第38話

 そのときだ。


「ちょっと~。何でだよ……」


 わずかだけど、微笑みまじりの鳴海君の声で、はっとした。


「何で、野々原が泣くんだよ……」


 え、涙?

 自分の頬に触れた指先がしっとりと濡れていた。それと、——え?

 驚きに目を伏せたその瞬間、ふと視線の先に気づいた。

 隣で、鳴海君も涙を拭っていた。

 何かを押し殺すように。頬を伝うその雫が、月明かりの中で小さく輝いていた。


「……ごめん」


 と謝る鳴海君に、反射的に「ごめん」と返してしまい私が笑うと、視線が合って二人で笑った。


「……わたしね」


 勝手に口からこぼれ出した言葉のあとにやってきた沈黙が、尊く感じるのが不思議だった。できることならば……

 ひとつひとつ浜辺で積み上げてきた、大切な砂のお城を崩さないでほしい。


 気まぐれな神さまに、そう願っていた。


「わたしは……ずっと鳴海君のことが好きだった」


 私はずるいのかもしれない。今の鳴海君に、言葉を返させるなんてこくだとわかっていたのに。誠意を私に向けてくれている。


「ごめん。なんか野々原に言わせちゃったみたいになっちゃって」


 その言葉が、めいっぱいの優しさだと思ったら、胸が熱くなって、また込み上げてくるものがあった。けど、深く息を吸い込んで、それを必死に飲み込んだ。


「ほんとに何もないんだ……。思い出そうとすればするほど、今あるものまで信じられなくなってきて、自分が自分でないような気になっていく」


 耳にふれる声は、遠くの方から響いてくるようだった。


「変だよな、俺。やっぱ普通じゃないよな」


 私は、ただ涙を溜めながら、鳴海君が自分を責めるようにうつむいている姿を見つめることしかできなかった。


「ごめん」


 と言うその一言に、彼の思いが詰まっているような気がした。


「大丈夫。きっと鳴海君は大丈夫だから」


 不恰好で無理やりつくろった笑顔と、上擦うわずった声では厳しいとは思ったけど、「ね? だって私たち、さっきから謝ってばかりだよ?」少しだけでもいい。鳴海君の不安が——少しだけでも和らいでくれたら、それだけでよかった。


 でも、鳴海君はかすかに首を振るだけで「もうこれ以上、壊れていくのが怖いんだ」と言い、その声によって私の涙はとうとうこらえきれずに、頬を伝ってこぼれ落ちてしまっていた。


 気づけば私の手はそっと伸びていた。隣でかがみ込んでいる鳴海君の頭に触れる。

 ちょっとだけ驚いたように顔を上げた頭を、私は気にせずそっと抱き寄せた。


「ぜったい大丈夫だから」


 喉の奥の震えを押しとどめるように言葉を紡ぐ。


「私は、今の鳴海君も、過去の鳴海君も、どっちも好きだよ……」


 私の気持ちがどこまで届いているのかはわからない。涙を拭う鳴海君の顔も見れなかった。

 でも、せめてこの瞬間だけでも、彼の壊れそうな心を包み込んでいたかった。



 一人で歩く帰り道。街灯の明かりが影をぼんやりと伸ばしていて、少しだけ見えていた明日が、どんどん遠のいていく気がした。

 ふと足を止めて袋の中を覗く。野々原から受け取った手提げ袋だ。中には、貸していたカーディガンと、その上に赤いお菓子の箱が見える。


 ひょっとしてこれも……何か意味があるのだろうか。


 そう思うと、足はひとりでに進んでいた。


 ……今日は『ポッキーの日』。

 それだけの理由で? それとも——

 また俺は何かを忘れているのか……?


