第48話

 どこにもいないあなたを、必死に探したあの夏の日。

 さよならすら言えずに、ただ、季節だけが通り過ぎていった。


 白い息を弾ませながら、川沿いを歩く。二人、影を並べて歩いた、いつもの遊歩道を。

 桜のつぼみがほころび始めている。朝の空はどこまでも青く、晴れ渡っていた。純度の高い空気が流線を描くかのように、私の遠い感情を染めていく。

 一つ木の下で、桜の花びらが舞った気がした。


 もうすぐ——春が来る。



「今日から春休み? いいねえ。三年生も楽しみだねえ」


 ばあちゃんが開けた窓の向こうには青い空が広がっていた。柔らかい陽射しが差し込み、カーテンがふわりと揺れる。


 ばあちゃんは俺の格好を見て、「ああ、ランニング? いってらっしゃい」と微笑んだ。

「うん、行ってきます」


 玄関へ向かおうとして、ふとダイニングのテーブルの上にある赤い箱が目についた。


「あ、また買っておいたよ」


 ばあちゃんは言う。


「ありがとう。ちょっと糖分補給してから行こうかな」


 箱を開けてポッキーを口に運ぶと、チョコの甘さが広がった。窓から吹き込む風には、かすかに春の匂いが混ざっている。

 どこか懐かしいような気がして、しばらくそのまま味わっていた。

 水槽に餌を入れてから外へ出た。



 あっという間だ。無情にも時は過ぎていく。


 ひょっとしたら、この世界は、何も行動を起こさない者には容赦ないのかもしれない。

 ひんやりとした風が頬を撫でる。肌寒さが残る朝。それでも、清々すがすがしくはある。

 不思議だった。

 だんだんと馴染んできたこの道が、今日は何故か、やけに懐かしさを含んでいた。

 川沿いの遊歩道には、まだ人の姿はない。

 そのとき、風が吹いた。優しく髪を揺らし、どこか遠くで——鈴の音が聞こえた気がした。


 足が止まる。一つ、木の下で。


 クリスマスの日、子供たちが願いを込めて短冊を飾っていた木。枝先はまだ寒さを耐えているようで、それでも小さな蕾がついていた。

 何気なくまた歩き始める。——でも、何かが引っかかった。


 ——ん?


 ほんの些細ささいな違和感ではあった。何かを思い出しそうで、思い出せない。

 歩きながら考える。

 すると、


 ……ポッキー?


 頭に赤いお菓子の箱がちらついた。

 その瞬間だ。目の前で何かがふわりと舞った気がして、口の中に広がる甘さとともに、込み上げてくる感情が心を満たした。

 雪がちらつきそうな、クリスマスの日。

 お互い中学生の制服を着ていた。


 そのあとは……


 足は前に進むのに、その先がなかなか思い出せない。

 でも、しばらく歩いていると、ぼんやりと浮かび上がる光景があった。


 ——そうだ。コンビニだ。


 その後、二人はクリスマスプレゼントの話になったけど、お互いにお金がないことから、『じゃあ、自分の好きなお菓子をプレゼントし合うってのはどう?』と、いうことになった。

 そしてコンビニに入り、お菓子売り場で目を輝かせて、一緒に『せーのっ!』で、指を差したものが、ポッキーだった。


 記憶の中の景色が、じわじわと浮かび上がる。

 口の中に残るチョコの香りが、心をじんわりと揺らす。


 気づけば、足を引き返していた。


 鈴の音が聞こえた、あの日。

 あのときの何かが——今なら、見える気がした。



 バスケットゴールに向かって、ボールを放る。

 限りなく澄み渡る空へ、ゆっくりと放物線を描く。

 私はずっと、この空を待っていた。二人、気まぐれに探した、この青さを。

 明日また、あなたに会えると思って。

 ボールはネットを揺らし、軽やかに地面へ落ちる。乾いた音が響いた。その音は、驚くほど透き通っていた。



 木の下に戻った。

 でも、何も思い出せない。木を見上げても、当然のことのようにクリスマスのイルミネーションの飾り付けは撤去されていて、鈴はおろか、何もない。

 無情にも、こぼれてくる息が視界を曇らせるだけだった。

 そのときだった。

 白い息の向こう、わずかに何かが見えた。取り忘れか?

 息を整えてから、じっと目を凝らす。そこには、見覚えのある短冊が一枚、枝の上の方にひっそりと残されていた。

 それはまるで、こっそり隠すように結ばれていて、少しいたずら心が見え隠れする。

 そこには——


『鳴海君が全国大会に出場できますように!』


 星形の黄色い短冊に、そう書かれていた。

 それを見た瞬間、胸の奥で何かが灯る。


 思い出した。

 クリスマスの日、コンビニを出たあとに、この場所へ来たことを。


 あの日……子供たちが願いを込めて飾った短冊を眺めながら思ったことは、偶然にも二人とも一緒だった。自分たちの短冊も飾ってしまおう。そして二人が書いたことも同じだった。

