第3話 破壊×創造×身体×無常

「捨てて得る」このエッセイのようなものを最後まで見てもらえるようにかっこよく言い換えると、「破壊して創造」、これ真理。

 ちょうど一年前、僕は大学の春休み真っ只中でずっと部屋に閉じこもり、何をしていたのだっけ? とりあえず覚えているのは、思い出したようにおもちゃ売り場に出かけて数千円のルービックキューブを買ったということと、この虹色の箱に数千円を出すバイト未経験大学生はいささか親不孝者なのではないかと売り場に並ぶルービックキューブと長い間にらみ合っていたということと、そんな僕を店員がじろじろ見てきてやけに近くをうろついてくるなぁということと、その日が平日だったということの、ほんとに限られてつまらないこと。

 それから一日、二日あるいは三日で全面揃えられるようになり僕は大学で失いかけていた自尊心みたいなものを取り戻す。

 そして一年後の今日、ルービックキューブの揃え方を綺麗さっぱり忘れて、忘れた代わりに、電子ピアノをゲットした。三万円くらいだった。そしてsummerを練習して二日、二割くらい弾けるようになり、三日、三割くらい弾けるようになった。一年前に取り戻した自尊心は特に腐ることなく成長していって、今では向上心にまで進化した。あと、身体性を排除した遊び(昼寝、夕寝、YouTube、アニメ、等)に耽っていた2024年。2025年は身体を使った遊びに時間を費やしてみようと思っていて、あるいはこれは人生の一本のテーマになるのかもしれない。とりあえず、ピアノを始めて、ついでに水着も買って市民プールに行った。金が減り、大学ほとんど最後の時間を使い、ルービックキューブの揃え方を忘れて、友人関係をさっぱりさせたまま、TOEIC含め院試の勉強を怠り、筋肉と音楽をファッションに取り入れてみる予定なのである(TOEIC院試勉強はちゃんとします)。

 そして、いつも破壊されるのは今あるもので、時間、金、人間関係、価値観、物、思い出、方法、云々、まぁ、「常」を捨てるということなるのでしょうか、知らんけど。残酷です。

 そして一年前に何をしていたのか、ルービックキューブを買ったくらいしか覚えていないのだから、それ以外の記憶を知らぬ間に捨てていたということになるかと、つまりですね、一年前の記憶を捨てて何かを得たんだろうと、何を得たんだろうとよく考えてみたんですが、何も得ていない気がします、つまりですね、そういう破壊、創造のない破壊みたいなものもどうやらあるらしいんです、これはもちろん無目的に行われて、人間は動物だから、みたいなもので、仕方ない気がしますが、僕にはもったいなくて今日一日、今一瞬を、僕が記憶していなくても脳が何処かで覚えてくれるように楽しんで生きるしかないんだなと。あるいは、記憶の自然淘汰、きっと今覚えていることや些細な思い出や小説の内容なんかが、そんな一年前のきっと素晴らしくてよだれの出る記憶なんかよりずっと大事なんだろうか。深夜5時でした。

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【エッセイ】キロクとハメツ 大岡 @Ioio_n_furinkazan

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