第29話
駅までの道のりが、いつもより長く感じる。空はやけに広いのに、隣を歩く男との距離ばかりが気になる。
そんな俺の気持ちなど知るはずもなく、糸田は口を開く。
「鳴海、付き合ったことあるのか?」
「……いや、ないけど」
糸田は嬉しそうな顔をして、「ほんとか? 俺もだ」と言い、急に俺との距離を詰めてきた。
「あのマネージャーは?」
馴れ馴れしさに若干引きつつも訊いてみた。二人が一緒にいるところは何度も目にしていた。
「ああ……恵美のことか」
糸田が軽く笑う。
「あれは俺の
聞いて納得した。それと、こいつは誰かに恋をしているけど悩んでいる、ということも。
それは……俺は部活に集中したい、とか、今年の夏に怪我した、とか、プロとかは目指してないけど一度決めたことだから悔いのないよう全力を出したい、とか、全国のチームと戦ってみたい、などと一人で熱く語っているのを聞かされて、いっそう感じた。
駅に着く頃には、その伝染してきた熱量をさますように俺はブレザーを脱ぐこととなる。
たく、滝本のやつめ。
次の日、学校の放課後。俺は今日、
日頃の行いの悪い滝本の罰として手伝わされているのだが、肝心の本人は途中で俺に全部押し付けて逃げ帰った。そのせいで、予定していた時間をとっくに超えている。……というか、そもそも俺は無実だ。
ちらりと外に目を向けると、夕陽が落ち始めていて、空がオレンジ色に染まっている。ため息をつきながら段ボールを運んでいると、体育館の方から聞こえてきたのは、ボールが床を叩く音と響き渡る声——
その声は、外にいる者まで巻き込むような迫力があった。思わず、足が体育館へと向かう。扉からぼんやり眺めていると、背後から明るい声が飛んできた。
「あ、鳴海先輩!」
男子バスケ部のマネージャーだ。彼女の表情は相変わらず元気そのもので、にこにこと笑いながらこちらに駆け寄ってくる。
「……バスケ部、すごい気合いだな。紅白戦?」
「ですね! いよいよですからね」
「明日だっけ?」
「明日、明後日やって、来週が最終日です」
マネージャーは、はきはきとした声で説明しながら、「あ、野々原先輩、絶好調みたいですよ!」と嬉しそうに付け加えた。
「そうなんだ」
彼女の明るさに少し圧倒されながら、とりあえず相槌を打つ。すると突然、握りこぶしを作り、満面の笑みを浮かべながら言い放った。
「これぞ、ラブパワーですねっ!」
その一言に、俺は無意識に少し後ずさってしまい、その無邪気な勢いと自信に圧倒される。なんとか軽く笑ってその場を後にしようとするけど。
「こんなに没頭できることがあって、うらやましいです」
この一言に足が止まった。
彼女はさっきまでの様子とは打って変わって、真面目な眼差しで体育館の中を見つめている。
「私、子供の頃からずっと夢中になれることがなくって……」
噛み締めるように言葉を続け、こちらを見て無理に笑顔を作る。
その笑顔に、どこか引っかかるものを感じ、何となく、共感できるような気がして、俺の口は勝手に動いていた。
「大丈夫、俺も同じだから」
でも、すぐに思った。
いや、同じじゃない。目の前の彼女は、きっと毎日、自分ではない誰かを応援しながら、その純心な笑顔で前を向いている姿が容易に想像できた。俺とは違う。
「大丈夫。俺なんか、自分が泳いでることにすら気づいてない。そこが海なのかもわからないし。……ただ、何となく浮いてるだけだから」
思わず出た言葉に、彼女はぽかんとした表情を向け、目を丸くしてから、肩を揺らしてぱっと笑った。
「鳴海さんって……おかしな人ですねっ」
そう言いながら、突然手を前に突き出してグータッチの構えをする。
「ラブパワー、お裾分けしてくださいっ」
仕方なく拳を合わせたその瞬間だった。不意にもう一つの拳がどこからか滑り込むように加わった。それと、眩しさの中に
「俺にもお裾分けしてください」
何だったんだ? あいつは。
その場を後にして考える。
——あいつは、たしか……一年の、背番号十二番。
*
チーム内の紅白戦。
