第27話

 興味ありげに顔を上げたお姉ちゃんは、私が大学名を答えると、納得した笑みを浮かべた。


「あ~、あんたんとこのコーチの出身校か。さすが元日本代表、コネ持ってるね~」


 今日はお姉ちゃんの機嫌もいい。テーブルの端に置かれた、淡い桃色の光で点滅しているペンライトが、それを象徴している。


「で、どう? 調子は? 決勝リーグは応援行くからっ」


 お姉ちゃんの言葉に、何となく気の抜けた声で返事をすると、お母さんが推しのうちわを手にして声援を送ってきた。

 二人の笑い声を背中に聞きながら、私はその場を後にする。リビングに漂っていた甘いポップコーンの香りが、鼻の奥に残る。



 バイトを終えて家に帰ると、中は真っ暗だった。鍵をかけたドアを背にして靴を脱ぎながら、そういえば今朝、ばーちゃんが『今日は友達とご飯を食べに行く』と言っていたことを思い出す。

 母さんとは、鎌倉に行ったきり会っていない。まだ国内にはいるとは聞いたけど。


 ダイニングキッチンの電気をつけてから、視界に入ったテーブルの上の置き手紙に目をやった。ばーちゃんからだ。


 白い紙に書かれた文字に、相変わらず達筆だな……


 そう思いながらキッチンに向かい、紙に書かれていた指示通り、カレーが入った鍋に火をかけた。

 けれども、身を起こしたその瞬間——


「……いてっ」


 頭が換気扇にぶつかった。

 思わず額を押さえ、軽く身をかがめる。なかなかの衝撃で、目尻に滲む鈍い痛みを、ふっと吐き出した息で追い払うようにした。


 最近、ふと思う。高身長者は、どうやら日本の規格に合わせて生きていくのは難しい。


 落ち着きを取り戻し目線を鍋へ戻すと、火の赤い炎が、静かに鍋底を舐めている。何気なくそれを見つめているうちに、あの日の水族館での出来事が脳裏に浮かんできた。


 どうも、あの日から何かがおかしい……。

 気持ちがふわついている。まるで水の中を漂うような、つかみどころのない感覚。それと、それに反するように胸の奥をちくりと刺す、ざわざわした違和感が拭えない。


 ……それともう一つ。

 何で俺は今日——コートに向かって声を?


 自分でも、理由がわからない。意識した記憶がない。ただ、言葉が勝手に口をついて出たような——そんな曖昧な感覚だけが残っている。


「らしくないな……」


 小さく呟いた声が、湯気の立ち上るキッチンで溶けて消える。誰に届くでもない言葉が、自分自身に跳ね返るような気がした。

 再びテーブルに置かれた手紙に視線を移して思った。

 皆んな忙しそうだな、と。


 バスケ部も……大会まであと少しか。


 そう思いつつ俺は、若干強めだった鍋の火を、弱火にした。



 あれからというもの、鳴海君との仲は平穏な関係を築けている。たぶん。

 水族館に行ってからは、少なくとも顔を合わせれば普通に話せるし、たまたま部活と、バイトの帰りの時間が重なったときには、一緒に帰ったりもしている。


 昨日なんて、応援されてしまったし……。

 ——いや、あれは平穏とはいえないか。


 昼休みのチャイムが鳴って、結衣のいる窓際の席を目指して歩いていくと、何やら騒がしかった。送った視線の先の廊下では、先生に連れられた滝本君と鳴海君が、右から左へと消えていった。


「どうしたんだろ? あの二人、怒られてたよね?」


 結衣は私を見ながら嬉しそうに話しかけてきた。そのとき、ポケットの中で振動した。


「結衣、鳴ってるよっ」

「あっー、スマホ! ポケットに入れっぱなしだった。桃、悪いけど取ってくれる?」


 私は、結衣のブレザーを着ていた。今朝、公園で朝練をしていたとき、ブレザーをベンチに置き忘れてしまい、仕方なく借してもらっていた。結衣は淡いブルー色をした、ニットのカーディガンを羽織っている。


