第40話

 もう何本目だろう?


 帰りに、いつもの公園でバスケットゴールに向かってひたすらシュートを打つ。何度も何度も、どれだけリングに弾き返されようとも。

 私はこの場所で、誰よりもシュートを打ってきた。それだけは自信を持って言える。


 なのにどうして……

 どうして入らないの。


 ネガティブなことを考えると、また鳴海君を思い出す。

 既読がつかないままの画面を眺めていた日々が、どうしても頭を過ぎる。もしかしたら、またあの孤独に戻るのかもしれない。

 考えれば考えるほど、意識の洪水に飲み込まれそうだった。

 そのとき、自転車のブレーキ音が背後で止まった。



「ここにいると思った」


 結衣はジャージを着ていた。


「何か落ち着かなくて、つい来ちゃった」


 笑顔の結衣に、私は思わず「ごめん」とだけ呟く。


 二人が腰掛けるベンチには、街灯の明かりが夜の空気をぼんやりと染めていた。

 結衣はふと横を向き、優しい口調で尋ねてきた。


「何? また鳴海君のために頑張ってるの?」


 その言葉に、私はすぐには答えられなかった。下を向き、小さく「そ、そんなことじゃないけど……」とだけ返す。


「どうしてそんなに頑張るの? 私たちは二年生。まだ来年の夏もあるでしょ?」


 静かな夜の空気に馴染んでいく結衣の声は、私の気持ちを整理してくれているようだった。心に押し込めていた気持ちが揺さぶられる。


「今年じゃないと——」


 そう言いかけて、結衣は全部お見通しだ、敵わないな、と私は気づいた。

 鳴海君が全国を目指せるのは、来年の夏しかない。だから今年のウィンターカップで結果を出せれば、もしかしたら記憶が戻って……なんていうそんな期待を抱きながら、ここまで必死になってきた。


「力みすぎ」


 力強い言葉に、ふっと顔を上げると、結衣は真剣な眼差しで、じっと私を見つめていた。


「桃肌……」


 そして、笑顔を浮かべながら私の頬をそっと両手で挟んできた。


「私は桃を応援してるの」


 結衣はさらに顔を近づけてくるけど、私の口からは「ふぁい~」と気のない返事をするのがやっとだった。

 痛いということを言葉にならない声で何とか伝えると、少し照れたように笑った結衣は、「ごめんごめん、つい力入っちゃった」と言って、やっと私の頬から両手を離してくれる。

 それでも結衣の真剣な眼差しは変わらなかったけど。

 遠くを見つめながら「私さ……」と、声をこぼしてから言葉を紡ぎ始めた。


「私、中学のとき、桃の試合見たことあるんだ」


 結衣の突然の告白に、私の目は丸くなる。


「え、なんで?」

「都内の引っ越し先を見るために来たとき、たまたま試合やってるところを通ったんだよね。それで東京のチームが気になって、ちらっと見たの」


 初耳だった。


「そのときさ、私、バスケをやめようかと思ってたんだよね。勉強との両立が難しくて」


 続く結衣から発せられる意外な言葉。結衣にも悩みが。ましてやそれを口にするなんて思いもよらなかった。


「試合見て嫉妬した。桃——簡単にすぽすぽ3ポイント決めちゃうんだから。一人で三十点決めてた。いつもあんなに決めてたの?」

「ま、まあね……」


 何だか、照れ臭さと苦笑いが混ざったような感じになった。


「でも、悔しかったけど思った」


 感慨深げな結衣の横顔は、ふんわりと公園を照らす明かりのせいなのか、いつも以上に大人びていて、綺麗に見えた。


「ああ、この子は誰よりも練習して、誰よりも譲れない何かがあるんだって。それで私は決めた。バスケも頑張るって。高校に入学して桃を見つけたときは、奇跡だと思ったんだから」


