないね」
「いや、職員なら自殺する理由は無いと思う」
言い切ると、シノは背もたれに体を預け、山舘の横顔を見た。
「どうしてそう思うの?」
「前府知事のときに、かなり労働環境が改善されたんだ」
「というと、
「そう、津路……」
言葉が途切れた。府警察署と府庁はほとんど目と鼻の先にある。ホバリング操作に移る山舘の目には、すでに屋上の様子が見えていた。
「でもあのヒト、評判良かったよね? どうして退任したんだっけ」
何の気もなしに出てきたのだろうシノの疑問に、山舘の呼吸が浅くなる。
「退任したんじゃないんだ、彼は」
「山舘くん?」
様子のおかしい山舘を伺うために体を起こしたシノの背もたれがギイ、と鳴った。山舘の目は、動くことなく屋上の端を見つめている。
「あの時、僕が追って……冤罪だったのに――」
まばたきの裏に、高級な日本家屋の梁から垂れた縄の軋む光景が映る。夕陽が赤く燃やす部屋で揺れる、聡明で快活だった男の目からは光が失われていた。その足元で涙を枯らしながら男を見ていた青年が、扉を開いた山舘を振り返る。
「――
屋上のフェンスの向こうで、あの時と同じ、夜闇の沈殿する夕映えの瞳がこのヘリを――山舘を捉えていた。ぶわりと冷や汗が流れる。府庁の内部を知っていた人物。前府知事の息子である津路芳人がそこに立っていた。操縦桿を握る手に力が入る。
『
ヘリ無線直通のノイズ混じりながらも耳に馴染んだ間延びした声で、ハッと我に返った。
「誠志くん!? どうして……寝るって言ってたんじゃ……」
『あ~えっと……お前がくれた、コーヒー? あれで目が覚めちゃってさー』
そんなわけがない。彼の寝付きの良さと深さは警察学校時代によく理解している。何かしらの理由で起きていたに違いなかった。
「それなら、」ついてきてくれたら良かったのに。そんな言葉を掻き消すように目星は『それよりさぁ』と続けた。
『あの子、会話もできねぇし、庁内に入ろうとしたらフェンス乗り越えちまったんだよ。後ろから保護できないかなぁ。いつもみたいに』
「それは……」
改めて津路を見た。もう彼は山舘から視線を外して、建物の端から下を見下ろしている。恐らく、まだ踏ん切りがついていない状態だ。今からヘリを止めて駆けつけて間に合うかどうか。しかし、山舘は頭を振った。
「……無理だ、僕、あの子には」
できる気がしなかった。間に合ったとして、もしくはギリギリだったとして。彼の父を追い詰めた張本人である自分が、いったい何を言えるというのだろうか。
『え、なんで!?』
焦りにも怒りにも聞こえる声。瞬間的に苛立ってしまった。
「ああ、分からないだろうね! キミはあの時も一緒に居てくれなかったんだから!」
『は、えぇ……?』
困惑する目星の声で胸の奥が冷えた。あれはただの驚愕だったのだろう。いつもなら「任せて」と言って飛び込んでいく場面だ。警察としては、それが正しい。だが、それができない自分にも、毎回居てほしいときに傍に居てくれないバディにも、やりきれない気持ちを爆発させてしまった。
「あ……ごめん、違う、えっと」
急に冷静になった頭が、こんなことをしている場合じゃないぞと打開策を探して視線を動かす。ふと、津路の背後で透明な青が光った。
『こんばんは。ねえキミ、どうして飛ぼうとしているの?』
責めるでもない、慰めるでもない、ただ凪いだ海のように穏やかな声が無線から聞こえた。まだヘリは空中に居るのに。横を見ると、ドアが開いた助手席は空っぽで、備え付けの降下用ロープが風にはためいていた。
急に現れて手を掴んだシノに驚いて足を滑らせかけた津路は、フェンスを抱きしめながら焦った声で「行かなきゃいけないんだ」と返した。
『どこへ?』
『星が、星が見える所。そうじゃないと赦されないって。白いのが、言うから』
津路は酷く混乱しているようだ。彼の言葉を理解しているのかいないのか、シノは至極落ち着いた様子で欄干に肘を付いた。
『でもキミ、本当にそこへ行きたいの?』
その声はどこか楽しげに聞こえる。津路はハッとして口を押さえた。
『甘い……』呟いてから、じわじわと繋いだ手の上に塞ぎ込んでいく。『甘いだけが良い。だってもうずっと、寝て、起きて、真っ赤で! 黒だから、ダメだって。苦い言葉ばっかりだ、俺が生きてると、皆が不幸になるって、痛いのに……もうやだ……』
震えた声を聞いて、山舘はいたたまれずに頬を噛んだ。彼の聞いている悪意、その元凶に加担してしまったのは自分だ。しかし、シノはどこ吹く風とばかり首を傾げる。
『そう? 俺は不幸ではないよ』
その言葉を受けた津路は勢いよく顔を上げた。
『今から不幸になるんだ! ……黒いのがそう言ってる』
彼には何かが見えているのだろう。津路は怯えた様子で周囲を見回す。シノは欄干に預けていた腕を広げた。
『不幸にならない可能性だってあるでしょう? 俺が不幸になるかどうかはキミ次第さ。黒いのが指図できることじゃない』
シノは津路の手を両手で包みこんだ。
『キミが死にたいと考えているとは思えない。だって、あんなに強い瞳で助けを求めていたじゃないか!』
それはあの夕映えの目のことだろうか。山舘は自分を責めているのだと考えていた。それを、シノは「助けを求めていた」と言うのだ。にわかに信じ難かったが、津路は覚束ない動作で頷いた。
『それなら生きていて。その意志を、俺が赦してあげる』
そして少し引っ張り、優しい声で『こっちにおいで。俺に、キミの生き様を見せてくれる?』と言うシノに導かれるように、津路はフェンスの内側へ戻ってくれた。そのままシノが抱きしめると、小さくすすり泣く声が聞こえる。
『ありがとう。まだキミの目を見ていられるなんて、今日は素敵な日だな』
津路だけでなく、山舘の胸の奥までも透明にされたようだった。背をもたれて安堵の息を吐くと、体が少し軽い。口元を手で覆って屋上の光景を眺めながら思考を整理していると、階段を登る音まじりの無線が聞こえた。
『羽梟~、あの坊っちゃん何者? ウチ、特殊部隊とかあったっけ……』
次いで、大きな溜め息。階段を登った程度で疲れる彼ではないから、それを聞いて顔が緩んだ。目星の言う事は最もだ。普通、一人でロープを降ろして急降下するなど、訓練も積んでいない青年ができるような芸当じゃない。それは全く命知らずというものだった。屋上へ登ってきているであろう目星、そしていつもの笑顔でこちらへ小さく手を振るシノに合流するべく、山舘も屋上へヘリを停める操作をしながら「分からない。けど…悪い子じゃない、と思う」と返すのだった。
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