第47話
*
窓の外は、静かだった。
四角い窓に映る、真っ白い雪。
ぼうっとしたまま見ていると、ガラスを伝う雫が一粒、細く長い線を引きながら、ゆっくりと落ちていった。
リビングから楽しげな声が聞こえてきた。
お母さんには、私も食べたいから残しといてね、と言われて渡された高級そうなお菓子。お父さんからはバスケで使えるリストバンドをもらった。
でも——改めてよく見てみると、赤色の生地には、祐天寺、と、背番号の8、それに、
ひょっとしたら……
お姉ちゃんのいない家族で過ごすクリスマスは、初めてかもしれない。
そう考えたら、ほんのり優越感が湧く。晩ごはんもクリスマスらしいご馳走が並んでいて、ローストチキンに、チーズたっぷりのグラタンも食べた。あと、ケーキも。
窓を開けると、思わず身を乗り出してしまった。
頬がひんやりとする。ふっと息を吸い込みながら、空を見上げた。
「——わあ」
透き通るような夜空に月が浮かんでいた。
ちょっとだけ欠けた月が見守る中、白い息がふわりと溶けるようにして雪の中に紛れて消えていく。
空は深い
それは本当に幻想的で、以前、水族館で体験した海の中に迷い込んだみたいだった。海の中に雪が降っている。
まるでクラゲみたいに。ふわりと浮かんでは、ゆっくりと沈んでいく。
そんな雪を眺めていたら、鳴海君と一緒に見たクジラを思い出した。
実はあのあと、クジラについて調べてみたことがあった。そのときに、アラスカから南へ向かうクジラが、ハワイの近くまで来ると、イルカたちが迎えに行くことがあるという記事を目にした。
彼らはテレパシーで会話をするとも言われていて、クジラの低周波は、数千キロも離れた場所まで届くことがあるとか。
嘘みたいな話だけども……でも、もしそんな能力が私たちにも本当にあったら——?
私なら真っ先に、鳴海君にテレパシーを送る?
——いや、無理。恥ずかしすぎる。
というか、そんなことが本当に起こりうるのなら、自分が考えていることまで全部伝わってしまうのでは?
もう一度、月を見てから白状した。
……そんなの、絶対に生きていけないです。
そのとき、スマホが鳴る。
窓を閉めてから手に取ると、結衣からのLINEだった。画面に映る、餅つきを連打しているウサギのスタンプに、つい吹き出して笑ってしまう。
ウサギは必死な表情で、汗を飛び散らしている。『次はインターハイ優勝!』という文字も続けて送られてきた。
結衣らしい。そう思うと、自然と頬が緩んだ。
何となく、そのままトーク画面をスクロールしていた。指は気まぐれに動いていたはずだった。なのに、ふと止まる。気がつけば、画面の下の方まできていた。
視線の先には——鳴海君のアイコンが、ひっそりとそこにある。中学生の頃のままの。
『明日、お互い頑張ろう!」
という文字も、そのままだ。
最後に私が送った、返事のないまま、時だけが止まったメール。
タップしても、当然、既読はついていないだろう。
——いろいろと、思うことはたくさんあった。胸の奥がきゅっと縮こまるような気持ちもある。
でも……
ひとつ息をついて——
そっと画面に指を置く。
迷いはなかった。人さし指はそのままだ。
そして、ためらうことなく——私は、そのトークルームを削除した。
+
記憶とは何なのだろうか。
そもそも、必要なのか?
窓の外の、白くゆらめく雪を見つめながら、祐天寺の試合を観に行ったあの日、何かを掴みかけたあの日、何かに触れた、その先のことを思い出そうとする。
でも、そこには何もない。まぶたの裏は真っ暗いままだ。最後の一歩が踏み出せないまま気を抜くと、そのまま夜の静けさに吸い込まれそうだった。
夜空を見上げて思う。
俺は、ずっと……
あの欠けた月のかけらを探しているのかもしれない。
この
産まれたばかりの赤ん坊の記憶はない。でも、母さんと父さんに、溢れるほどの愛情を注がれて育ったということは確かだ。ぼんやりと心に刻まれている。温かく、優しいその記憶は、どんなに言葉をつづっても、足りないほど大きく、柔らかな光に包まれていた。
それで、いいのかもしれない。
俺には、今がある。
今の俺も、過去の俺も、好きだと言ってくれる人もいる。
その言葉が今日の俺を支えている。
それに、忘れてしまったものだって、きっと眩しいくらいに輝いていたものだったはずだから。
本当の明日は、明日作ればいい。
窓を閉めてから、俺はそっとスマホを手に取った。すぐにメールを送信する。
『荷物届いた。ありがとう』
それと、もう一つ。
『中学のときのスマホは解約しといて』
メールを送信し終えると、机の上にそのまま置かれていた赤いお菓子の箱に目が留まり、思わず箱を開けて食べてみた。
ポッキーの甘さが口いっぱいに広がって、思った。
「おっ。これ、うまいな」
---
*
いつまでもずっと並んでいられる、そう思っていた。
帰り道、歩道に伸びる影を見つめながら、ふと思い出す。あたりまえで、ありきたりで、ごく普通にありふれていた日々が、どうしようもなく恋しくなる。
駅のホームで立ち尽くし、電車の窓に映る自分を見た。気まぐれに、一つ電車を乗り過ごしてみる。
今日、都内で春一番が吹いた。
明日からは春休み。だから、どちらかといえば気分もいいはずだった。
バスケも順調で、調子も悪くない。
それなのに、心のどこかが満たされない。
——そういえば、滝本君はバスケ部に入った。
大きな体で目立つのもあるけど、声も大きくてムードメーカーだから、いつも目につく。もうすっかりチームの一員だ。
ことあるごとに、「ったく、あいつはおせーな」なんて、汗を滴らせながら悪態をついているけど。
まるで、いつも誰かを待っているみたいに。
中目黒駅に着いて川沿いの遊歩道に出ても、その感覚は消えなかった。
心の隅にぽつんと空白が残っている。
何かが欠けたような感じだ。
もしかしたら、記憶を失った人は、こんな感じなのかもしれない。
沈む夕陽が、川の水面に細く揺れる。少し冷たい風が吹いた。
一つ木の下で立ち止まり、テレパシーを送る。
家に帰り、家族と晩ごはんを食べた。お風呂を出て、洗面台の前に立つと、目の前にいる無数の私に見つめられた。
曇った鏡に映った水滴の中の自分は、どれも穏やかに微笑んでいた。
そのまま気持ちよく布団に潜り込んで、まぶたを閉じてみても、やっぱり今日は同じだった。
どこか、何かが満たされない。
でも——。
+
毎朝、目を覚ますたびに思っている。
この、何かが満たされない気持ちの
部屋に薄く差し込む朝陽で、ゆっくりとまぶたを開ける。天井をぼんやりと見つめ、また今日が始まる、と思いながら体を起こす。
カーテンを引くと、窓ガラスにはうっすらと水滴がついている。指先でなぞると、曇った向こうにぼやけた日常が広がる。その先にあるものを確かめるように目を細める。
窓を見つめる俺が問いかけている。——冬の終わりは、まだか、と。
窓を開けて、ふっと吐いた白い息とともに、雲がゆっくりと流れていく。
——本当は、わかっているのかもしれない。
でも、それが何なのかわからなくて俺は息をしている。
日々、
だから、あの月に映る俺はまだ……
その答えを手のひらで包み込んだまま、そっと目を伏せている。
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