私は控え組のBチーム。レギュラー組のAチームには、結衣と沙織んがいる。Bだけど——今日の私は調子がよかった。
コーナーから放った3ポイントシュートが、リングに吸い込まれるように決まる。続けてもう一本、さらにもう一本——
気づけば、六本連続で決めていた。
「痺れるぅ~」
と、相手チームなのに、沙織んが私の背中を軽く叩いていき、結衣も「ナイス、桃っ!」と笑って近づいてきた。
すると、
「ほらーっ。紅白戦だからって気を抜かないよー」
コーチの声が響き、手を叩く音とともに緩んでいた空気が一気に引き締まる。
皆んなの表情にも緊張感が戻り、再びゲームに集中する。
練習が終わりコーチに呼ばれた。
「あ、皆んな、先帰ってて」
そう言い残して、私はコーチの元へと向かった。
二人きりになった体育館で、コーチが私を見つめる。
「コンディション良さそうね?」
「はいっ!」
力強く答えると、コーチの視線が真っ直ぐ向けられ、淡々とした言葉が届く。
「明日は、期待してるから。そのつもりで」
一人で帰る道を歩きながら、足取りは自然と軽くなっていた。うっすらと残る夕焼けが、今日の自分をちょっとだけ誇らしく包み込んでいる気がした。
——いける、きっといける。
スランプに
何度も打ち込んだボールが、リングを通る瞬間の高揚感。紅白戦で決めたシュートの感触が、まだ指先に残っている。
緩やかな街並みの中で、握りしめるように心の中で呟いた。
——がんばれ、私っ。
+
朝、目が覚めると、何だか落ち着かない。いや、正確にはいつも通りに過ごしているつもりだ……。
布団を畳んでいると、ふと違和感があった。寝ぼけた頭で見下ろすと、着ていた服が裏表逆なのに気づく。タグが首元に引っかかっていて、慌てて着直した。
そのあとも何かがおかしい。歯磨きをしている間にテレビの音に気を取られ、水を含んだままくしゃみをしてしまったり、カバンに入れたはずの財布を探して部屋中をひっくり返したり。結局、それは玄関に置きっぱなしだった。
ダイニングキッチンでは、テーブルに座ったばーちゃんが新聞を読んでいた。
「おはよう」
言いながら椅子に座って朝食を口に運ぶ。けれど落ち着きのなさは収まらない。目の前の食事よりもスマホが気になって仕方ない。右手で箸を持ちながら、左手で画面を何度も確認する。
「朝から落ち着きないねえ~」
ばーちゃんが新聞の端から顔をのぞかせて微笑む。
「いや、別に……なんでもないよ」
わざとらしくスマホを置き、味噌汁を飲むふりをして誤魔化した。
食事を終えて食器を流しに運んでいると、ばーちゃんが思い出したように口ずさんだ。
「ああ、そうそう。来週またお母さんが戻ってくるって連絡があったよ」
「そうなんだ」
「純君の顔を見てから、また海外に行くんだって。ほんと、忙しい子だねぇ」
……ん?
違和感を感じて一瞬、箸が止まった。
何もないよな?
ばーちゃんの穏やかな様子とは別に、米つぶが一つ喉の奥でつかえたような気がした。
パン屋での昼下がり。
一番忙しい時間帯を過ぎた頃、友希さんが俺の肩を叩いてきた。
「純君、お疲れさま。休憩していいよ」
「ありがとうございます」
短く礼を述べてから手を洗い、誰もいないカウンター席に座った。出された焼きたてのパンは、まだほんのりと温もりが残る。それを口に運んでいると、アイスコーヒーを持った友希さんが、隣にそっと腰を下ろした。
「はい、これサービスね」
「ありがとうございます」
友希さんは「ごめんね、せっかくの休日なのに手伝ってもらっちゃって」と少し申し訳なさそうに言う。
「いや、大丈夫ですよ」
「週明けには、おばあちゃんが退院して、もう少し落ちつくと思うから」
たしか前に聞いていた、滝本の祖母。パンをちぎりながら、はい、と返事をすると、友希さんは頷きながらカップを手に取った。
「どこか具合悪かったんです?」
検査入院にしては期間が長かった気がした。
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