第39話
ボールはリングに嫌われるように弾かれ続け、そのたびに、体育館の床を叩く音が響いて、耳の奥でずしりとする。リズムよく響くはずのボールの反発音が、プレッシャーだった。
それもそのはず、私はこの三日間、一度も3ポイントシュートを決めていなかった。
頭の中で繰り返す。——やばい……やばい……どうしよう。
チームメイトたちにも心配をかけてしまっているのも知っていた。あまりの調子の悪さに、誰も私に声をかけれないことも。
指先の感覚が、どんどん自分のものじゃなくなる。
手に滲む汗をシャツで拭うけれど、効果はなかった。目の前にあるゴールが、まるで遠くに離れていくみたいだった。
「桃……大丈夫?」
沙織んだった。
「えっ……あ、うん!」
慌てて返事をしたものの、声が少し裏返っていた気がする。
沙織んは気にかけるように私を見つめたあとに、「ファイト」と短く言い、自分の練習に戻っていった。
気を取り直そうと、深く息を吸い込んでみる。——でも、変わらなかった。
次にシュートを放っても、やっぱり同じだ。
——もう嫌だ。
小さく漏れた心の声は、自分のものだと認めたくなかった。
試合まで、あと二日。このままじゃ、足を引っ張るどころか、全部台無しにしてしまう。私はまた中学生のときと同じことを……
そう考えると、周囲の視線が無駄に気になる。——打たなきゃ。皆んなに心配かけたくない。
全てのありとあらゆるものが、ぎゅっと苦しくなった。どこかで、鳴海君のことを考えている自分に気づいた。けど、それすら今は混乱の一部にしかならない。
逃げ出したい気持ちを無理やり抑え込んで、またリングに向かってボールを構えた。そのとき、——鳴海君?
不意に思った。
そもそも何のためにバスケを? 小学生の頃に、お姉ちゃんに憧れてバスケを始め、中学では鳴海君のプレーの眩しさに背中を押され、高校では結衣の誘いでバスケ部に入部した。それからは、鳴海君と約束をした全国大会に出場することを目指して練習をしてきた。
何か、根底にあるものが揺らいだ気がした。
——鳴海君のためにバスケを?
そう考えて、いやいや、そんなはずはない、それもあるけど、私は自分のために来る日も来る日もシュートを打ってきた。
一度、呼吸を整えてからボールをつき、気持ちを落ち着かせて自分に言い聞かせる。絶対に入る。
——頑張れ、私っ。
ボールが手を離れたときだった。この前、鳴海君に言われた言葉が記憶の中で響いた。
『俺のことはそっとしといてほしい』
その瞬間、リングに激しく弾き返されたボールの鋭い音に、頭の中を殴られたような感覚がした。
え、鳴海君のせい?
自分の中から湧き上がる感情に、思わず手が止まった。知らず知らずのうちに、ゴールが入らない理由を鳴海君のせいにしている。気づいた瞬間、背筋が凍るようだった。
……私、最低じゃん。
鳴海君のために、なんて都合よく考えていただけで、結局は自分が依存しているだけだ。そんな自分が情けなく腹立たしくて、体が震えていた。
もしかしたら、そんな自分勝手な想いが、いつの間にか鳴海君のプレッシャーになっていたのではないか。
気づいたときには、「——くうああ!」という無意識に出た言葉にならない声が体育館中に響いていた。
周りの空気が、まるで時間が止まったかのように静まり返る。
「……え?」
反射的に口元を押さえた。けど遅かった。視線が一斉にこちらに集まっているのを感じる。
え、わたし何か言った? もしかして……『クソ』的な……?
