第35話 弁天さんから
「ちょっとまだ飲むんですか?」
風呂から上がると弁天さんが起きていて、酒をぐい飲みに注いでいた。
「びーるとやらでは酔えんからな」
そのビールとやら三百五十ミリリットルで顔を真っ赤にしていたのはどこの誰だろう。
「お能登はどうした」
「部屋でくつろいでいます」
「飲んでいればいいものを」
「そんな気分じゃないんじゃないんですか」
バスタオルで頭を拭きながら着席。缶ビールの蓋を開け、グラスに注いだ。
「志朗、お能登に惚れているのか?」
唐突にもほどがある。口にしていたビールを吹いてしまった。
「惚れてんのか」
ぐい飲みを空けて、問いかけを確定事項にしていた。せめてテーブルを拭く手伝いくらいしてくれてもいいんじゃないか。
「ああ、まあ惚れてる、惚れ、そういう感じはしてますかね」
何を見るわけでもないが中空を見つめながら答えた。神様相手にはぐらかしやごまかしやお茶を濁すことなどできるわけがない。
「そうか」
ぐい飲みに注ぎながら俺の言葉を確かめていた弁天さんは、
「神の忠告をしてやろうか」
一口啜ってぐい飲みを置いた。からかうなら相手は俺じゃないはずだが、お賽銭なくいただけるのなら聞いておくのもやぶさかではない。
「本当に、志朗がお能登に会ってくれて」
カラカラと笑ってぐい飲みを空けた弁天さんの眼元が光っている気がした。
「それでも忠告は忠告だ」
一転してこのシリアスな感じは意図的に感情を損ねさせようという、いつもの弁天さんのお調子ではない。
「惚れててもかまわん。ただそれ以上踏み込まん方がいい」
それはお能登さまが既婚者で不倫裁判に至り、俺が多額の慰謝料を払わなければならないからだろうか。
「お前は……」
あの弁天さんがあきれていた。そんなに的外れなことを言ったのか。あるいはボケが分かりにくかったか。けれども、弁天さんが真剣になっている以上、それこそ茶化すのは違う気もする。
「ああ、だろうな。お前はそこまで分かっていて。聡いと言われるのがそんなに嫌か」
これくらいの受け答えは小気味いい会話術でしかない。頭の回転とかそういうこととは違う。
「そう。回転どうのではない。なんだったら私でなく志朗が……。いや、それはそれでむごいか」
徐々に弁天さんの言いたいことが分かりにくくなってきた。例の鳥に注意していた割に、酔ってるせいか弁天さんの方が密林に入っているようなものだ。
「酔ってはおらん」
万歳をするような否定のボディラングエッジそのものが酔っている証です、弁天さん。
「言っておいたからな。寝る」
千鳥足で客間へ向かう弁天さん。部屋に入るまで念のため見送ってからテーブルの上を片付けた。ビールの缶や徳利、ぐい飲み、御猪口などなど。台所に持って行って洗った。洗いながらシリアスな弁天さんが言っていたことを反芻してみた。やはり要領を得なかった。とはいえ、自戒を込みで分かることがあった。お能登さまにははたして踏み込んではいけない部分が推測ではなく確かにあるということだった。神様が言うくらいだから。お能登さま自身がその雰囲気を醸し出していたし、どっかの誰かさんみたいにパーソナルスペースが零距離なわけでもなかった。かといって壁を作っているのとも違った。
そもそもお能登さまの方だけを言っていることでもなかった。俺自身も惚れているのは確かな感覚だった。ただ恋愛としての好きという語が意味する感情の幅にこの感情がぴったりしているとは感じられなかった。お能登さまに愛を告白してなんてことは想像もできなかった。惚れてます、とは言える。それから関係性を変えるなんてことは考えられなかった。それに俺とお能登さまとはこの旅と仕事で出会っただけである。機会だと言えば確かにそうだが、お能登さまが今後俺と一緒にいると言い出すとは思えなかった。だから説得してまで同居させたいと思うのが恋愛なのかもしれないが、そこが俺にはなかったのだ。仕事にまい進するお能登さまを知っているからかもしれなかった。
洗い物を終えて何だか物足りないような、これ以上考えても物足りるようにはなれない気がして、冷蔵庫を開けた。ビール缶を開けた。グラスはもう洗っていた。そのまま飲んだ。半分ほど飲んで、しかしグラスに開ければ良かったと後悔した。グラスなら泡が見える。浮かんでは消える泡。それを飲み干す。グラスは空く。それを見ることができる。見ることができれば弁天さんの言葉も悶々とした思考も飲み干すことができるような気がしたからだ。それから二本空けた。布団に入って、ビールはあんなに薄味だったかと、日本酒でも飲めばよかったと思った次の瞬間に寝入ってしまった。
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