 すごく真っ直ぐな眼差しだ。やっぱりちょっと照れ臭い。その眩しさに、私はただただ目を逸らした。


「だから私は、桃を応援してる」


 思いが伝わってきて胸が熱くなったけど、そろそろこの空気に耐えきれなくなった私は、鞄に手を突っ込みながら、ふと思い出した。さっきコーチに貰ったやつ……。


「……ねえ、パン食べる?」


 結衣は驚いたような顔をしてから「まーた話しをそらすー」と呆れているけど、すぐに、あー、と言って「なんかお腹空いてきた。ちょーだいっ」と手を出して口を尖らせている。


「まーまー」と、そんな結衣をなだめながらパンを半分にちぎって渡すと、私の口は「牛乳もいる?」と、訊いていた。


 思い出したかのように鞄の中から紙パックを取り出してみたけど、我慢できなくて思わず、てへ、という笑みがこぼれてしまう。


 でも結衣は「なんで牛乳?」と眉を寄せてじっと私を見つめたあとに、「それはいらない」ときっぱり言い切るのである。



「私、もう少し練習してくから」

「じゃ、また明日」


 軽く手を振ってから、またがった結衣の自転車は走っていく。


「絶対、勝つからねー!」


 と、振り返りざまに言う声が、遠くの方から聞こえた。


 手にした牛乳を目にして思う。滝本君のおばあちゃんに言われたことを。気づけば声に出ていた。


「……執着か」


 ドリブルをつきながらゴールへ向かう。


 たしかに……私は。

 鳴海君ありきだったのかもしれない。


 静かな夜に響くボールをつく音が心地よかった。


 どこか達観している雰囲気からか、つい追いかけてしまっていたけれど、本当の鳴海君は穏やかな海みたいに、ゆったりと流れているのかもしれない。


 ごめんね。

 私、忙しなくて。


 呼吸を整えて考える。これまでの日々を。


 立っているだけで汗を拭いたくなる日も、うっかり夜更かしをしてしまった次の日の朝も、バスケを続ける意味を見出せなかった日だって、寒さで手がかじかむ日だって……私は毎日ここでシュートを打ち続けてきた。


 理由なんてなかった。ただ、バスケでは負けたくない。それだけだった。


 気づけば無意識に、ボールを股の間に通してレッグスルーをしていた。そして感覚が自然と手に馴染んで、ボールを構えたとき、鳴海君の声が頭の中に響いた。


 いつの日か訊いたことがあった。


 シュートが入らなくなったこととかないの? と。


 そのとき教えてくれた鳴海君の台詞が強烈に脳裏を走って、笑みがこぼれてしまう。


 私は……

 やっぱり鳴海君が好きだ。


 願いをこめて放ったボールは、照明の光を浴びて輝いていた。


「完璧」


 思わずこぼれた声に導かれるように、ボールは綺麗な放物線を描いてゴールネットに吸い込まれた。



---



 ……ん。


 かすかな陽射しがカーテンの隙間から差し込んでいるのに気づいた。

 部屋の静けさがやけに重たく感じる。体を起こし、額に手を当てると、熱はすっかり下がっていた。


 もう大丈夫そうだ。

 そう思うと少し体が軽くなった。


 スマホが鳴って手に取ると、時刻は昼の十二時を過ぎていた。

 通知を見ると滝本からのメールだった。それともう一つ。母さんからもあった。受信日は三日前……

 母さんのメールは、何やらものすごい長文で闇そうだったため、開いた瞬間に閉じた。

 口直しに滝本のメールを確認して思い出した。


 そうか。

 今日は……



 予選会場はアリーナで、広大な空間に足を踏み入れると、いつにない空気感が全身にじわじわと伝わってくる。高い天井に空調。独特の緊張感が漂う。

 コートでは他校が試合をしていて、シューズが床をこすれる音や、ボールがリングに当たる音、そして観客のどよめきや拍手が混ざり合い、耳を埋め尽くす。


「のど乾いた、桃、一緒に行こ」


 結衣に袖を軽く引っ張られるままに、観戦を切り上げた。

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