『リリ』

みうら

『リリ』

 稀代のハッカーによる犯行の、三番目の被害者になったらしかった。一瞬にして、おれはこの世界にいない人間にされた。


 ◇


 おれは生まれて初めて雨を見ていた。いたって健康的な生活を送ってきたから、降雨が行われる真夜中まで起きるという経験がなかったのだ。

 シャワーよりも細かい、霧のような水が全身を濡らすことを「雨が降る」と表現する。


 度数の高いアルコールが入ったときみたいな歩き方で、おれは街を彷徨う。三毛猫の形をしたロボットが、不審そうな顔をしてミャオウとなく。いつもならすり寄って来るのに、君もおれを忘れているのかと悲しくなる。どうやら個人情報を集めたデータベースごといかれてしまったらしい。


「そこの、あ、おにいさん、どうしたの」

 後ろから投げかけられた音程の狂った声にとっさに身を引きながらふりかえると、薄汚れた、十代後半ぐらいの見知らぬ女が座っていた。ビル陰に紛れていたのか、気づかず通り過ぎていたようだ。

 おれが喋りかければにこやかに返答するものの、この世界の住人は話しかけるという行為を殆どしない。だからこの女はおそらくかなりの重要人物──しかし、全く記憶にない。

 いつもの癖で女の名前を確認しようとして、目の前がエラー通知で真っ赤になる。そうだ、おれは今アクセス権限を持っていないんだった。

「私の名前はね、ね、アリっていうんだよおにいさんデータベース載ってないのなら私と同じだね」

 乱高下する声に不快感を催して、おれは眉を顰める。

「おれがデータベースに載っていないのを知っているということは、アクセスができているということだろ」

「できているから、けれども、でも、それはリリのおかげなのよアリは違うの載っていないの」

 支離滅裂な言動をし、女は夢見心地でうたう。

 普段であれば不気味に思い近づきもしなかっただろう。けれどその時のおれはやはり気が滅入っていて、バグっていたらしい。

「アリも忘れられたのか」

「私は覚えられていないの初めから」

 しゃがんで目線を合わせてみると、アリは意外なほどに端正な顔だちをしていた。


 ◇


 アリは二重人格者であり、『リリ』という主人格から生み出されたのだとおれが察するまでには大した時間を要さなかった。とにかく都市の役所で相談しよう、と朝一番に乗り込んだバスのなかで、アリが身の上話をしはじめたからである。

 『リリ』は十六歳の女性だそうだ。なにか大きなショックを感じる出来事があって、記憶のほとんどを失った。アリはその時にうみ出された人格。

「リリはね、ね、素敵な人よ。今は出てこないので見せられないので残念だわ、とても素敵なのにねー私がうまれてから出てきてくれないの」

 アリが飛び跳ねるのに合わせて車体が激しく揺れる。幸いにも他の乗客はいないが、そのうち墜落しそうでおそろしい。

「なあアリ、そろそろ寝たらどうだ? 徹夜をするとパフォーマンスが落ちるらしいぞ」

「そうな、の、そうねえ、おにいさんの確かにそうかもしれないわ言うとおり」

 アリはおれに素直に従って床に寝転ぶと、すぐに寝息をたて始めた。

 親から受けた指示をけなげに守る子供のようだ、と思う。

 目的地に到着してもまだ寝ているので、おれはアリをおぶって外に出た。軋んだような音とともに、バスが飛び去っていく。

 このバス停の一本先には大通りがあって、そこを抜けたら目的地。アリは小柄な方だが、それでもおぶって歩くのは重労働だ。個人データさえ消えていなければもっと方法はあったのに。おれはため息をついて歩き出した。


 ◇


 いやー、不運ですねえ、お兄さん。担当者である楕円形のメガネをかけた中年男性──タロウが、へらへらとわらった。

「確認できる限りでは三人目ですねえ。政府のデータベースからの消去と、それから市民たちの記憶からの消去」

「復旧はできますか」

「それはちょぉっと難しいです。ひとりひとりの脳内チップに電気ショックを与えて働きかけているようなのでねえ」

 ちょぉっと難しい。おれが途方にくれてその言葉を繰り返すと、タロウは困っているみたいな顔をした。上手だ。まるでそこが定位置かのように、眉が一瞬で八の字になる。


 タロウと目を合わせるのがなんとなく嫌で右の方に視線を逸らすと、アリがよだれを垂らして寝ていた。

「おねがいしますよ、なんとかできませんか」

「うーん、私たちも頑張っているんですがねえ。なにせあなたがた入居者の処遇の全ては彼の思い通りですから」

「彼? おれに関する記憶を消したハッカーが誰なのかわかっているんですか」

 タロウはまさか、と左手をゆっくり振った。それと同時に、廊下から何かが崩れるような音と「すみません!」。

「あー、ごめんなさいねえ。重要人物の中に行方不明者が出たのと、それから本日新しい入居者がいらっしゃるということで職員たち、バタバタしておりまして」

 またわざとらしい八の字。それから、ゆっくりと腰を浮かせた。

「まあ、とりあえず私どもにもどうしようもできないということで、申し訳ないですが今日はこのへんで失礼します」

「いや、困りますよ」

「そう言われましても忙しいのでねえ。新しい情報での登録だったら対応できるかもしれませんから、また今度にでも」

「だから、それじゃあ困るんですって! おれは消えたままは嫌だ!」

 なんとか引き止めようと手を伸ばしたが、意図した以上に必死な声が出たことに困惑している隙にするりと逃げられる。


 タロウは振り返らなかった。お先に失礼しますねえ、と音ひとつ立てずに閉じられた扉を前に呆然とたちつくす。役所に行けばきっと解決の糸口がみつかると信じていただけに、落胆は大きかった。