 木のそばにあった脚立をこっそりと借りて、俺が短冊をくくりつけた。怒られないように、なるべく目立たない場所に。

 喉の奥から思いが飛び出る。


 ——俺も全国に。


 気づけば手に汗を握り、足は一人でに動き出している。


 いつも一緒だった……

 二人で並んで、この川沿いの道を歩いた。


 一歩一歩……踏み込むたびに記憶が思い浮かんでくる。

 青幸中に転校してきたばかりの頃、四人グループで行った夏祭り。二人で分け合ったたこ焼き。照れくさそうに笑っていた横顔。

 浴衣姿が、やけに可愛かった。

 水族館にも行った。少しだけ背伸びして、ぎこちなく歩いた俺。

 ベニクラゲを見て感動していた横顔に、気づけば目を奪われていた。


 次第に足が速くなる。


 そのとき、ふと頭に浮かんだのは、この前、水族館へ行ったときのことだ。

 俺がクラゲに見入っている隙に、水槽の向こうへ回り込んで——まるでクラゲの群れに紛れるように——下からひょっこり顔をのぞかせた野々原。

 どこか気まずそうな、けれど少しだけ得意げな表情をしていた。


 ……あれは、俺が昔やったことだ。

 映画のワンシーンを真似て。

 一度やってみたかった。


 水槽の光に引き寄せられた男が、偶然、反対側にいたヒロインに目を奪われる場面を。

 野々原の場合は照れ隠しのせいか、ぎこちなくなりすぎていて、思わず吹き出して笑ってしまいそうだったけど。

 クジラのデジタル展示は、俺が観たかった。父さんとの約束だから。


 はやる気持ちとは裏腹に、どこかからボールが地面を叩く音が聞こえてきた。乾いた音は空気を震わせる。

 その響きが妙に心に馴染んで——懐かしかった。



 それは、ゴールネットを揺らしたボールが、地面に落ちた直後のことだった。

 ボールは何回か弾んで、その音に重なるように、慌ただしい足音と、浅い息づかいが聞こえて思わず振り返った。

 表情を見て、すぐにわかった。

 この場所で過ごした時間が、一気によみがえる。

 二人、並んで練習した日々、いつもより早く来ていた日、何もしないで、ただおしゃべりだけをしてしまった日もあった。鮮やかに、柔らかく、心の奥で解けていく。

 足音はゆっくりと近づいてくる。呼吸を整えるように、一歩ずつ確かめるようにして。

 その音とともに、胸の奥でくすぶり続けていたものが、ゆっくりと込み上げた。


 やっと会えた。


 そう思ったら、もうどうでもよかった。

 涙なんて。



 綺麗な放物線を描くボールは、吸い込まれるようにゴールへと落ちていく。

 それを見届けた瞬間、もうわかっていた。


 俺はずっと、その先に君を見ていたことを。

 この場所で、二人で、一緒に。


 やけに時間が過ぎるのが遅く感じる。まるで止まってしまったみたいに。けれど、心臓だけは騒がしく鼓動を打ち続けていて、目の前で足を止めても、まるで収まる気配がない。

 必死に涙をこらえようとする微笑みを見て、反省する。

 また、泣かせてしまった。


「……ごめん」


 思わずこぼれた言葉が、ひどく頼りなく感じた。


 それと……ここで。

 この場所で。この公園で——


 毎日、一人でずっとシュートを打ち続けていたのかと思うと、胸の奥が締めつけられるように、たくさんの伝えたいことが込み上げてくる。


 なのに、どうしてだろう。


 言葉にならない。



 鳴海君は片方の手で、顔を少しだけ覆っている。ごめん、とだけ、小さく聞こえた。


 涙なんて、どうでもよかった。


 ——だって。


 泣き虫な二人なのだから。


 私はただ……また、隣にいられるだけで、それだけでよかった。

 また、「……ごめん」と、わずかに聞こえた弱音も、すぐに抱きしめたかった。

 鳴海君は何度も言いながら、手の甲で涙を拭っている。でも、とても追いつきそうにない。

 そう思うと、ちょっとだけ笑ってしまった。

 それを目にした鳴海君も、ぷっ、と表情をくしゃりとさせてから笑った。

 きっと私の涙も、同じことになっているのだろう。


 言葉にならなかった。


 何から話せばいいのか、込み上げてくるものが多すぎて、どこから始めればいいのかわからない。

 そのとき、そっと、声がした。


「遅くなって、ごめん」


 それから……

 鳴海君が照れくさそうに笑って、声が届いた。


「俺が全国に行ったら、付き合ってくれる?」


 もう言葉なんて何もいらなかった。


 もしかしたら、魅入みいられるような春の気配のせいなのかもしれない。

 だだ一つ一つ、花びらの数だけ懐かしい情景が思い浮かんでくる。


 ——私は。


 桃色の風が、そっと背中を押した。

 気づけば返事をするよりも早く駆け寄っていた。


 私は、ずっと——。


 ただ夢中だった。

 全力で飛び込んだ。

 大きな腕の中に。


 ……私は、ここで。


「ずっと、待ってた」

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桃色バスケット〜放物線の向こうに君をみていた〜 Y.Itoda @jtmxtkp1

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