 考えると、胸が締めつけられるように、何かがじんわり溶けていく、そんな温かさが押し寄せてきた。

 あぁーー、と苛立ち混じりの声が漏れて、思わず頭をぐしゃぐしゃとかきむしった。



 家に着くと、普段どおりの母さんと一言二言、交わしてから俺は部屋へと入る。そしてそのまま、暗がりの中で座り込んだ。



 小さく「ただいま」と言った。

 息を切らして家まで駆け込んだせいで、気持ちがまだ落ち着かない。


「あれ、桃子?」


 リビングからお姉ちゃんの声がしたけど、立ち寄る気力すらかず、そのまま自分の部屋に直行する。

 そして電気をつけるのも億劫おっくうで、そのままベッドに倒れ込んだ。

 頭の中はぐちゃぐちゃで、実際にはあれこれ考えているけど何も考えられなかった。

 枕に顔をうずめていると、ノックの音が耳に届いて、「桃子~?」とお姉ちゃんの優しい声がした。


「どうしたー? 平気ー?」


 と訊かれ、私は顔を伏せたまま、適当にドアの向こうに答えた。


「大丈夫。平気だからー」


 足音が遠のいていくのを確認してから、スマホを手にすると、暗い部屋の中で青白い光がぼんやりとした。LINEをひらいて、二、三文字タップして手が止まる。


 どうしたらいいのか、自分でもわからなかった。



 座り込んだままスマホを手にすると、画面の青白い光がぼんやりとして、暗がりの部屋の輪郭を浮かび上がらせる。

 ダイニングキッチンからは、何かを片付けるドタバタとした音が響いている。明日、母さんはアメリカへ発つ。


 どうしたらいいのか、自分でもわからなかった。


 乾燥したスネをいつまでも掻きむしったところで、痒みは増すばかりだ。

 どこにも逃げ場がない。

 出口のない迷路をさまよっている。


 俺は来るはずのないLINEを、ただぼんやりと眺めていた。



 次の日の朝。

 いつもと同じ時間に目を覚まし、いつもと同じ川沿いの道を歩き、いつもと同じ公園で、いつもと同じゴールに向かってシュートを打つ。

 いていうならば、今日は天気は良いのに冷え込んでいて、冬の訪れを感じる。そんなところだろうか。


 体のキレはよかった。

 だけどボールはリングに大きく弾かれた。

 再び軽く体をほぐしてからシュートをしたけど、またリングに嫌われる。

 理由がわからなかった。

 頭だけが、まだ眠っているみたいだった。



 学校へ行くと、鳴海君は風邪で休んでいると滝本君が教えてくれた。


 ……私のせいかもしれない。


 と考えると、ついネガティブなことで頭の中がいっぱいになってしまう。



 部活の練習でもシュートはいまいちだった。

 体育館の天井を軽く仰いで大きく息を吐くと、怪我から完全復活した結衣が、ぽん、と肩を叩いて走っていった。



 次の日の朝も同じだった。

 いつもと同じ時間に起きて、いつもと同じようにして公園へ向かいシュート練習をした。

 何度もボールがリングに弾かれて、思わず天を仰いだ。


 ……どうしよう。

 不安がつきまとう。


 そこには、突き抜けるように青かった空はもうなかった。



 その日の部活の練習でも一緒だ。

 これだけの不調は中学生以来だった。そう、スランプに陥った、あの夏以来。

 不意に周囲から当たり前のように聞こえてくるバスケットボールの音に、恐怖を感じた。

 結局あの日スランプになった私は、春の兆しが見えるまで全く改善する気配がなくて引退を覚悟していた。



 次の日の朝も、いつもと同じように公園へ向かった。

 でも、同じだった。

 何度も何度もボールはリングに弾かれる。


 ——さすがにまずいと思った。


 大事な試合まで、あと二日しかない。

 無理やり呼吸を整えてシュートを放つ。

 でも、同じだった。


 ——だめだ。

 どうしよう。


 学校に行くと、鳴海君は今日も休みだった。


 部活では、いつも以上に張り詰めた空気が漂っている。沙織んの掛け声が響くと、全体でコーチの前に集まる。的確な指示とともに、試合で守るべき約束事が再確認される。


「いい? じゃあ各自、シュート練習!」


 その一言で、皆んなが一斉に散り、コートのあちこちからボールがリングを叩く音が鳴り響く。

 私も持ち場へ向かいボールを放ち始めた。黙々と立て続けにゴールを狙った。


 けれど、結果は今日も同じだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る