「アリ、起きろ。帰るぞ」

 我ながら力のない声だった。後ろを見ると、おれの大声が目覚ましになったのかアリはすでに起きていて、違和感を覚えるほどにおとなしく椅子にすわっている。

「嫌だわ、もう嫌。あたしはだってあの人と結ばれたのよ、そんなことってないわ、いいえ、え、あの人って誰なの私知らないのにけれどだけども何が嫌なの」

 近づくと、アリが肩をわななかせながら、小声でつぶやいていることに気づいた。もともと異常な喋り方をする女ではあるが、今のそれはまた違っているように感じられて恐怖を覚える。

「アリ?」

「ねえ、あ、どうしよう消えちゃうわ私だけどリリは全部忘れちゃう幸せだと思わないわ」

 アリは強く頭をかきむしった。血が出るほどの強さ。おれは慌ててその両腕をつかんだ。アリはかすれた悲鳴をあげ、身をよじるようにしてばたばたと暴れる。瞳の焦点があっていない。どうやらパニックを起こしているらしい。

「落ち着け、アリ。わるい夢でも見たか?」

 極力刺激を与えないよう、ささやき声で尋ねたそれはアリに届かなかったようで、顔をひっかかれてしまった。じくじくと頬が痛む。

 落ち着け、落ち着け、大丈夫だ。それでも、おれはあやすようにそう繰り返す。大丈夫だ、落ち着け、安心しろ。そうしているうちに、アリのからだの力が徐々に抜けていくのがわかった。

「帰ろうか」

 おれの言葉に、アリはこくりと頷いた。


 ◇


 役所の廊下を、アリと手を繋いで歩いているときだった。

 やっと見つけた。そう声をかけられ、後ろを振り向くとタロウがいた。先ほどの無気力な男と同一人物とは思えないほどに目を爛々と輝かせている。

「探しましたよ『リリ』さん、どうやらバグが起きてしまったみたいでねえ、こちらから位置を確認できなくなっていたんですよ。まさかこんなところにいらしたとは気づきませんでした! 新たな入居者さんが来ますから急いで私についてきてください」

 タロウは早口でそうまくしたて、アリににじりよった。アリは怯えた様子で、おれにすがりつく。落ち着いていた呼吸が、再び荒くなってきているのが感じとれる。

「さあ『リリ』さん、いきましょうねえ」

「私リリじゃないし、あたし、嫌だわ、それに」

「もう時間がありませんから、さあ」

 この男は本当に困ったときには眉をつり上げるらしい。アリの腕が乱暴に掴まれ、おれから引きはがされる。

「嫌、あ! 私嫌だKと一緒にいるわ!」

 K。K、K、K、K、K!

 知らないはずのおれの名前を叫んで、アリは泣いた。


 おれは目を見開いた。

 脳に電流が走って、唐突に理解したのだ。記憶を失っていたのはおれも一緒だったのだ、と。おれは額をおさえてうめいた。

「時間がないというのは、おれの代わりの新しい主人公が誕生したということですか?」

「ああ。思い出したのですね」

 タロウはアリを掴んでいた手をはなし、苦笑した。よろめいたアリを、おれは慌てて支える。おれのこいびとを守ってくれた人格を。

「おれのデータはいつ?」

「昨日午後四時三十分五秒ですねえ。プレイヤーデータマルイチ・『K』は完全に消去されましたよ。だから、『リリ』さんのこれはただのバグです」

 八の字の眉は、けれど今度は自然に形づくられたようだった。こんなことは初めてで、今までの場合は、主人公のデータ消去と同時に『リリ』の記憶も初期化されていたのだと付け加えられる。

「申し訳ありませんが、そろそろ本当に時間がない。新たな入居者は名前を得ました。『リリ』さんがいなければこの世界は成立しませんから」

 焦りを滲ませたタロウの声に、おれは覚悟を決めるしかなかった。記憶を取り戻した時点で、もうどうしようもないのだということには気づいてしまっていた。

 大粒の涙をこぼしながらおれを見つめる顔を目に焼き付けて、優しい声で言う。

「なあ、アリ。『リリ』と代わってくれないか?」

「だめ、私代わったらKを忘れてしまう」

「……大丈夫だよ。安心していい、君はリリを守り切ったから」

 アリは目を見開いた。それから、ほんとう? と迷いを浮かべて問いかけてくる。

「本当だよ、ありがとな」

「そうなのね。おにいさんが言うからそれなら安心だわ」

 眩しいものを見るように、目が細められる。穏やかで、幸せそうな顔をしていた。

 アリのまぶたが、ゆっくりと落ちた。

 

 ◇


 再びまぶたがひらかれたとき、その女は、アリでなくなっていた。

 女は、新たな主人公に笑いかける。

「初めまして、お兄さん。あたしは『リリ』よ」

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『リリ』 みうら @01_MIURA

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