「沙織んからメールだ」


 スマホを渡すなり画面を確認した結衣は、くすくすと笑って私を見る。


「ヤバ……あの二人。ピザ注文してたのが先生にバレたんだってっ」

「え、何でまたピザ?」

「絶対、鳴海君は貰い事故だよね!」


 私もつられて笑ってしまった。たしかに、許しを懇願こんがんするような笑顔の滝本君とは対照的に、鳴海君は不服そうな表情をしていた。

 そのとき、廊下の騒がしさが消え弁当を広げようとしたときだ。ふと視線を落とすと、床に白い紙が一枚落ちていた。


「あ、結衣、ごめん。これ、さっきスマホ取ったときに落ちたかも」


 私は紙を拾おうと手を伸ばす。その瞬間、文字がちらりと目に入った。何かの走り書き? そこには『好きです』『笑顔』──まるで、愛の告白のような言葉が並んでいる。


「え、これって…」

「ちょっ! それ返して!」


 結衣は声を上げると私の手より早く紙を掴む。机の上で弁当箱を挟んで向かい合う結衣の頬が、いつもより赤い。


「結衣、それ…もしかしてラブレター?」

「違うし! ただのメモ!」

「え~? こんな情熱的な~?」


 軽く茶化してみても、いつもなら鋭く返してくるはずの結衣が、口ごもったままだ。その余裕のない様子に思わず声がこぼれた。


「……可愛い~」


 じっと見つめると、結衣がさらに顔を赤くする。


「もううるさい! 早く弁当食べなってばっ!」


 結衣にもこんな一面があるんだ、と思いながら私は箸を手に取った。

 そして自然と話題は、ウィンターカップのことへと移っていき、


「……そういえば、杏が教えてくれたんだけど」


 と、私は弁当の箸を止めながら、水族館に行った日に届いたメールの、二つあった内の一つを伝えた。


 一つは、星ヶ丘学園のスタメンについて。どうやら三年生を押しのけて、一人の二年生が起用されるらしい。その選手はディフェンスに定評があり、おそらく結衣のマークにつく。

 名前は、野緑のみどりさん——。その名前を目にした瞬間、中学最後の試合が頭に浮かんだ。あの試合、私は野緑さんにマンマークされてボコボコにされた。得点どころか、まともにボールに触れることすらできずベンチへと退いた。

 今でもあのときの、悔しさで熱くなった顔を最後まで隠しきれなかった思いは忘れられないでいる。

 結衣が私の顔をじっと見つめてくる。


「それって、桃が中学で苦戦した相手ってことだよね?」

「……うん、そう」


 そう答えながら、胸の奥が熱くなるのを感じた。


「面白そうじゃん」


 結衣は箸を置いて、口元に自信の笑みを浮かべる。


「杏さんにお礼言っといて。望むところだって」



 水筒の蓋を開けたら中身が空だった。飲み物を入れ忘れるなんて——


「ったく、うちの母親ときたら——」


 昨日、浮かれていたからだと、私はぶつすか文句を垂れながら昼食の最中に自動販売機へと向かった。

 だけども、先に買っている二人がいた。

 それは、糸田君と男バスの女子マネージャーだ。



「あれ、鳴海君。今帰り?」


 校門を出たところで思わず声をかけた。


「ああ、そうだけど」

「そうなんだっ。今日、部活休みだから一緒にパン屋さんまで帰ろ」


 すると鳴海君は、ああ、と口ずさんで、ちょっとだけ視線を逸らしながら答えた。


「俺も今日はバイト、休み」



 二人で電車に乗り込んで、ふと気がつくと、そこに糸田君が座っていた。ちょうど座席の前に立つ形になった。


 ……気まずっ。

 どうする? 移動する?


 と、思いもしたけど、糸田君と視線が合って諦めた。

 お互い気まずい雰囲気のまま、電車が発車すると、揺れに合わせて足元がふらついた鳴海君は、「イテ」と吊り革に頭をぶつけ、同じく重心を崩してふらついた私はその拍子に、「キャ」と思わず声を上げて、肩が鳴海君の体に触れてしまい、慌てて体を引いた。

 触れた瞬間に目が合ったけれど、どちらも何も言えず、すぐに顔を逸らす。

 そして、三人の沈黙が流れた。


「……」


 そんな私たちのやり取りを見ていた糸田君が、「……おまえたちな」と少し呆れたように笑いながら言った。


「のろけ夫婦かよ」


 車内に響いたその言葉に耳まで赤くなるのを感じた。鳴海君も同じだと思う。

 すると『次は中目黒——』というアナウンスが聞こえ、私たちはそそくさと電車を降りた。


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