第52話 一人

 世話になった

 私も戻る

 では


 弁天さんらしいあっさりとした感じだ。放るようにテーブルに置いた。

 この静けさはテレビがついていないせいではない。心臓の拍動音が耳にそばで鳴るように聞こえる。本来ならこの静寂の中で来島から過ごしているはずだった。ところがその初日から俺は一人ではなかった。よく考えてみれば、しゃべる鳥も弁天さんも岩の精霊も白い蛇も鬼も人に変身するトナカイも夢みたいなものだ。そう、一時の瞬き。無常とかいうやつに言い換えてもいいだろう。いつか言っていたな、お能登さまが「煙のようなもの」だと。現れたと思ったら消えて、元からなかったかのように見えなくなって。それは何も今回に限ったことではない。中学や高校の同級生全員を覚えてないし、上級生や下級生も同じだ、まして小学校の頃のことなんて同じ学校にいたとしても記憶にない先生だっている。そうそう、会者定離とかだっけ。来島の思い出にしまっておけばいいんだ。そう、それでいいんだ。

 気が付けば十三時になっていた。時計を見たきっかけは腹が鳴ったからだ。食べ物どころか、一滴も飲んでもなかったので、電気ケトルをセットした。スマホが鳴った。会話をする気にはなっていなかったが、画面を見て即行で出た。

「どうやったらこの気分を晴らしてくれるんですか」

 苛立ちをぶつけた。優男な声色が返って来た。当たり障りのない声に惑わされない。のらりくらりと結局ははぐらかされる。依頼人だった。

「乗り込んで来て殴りますか?」

 本気ではない。それに、

「そんなことしてもこの憂さは晴れません。それに俺がそんなことするとは思ってないでしょ」

 予想が立つなら、電話を掛ける前に高飛びしている、そんな人なのだ。そろそろ本当に人なのか疑わしく思えてきたくらいだ。

「今回の依頼は完了です。ですが、そこの契約はすぐに解消というわけではありません。ですから、気の済むまで滞在してもらって結構です。生活費は必要経費に計上するので安心してください。とりあえず三十万振り込んであるので確認してください。あ、領収書もらうの忘れないでくださいね」

「自己領収書を発行したり、ドンペリをケースで注文したりしたい気分ですが、それも経費で落ちますよね」

 電気ケトルの中の水が動き出していた。踊るように水面が波打って泡を立たせていた。

「小切手も必要ですか?」

 沸騰した。電気ケトルはそして泡立ちを止めた。悟られないように一息をついてから、

「それであなたの気が済むなら」

 努めて明るく答えた。失笑が聞こえた。

「それはどちらかと言えばこちらの……。いえ、なんでもありません」

腹は立たなかった。むしろ、ちょっぴりとした達成感があった。頭を掻いていた小テストで思いのほか、良い点数が取れたみたいな。

 その後、二言三言交わした気がするが、どうでもいいことだったので、耳を素通りしていった。

 電話を切って、もう一度電気ケトルのスイッチを入れた。ほどなく沸いた。マグカップを出して、コーヒー瓶の蓋をひねった。コーヒーの粉の香ばしい香りがした。喉が鳴った。スプーンを瓶の中に入れた。手が止まった。瓶からスプーンを戻した。先端にわずかばかりのコーヒーの粉がついてきた。スプーンを逆さにした。ほとんど瓶の中に戻ったが、スプーンの先端にはこげ茶色の粒子がわずかに残った。拭き取ろうとして、そのままマグカップにさした。

 湯呑を出した。茶筒と急須に目がいった。ティパックを出した。湯呑にお湯を注ぐと瞬く間に緑色になった。ティパックを除いてダイニングチェアに戻った。

「味もそっけもないだろう、それでは」

 いつぞやお能登さまがティパックのお茶を評してそう言っていた。なんで啜った拍子に思い出すかな。啜って啜って、ぬくもりが体の隅々まで染み渡って行った。湯呑を見おろすともう空になっていた。もう一杯飲んだ。腹が鳴って、冷蔵庫を開けた。肉も魚も野菜も揃っていたけれど、自室に買い置きしておいたカップラーメンを食べることにした。

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