第46話

 祐天寺高校は、ウィンターカップ一回戦で敗退した。


 一ゴール差。相手は前大会の覇者だった。


 試合後、スコアを見つめながら、何度も手のひらを握りしめた。

 私は十六本のスリーポイントシュートの内、十一本を決めた。それは歴代の上位選手たちと肩を並べる記録だった。でも、負けた。

 あと少し——たったそれだけの距離が、どれほど遠いものだったのか。

 あの瞬間、もう一歩踏み込めていたら。あのラストパスを、もう少しだけ違う角度で受け止められていたら。

 考えても仕方がないのに、頭の中で繰り返し、答えのない問いが巡る。

 対戦相手にはあって、祐天寺にはなかった『何か』。それが何なのか、今はまだ言葉にできなかった。

 コーチの言葉。『素晴らしい試合だった。胸を張って帰りましょう』。その通りだと思う。でも——


 悔しい。思えば思うほどに、悔しさが込み上げてくる。

 全国大会に出場できた。でも、悔しかった。


 全力を出し切った、と自分を納得させようとするたび、胸に小さな棘が刺さるようだった。


 やっぱり私は……勝ちたかった。


 そう思うと、今までき止めていたダムが決壊するように、感情が声とともにあふれ出した。


「長かったぁーー」


 吐き出た言葉は、白い息となって宙に消えた。静かに舞い落ちる雪とともに、過去の記憶が走馬灯のようにめぐる。

 スランプに陥った中学三年の夏。あれから約二年半。受験勉強の合間を縫って、ひたすらシュートを打ち続けた中学校生活。


 でも……何も変わらない日々だった。


 何も掴めないまま焦りと不安だけが募り、目標を見失い、生きることにすら何も見出すことができなかった。

 何度も何度も、ボールはゴールのリングに弾かれ、思いも、努力も、まるで届かないようで、響くのは乾いたボールの音だけだった。公園に一人、沈み込むようにシュートを繰り返す私。


 一つ一つ細かく思い返していくと、私は人目をはばかることもなく泣いていた。


 涙が止まらなかった。

 強くなろう。泣き虫は卒業すると決めていたのに。


 ——でも。


 そのとき、ふと頭上で小さな音がした。

 風に揺られたベルの音だった。


 飾られたイルミネーションの隙間で、小さな銀色のベルが揺れている。

 まるでサンタさんに『頑張ったね』と、言われたみたいだった。

 込み上げるものがあって、大きく息を吸い込む。

 空気は驚くほど澄んでいた。

 目を閉じると、支えてくれた人たちの顔が浮かぶ。

 祐天寺高校に入学してから出会った仲間たち。毎日声をかけ合い、一緒に汗を流したチームメイト。厳しくも温かいコーチ。どんなときも味方でいてくれた友達と家族。


 そして——鳴海君。


 涙が止まるのを待ち、もう一度ベルを見上げる。


「……よし」


 ぼんやりと映っていた視界も、くっきりとしてきた。

 そしてもう一度、目の前の木を見上げ、私はそっと口角を上げる。



 晩ごはんは、お寿司だった。ばーちゃんが行きつけの店で買ってきたらしい。

 テーブルの上には、折り詰めの寿司がいくつも並び、クリスマス柄の紙皿がちょっとした特別感を演出している。


 ばーちゃんは満面の笑みで箸を動かしながら、「嬉しいねぇ、純君とクリスマスを過ごせるなんて」と言って、取り皿に次々と寿司を取り分けてくれる。


「ほら、純君の好きだったサーモン、食べて」


 そんなことを言われても、正直あまり覚えていない。これが記憶喪失によるものなのか、それともただ俺が忘れているだけなのか——そんなことですらも定かではなかった。

 でも、ばーちゃんの手が迷いなく動いているのを見て、ああ、そうだったのかもしれないな、と思う。


 その後も、ばーちゃんは昔の話をたくさん聞かせてくれた。俺が覚えていること、覚えていないこと。そういえば、ばーちゃんとこんなふうにゆっくり話すのは、いつぶりだろう、なんてことも思った。

