第28話

 そのあと、改札を出て声をかけられる。

 杏からのメールにあった二つ目の話題。それは私が危惧していたこと——。


「おー、やっぱ、純と野々原じゃん!」


 聞き覚えのある男子の声が、後ろから呼び止めた。振り返ると、そこには中学時代の友達。私は愛想よく答えるけど、鳴海君は不思議そうな表情を浮かべたまま何も言わない。


「純~、こっち戻ってきてんなら教えてくれよー」


 明るい声が続く中、私の心臓は少しだけ早くなる。この話題は……鳴海君にとって大丈夫なのだろうか。けど、

 すぐにスマホが鳴って、画面をちらっと確認した友達は、「あ、悪い。用事あるからまたな!」と手を振りながら走っていく。


 杏からのメールには、星ヶ丘学園のことと、鳴海君についてだった。何やら、元青幸中の生徒たちの間で鳴海君の話が、以前より増して持ちきりなのだという。

 まあ、身長が高くて目立つし仕方がないのかもしれない。女子からの人気は中学生の頃から絶大だったし。


 何事もなかったかのように歩き出したけど、心のどこかで、何かがずっと引っかかる。鳴海君は、自分が記憶をなくしていることをどれくらい自覚しているのだろう?

 触れない方がいい。何となくだけどそう感じて、これまで私はその話題を避けてきた。

 それでも、この前の試合で声を上げてくれたことを思い返すと、もしかしたらバスケについては思い出し始めているのかも、なんて考えたりもする。


 でも……いまさら感もあるし、訊けない。


 とにかくこれらのことで、鳴海君の平穏な生活が脅かされないでほしい。横目でそっと顔を見上げながら、私はそう思うのだった。



 ——あった。

 朝練をしていた公園にやってきた。


「ごめんっ、鳴海君。取ってくるから、ちょっと待ってて」


 置きっぱなしだったブレザーを見つけた私は、ベンチの方へ駆け寄った。

 風が冷たい。晴れてはいるけど、今日は時折吹く強い風が肌を刺した。借りた結衣のブレザーが、いつも以上に暖かく感じ、この恩はちゃんと返さなきゃ、そんなことを考えながらベンチにあるブレザーを手にした。


「よかった……」


 静かに声が抜けて、じわりと心の中で広がる感覚があった。


 ……そういえば。


 ふと気づけば、自然と視線が公園全体を巡る。足下の、きちんと整備されたアスファルトのコートにリング。そして無数の記憶の欠片が詰まったベンチ。


 ——また、ここに、鳴海君と一緒に来れるなんて思ってもみなかった。


 そんな思いが、まるで波のように気持ちを押し流して過去へといざなっていく。



---



 中学最後の夏の大会が近づいてきた時期に、この場所で練習をしていた。

 その頃には、私の3ポイントシュートの精度も高くなっていて、鳴海君の真骨頂のディープスリーを練習していた。アドバイスの甲斐もあって、放ったボールは何度もゴールに吸い込まれる。