何をやってるんだ、私は。
コーチに頭を冷やしてきなさいと言われて、一人、外でふけている。体育館の中からは、ボールが床を叩く音と、仲間たちの声が聞こえる。
チームの空気をぶち壊してしまったのではないかと心配になったけど、「桃子!」と沙織んが中から駆け出してきてくれて、「大丈夫? 無理しすぎてるんじゃない?」と言う優しい声に、少しだけ心が救われた気がした。
沙織んは、それ以上は何も言わず、肩を軽く叩いて戻っていく。
それから、次々と——いや、代わる代わるチームメイトが声をかけに来てくれた。
「気にすんなよ、桃っ」
「いつも助けられてるんだから、たまには甘えな」
そんな言葉に勇気付けられる。けれど、自分に余裕がないせいか、返事もままならなかった。
男バスの仲の良いメンバーたちまで様子を見に来てくれたのは驚いたけど。
結衣の姿はなかった。
練習が終わる頃には、少しは落ち着いていたけど、すぐに帰る気にはなれず、皆んなが帰るまで適当に時間を潰した。
人気がなくなった体育館を後にして一人歩き始めると、足は何となくパン屋さんの方に向かう。鳴海君はいないのに。
すると、思いがけず店から出てきた人影に驚いた。
「あ」
店から出てきたのはコーチだった。
コーチは片手にパンの入った袋を抱えている。
一人で帰りたかったけど、「少し話さない?」と言われたため、二人で駅まで一緒に歩くことになった。
「ここの食パン、美味しくってね」
コーチが袋を軽く揺らしながら言うけど、「はあ、そうですか」と曖昧に返した私の声は、どう聞いても覇気がない。
しばらく無言のまま歩いていると、コーチがふと息をついて口を開いた。
「彼のことでしょ?」
鳴海君のことを指しているのだろうと思った。でも、私には「はあ」と、ため息みたいな返事をすることしかできなかった。
胸の中に渦巻いている気持ちを整理する余裕なんてない。色々と弁解したい気持ちはあったけど。『彼』と言われたこととか。
もしかしてコーチは、『彼氏』と勘違いしているのではなかろうか。
「……私はね、仕事とプライベートを混合するタイプではないから」
そう前置きをしたコーチと視線が合った。それと、気負いのないラフな服装から、どこか親しみを感じる。肩肘張らない、その雰囲気が私の気持ちを和らげた。
「だからコーチとしてじゃなく、野々原さんの一ファンとして聞いてくれる?」
「……ファン?」
「私ね、バスケットを引退したあと、日本代表のアンダー世代のスカウトをやってたことがあって」
柔らかな街灯に照らされた横顔からは、どこか懐かしさを宿した表情が浮かんでいた。
お姉ちゃんから聞いたことがある。コーチはたしか、婚約者の不幸か何かで突然選手生活を終えたと。
「一度、彼の試合を見に行ったことがあってね。素晴らしかったわ。中学生の域をとうに超えていた」
耳を傾けながら、コーチの「彼に不幸があったのは残念だったわね」という言葉を聞いて、そんなことまで知ってるんだ、と思った。
「……彼の試合を見に行った日、あなたの試合も見る機会があってね」
コーチは柔らかく微笑んでいた。
「どうして副キャプテンを引き受けなかったの?」
何か、心の内を見透かされているような気がした。
「中学のときはキャプテンをやってたじゃない?」
「そ、それは……」
動揺しながらも答えを探そうとする私を、コーチは静かに見守っていた。
「野々原さん」
するとコーチは足を止めてから優しく、けれど強い声で言った。
「もっと自信を持ちなさい。試合を見て思ったわ。彼と同じように、あなたにも特別な輝きを感じた」
「え、私が……?」
自分に向けられるその言葉が信じられなかった。
「あなたのひたむきにゴールを狙う姿には、人を惹きつける力がある」
「私にそんな力なんて——」
コーチはじっと見つめて微笑んでいた。
「それは、チームメイトが一番よく知ってるんじゃないかしら?」
コーチの姿が、夕闇の中で穏やかなシルエットに見えた。
「もっと皆んなを信頼しなさいっ」
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