 これもまた、ただ俺が忘れているだけかもしれないけど。


 食べ終わって、皿を片付けていると、ふと目についた。テーブルの端に置かれた、小さな赤い箱。


「ばーちゃん、これ?」

「ああ、買ってきたよ」

「何で?」

「純君、好きだったでしょ?」


 自分にはまったく覚えがなかった。けど、そういえば、と別の記憶がふっと浮かんできた。


「ああ、今はいいよ。また今度、食べるよ。ありがとう」


 部屋に戻ろうとすると、「あーそうそう」と、ばーちゃんが思い出したように言う。


「あ、そういえば、お母さんから荷物届いてたよ」



 部屋に入ると、軽く抱えられるくらいのダンボールが床に置かれていた。ひとまず持ち上げて移動させようと思った。でも抱えようとした瞬間——


 何だこれは⁈


 異様な重さに驚く。

 箱は予想以上にずっしりと重く、持ち上げるのを諦めて床に置いたまま、俺はスマホを手にする。今朝、母さんからメールが届いていたのを思い出す。


 画面を開くと、『メリークリスマス!』の一言と、頑張れのトナカイのスタンプ。それだけだ。

 たぶん中身はクリスマスプレゼントだろうと、予想できた。けど、そう思いながら箱を開けると——


「……は?」


 母さんは一体、何を考えているんだ?


 中には、まさかの鉄アレイが入っていた。しかも、そこそこ使い込まれていて、新品ですらない。

 なのに、訳がわからないのにも関わらず、俺の手は何故だか鉄アレイを両手で持ち上げている。それは無意識に、何度も上下へと繰り返される。


 ——何だ? この中毒性のある鉄アレイはっ⁉︎


 しかも意外と感触はしっくりとくる。


 ……いかん、いかん。


 と、恐ろしくなった俺は慌てて鉄アレイを部屋の隅に追いやった。

 すると、そのときダンボールの中に、他の物も入っていることに気づく。

 視線を落とすと、それはスマホだった。

 それと、手紙も添えられていた。


 二つに折られただけの紙を開くと、中には、『中身は見てないからね! 一応、解約もしてないから』とだけ書かれていた。


 ……中学のときのスマホ。


 すぐにそうピンときた。

 きっと、当時のやり取りが残っている。見れば何か思い出せるかもしれない、そう思った。


 何か、母親なりの思いを汲み取れた。それと、前に母さんから届いた長文のメールを、ちゃんと読んでいなかったことを思い出し、今使っているスマホを手に取った。


 スクロールしていくと『黙ってて、ごめんなさい』、画面いっぱいに埋め尽くされた文章は、そこから始まる。そのあとは——


『あのころは、純と二人になった生活もやっと形が見えてきたところだった。

 だから、事故に合って純の様子が変わっても、どうしたらいいのかわからなかった。ごめんなさい。

 ごめん。それは言い訳。仕事が忙しくて余裕もなかった。自分勝手で、ごめんなさい』


 俺には事故の記憶はない。

 何となく祖父母の家で目が覚めて、しばらくそこで生活をしてから、鎌倉にある高校へ進学した。その頃には、母さんと二人暮らしを始めていた。


『ほんとは一緒に海外へ連れていくつもりだった。東京に行けば、純が苦しむと思ってたから。

 でも、それも私のわがまま。ただ私が心配だっただけ。

 私もそろそろ子離れしようと思います。

 あのとき、純の口から、東京に行く、と聞いて、さみしかったけど、嬉しかった』


 それ以降も文章は、どれも前半と似たような文面だったため途中から読み流した。

 思えば、あの頃の俺は、ずっと窓の外を見ていた気がする。


 夜の空に浮かんでいた欠けた月を。

 ただ、それだけを眺めていた。


 窓を開け、息を吐く。

 すっと流れ込んできた空気は、肺の奥まで透き通るような冷たさで、自然ともう一度、息を吐いた。

 白い息が宙に解けて、目の前でゆっくりと消えていく。


 その向こうでは、粉雪がやわらかに舞っていた。

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