「やった、私、すごっ」


 得意げに自画自賛していると、鳴海君が、にこにこしながら寄ってきて「俺のおかげねっ」と言ってくる。

 この頃の鳴海君はちょっぴり可愛いかった。


「はいはい、わかってますよ~」

 と、私が呆れたふりをして返すと、

「俺は、五十本連続で3ポイント決めたことあるしね」

「はいはい、すごい、すごい」

 と、軽くマウントを取ってくる鳴海君を、私は適当に褒めたたえる。


 そんなことをいつもしていた。


 いつの間にか、鳴海君がボールをつき始めていて、その規則正しいリズムが静かな空気を震わせるたびに、自然とその動きに目を奪われた。


「まあ、試合の本番で入らなきゃ意味ないけどね」


 たしかに、本番のプレッシャーの中で放つシュートは全く別物だった。


「ねえ、あれ見せてっ」


 それは、鳴海君が試合中によく使う技だった。

 自分の股の間にボールを通して、相手ディフェンスのタイミングをずらすフェイント。レッグスルー。

 鳴海君は小さく笑い、軽快なステップを踏みながらレッグスルーをして、そのままシュートをする。そして迷いなく放たれたボールは、高い弧を描いてリングを通り抜ける。


「どお?」


 振り返りながら投げかけたその一言に、鳴海君の無邪気な自信がにじんでいるのを感じた。



---



 そのとき、不意にボールをつく音が耳についた。

 そして、一気に現実へと引き戻された私は顔を上げ、自分の目を疑った。

 たぶん、その辺に転がっていたバスケットボールが風に流されて、鳴海君の元へといったのだと思う。


「入るかな……」


 呟くように言った鳴海君は、いともたやすくレッグスルーをしてから、そのままディープスリーを放つ。ボールは見事にリングを通り抜けた。


「あ、入った」


 驚いたように鳴海君は声をこぼした。その声に、私は言葉を失った。


「どお?」


 二人の思い出が散らばる公園。振り返りながら投げかけたその一言。

 それは、記憶の中と目の前の鳴海君が完全に重なって見えた瞬間だった。胸の奥で鼓動が先走っていて声が出ない。

 知らないうちに、涙が少しだけ溢れてしまったみたいだ。鳴海君に、「お、おい、ちょっと、どうした?」と指摘されて自覚した。また、困惑させてしまった。

 私は、風でゴミが目に入ったことにして、その場をやりすごした。



 自分の部屋に戻り、机に崩れ込むように力を抜いた。重たい体を預けると、冷たい木の感触で、額がひんやりとする。


 率直に楽しかった。野々原との時間は。


 でも、まただ。妙なざわつきが心の中に居座っている。

 鼓動と連動するように、ボールをつく音が耳の奥に響いている気がする。何かが迫り来るみたいに、それはまるで、脅迫されているかのような気さえした。


 泣いて……たよな?

 壁に掛かったお面が目についた。


 ……また俺は、泣かせてしまった?



「いらっしゃいませ」


 次の日のバイトで、声をかけた瞬間に見覚えのある顔が目に入った。糸田……だったよな? それと、隣に連れた女子は、たしかマネージャー。二人とも部活帰りか。

 おう、と軽く手を挙げて「ここ、このパン屋、美味しいって聞いてさ」と、気軽な調子で話しかけてくるが、糸田と話をしたことがないため「ああ、どうぞ」と言うしかなかった。

 パンを選ぶ二人の様子から、どうやらマネージャーの方がこの店に来たかったということがわかった。

 棚を見上げながら「あれもいいし、これも美味しそう」と声を弾ませて話しているのが耳に入る。そのキャピキャピとした雰囲気に、糸田は適当に相槌を打ちながらも、どこか面倒くさそうな表情を浮かべていた。


 すると、「純くんっ」と友希さんの声がする。


「そろそろ時間だから上がっていいよー。お会計、代わるから。今日もお疲れさまっ」



 バイトを終えて店を出ると、ちょうど糸田たちが会計を済ませて外に出るところだった。

 袋を抱えたマネージャーは、「あ、来た」と軽く手を振り、「じゃ、健ちゃん、また明日!」と明るい声を残して、迎えの車に乗り込む。そのまま視界の端で車が動き出し、俺たちの前から消えていく。


 ——残された二人。

 気まずさだけが、辺りを埋め尽くしていた。



「なあ? 野々原と付き合ってんのか?」


 何故か、糸田と一緒に駅まで向かうことになった。冷たくなった風が、二人の背中を押したのかもしれない。


「……いや、違うけど」


 と、否定すると糸田は「駅、こっちだよな?」と慌てた素振りを見せてから歩き出した。

 ……いや、駅はそっちに決まってんだろ、と思いながらも、俺もその後ろについていく。沈黙は深まるばかりで、足音だけがやけに響いていた。

 無言で少し前を歩く背中を無意識に追っていると、糸田が歩幅を縮めるようにして話しかけてきた。


「ああ、さっきの話……。俺は部活に恋愛は肯定派だから」


 こいつは何を言ってんだ?

 歩きながら、ふと、妙な感覚に囚われた。

 あと、こいつからは何か、昭和の雰囲気が漂う。


「俺は不器用だから無理だけどな」


 当たり前のように、運動系の仲間に加えられ、いまいち納得できない自分もいたけど、とりあえず面倒なのもあって話を合わせることにした。

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