第23話

 鈴木さんは伏せた瞳のまま、ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ始めた。


「中学のとき……鳴海君がうちの学校に練習試合で来てて。それから、ずっと応援してた。他の学校にも行った。鳴海君の学校にだって。突然、転校したって聞いて……転校生として現れたときには、まるで奇跡みたいに思えた」


 その瞳に宿る想い。その記憶が、どれほどの意味を持っていたのか——そう思うと、痛みが私にも伝わってくるようだった。


「なのに……」


 一度言葉を飲み込むように口を閉ざしてから、鈴木さんは視線を落とす。そして抑えきれない思いが再び声になって漏れ出した。


「なのに、鳴海君は私のことなんて全部忘れてたの! 初めて話したことだって、何も覚えてなかった!」


 最後の言葉は、苦しみをぶつけるように吐き出された。


「……わかる? この屈辱?」


 唇がわずかに震え、悔しさを押し殺すようにぎゅっと噛みしめている。その瞳には涙が浮かび、鋭い視線は容赦なく私に向けられた。

 それでも無理に笑顔を繕っていた。痛々しいほどまっすぐな目で。その中に渦巻く怒りや嫉妬が、私の胸を締めつけてくる。


「それなのに、何? どうして邪魔するの? 野々原さんは中学のときからずっと一緒にいたんでしょ? ずっと隣にいたくせに、どうしていまさら出てくるの?」


 鈴木さんの言葉が、涙と一緒にぽろぽろとこぼれている。そのたびに、私の心は刺されるように痛んだ。


「……違う」


 と、声が少しこぼれたけど、どうやって説明をすればいいのかわからず、私はそのまま押し黙ってしまう。

 鈴木さんに何をしたわけでもない、けれど、彼女のその強い思いに触れた瞬間、胸に重たく沈むものが積もっていくようだった。

 去っていく鈴木さんの背中が木々に消え、再び静けさが訪れ、乾いた風が頬を撫でる。


「すみません……」


 そんな中で感じた気配。

 顔を上げ、振り返ると、キラリ君が立っていた。気まずそうに、視線をそらして頭を掻いている。その仕草はどこか幼さを感じさせた。


「鳴海さんの名前が聞こえて……つい、立ち聞きしちゃいました……」


 ぽつりと落ちた声には、戸惑いが含まれていた。

 言葉を返えそうにも、どこか落ち着きがない様子に、私の口はそのまま飲み込んでしまう。


「それに……同じ烈華れっか中なんです。鳴海さんがうちの学校に来てたときの鈴木先輩のこと、俺も知ってるんで……。なんか放っておけなくて。当時のあの熱狂は、今でも覚えてます」


 小さな声でそう言いながら、キラリ君は苦笑いを浮かべている。


「……まあ、同じ鳴海純のファンってことで」


 その言葉に、私の中で何か揺れていた感情がふっと解けた気がした。

 どこか自分を納得させるように肩をすくめるキラリ君の様子からは、鈴木さんへの気づかいと、鳴海君への純粋な思いが見て取れる。


「ちょっと、俺……やっぱりほっとけないんで、追いかけますねっ」


 キラリ君は小さく頷いて、そう告げるとその場から走り出した。

 胸に残る鈴木さんの言葉が何度も頭の中で、繰り返し思い出される。結局、皆んな鳴海君のことを——


 私だって——。


 握りしめた手が、自分の中にある想いを確かめるかのように、気づけば私も後ろを追い始めていた。



「鈴木さんっ……!」


 空気を切るように声が響く。私の呼びかけに応じるように、鈴木さんが立ち止まる。


「何?」


 木の葉が静かに揺れる中で、吐き捨てられた声が、とても冷く感じる。鈴木さんは、振り向くことなく、背中越しに続けた。


「野々原さんには関係ないでしょ? 私の気持ちなんて、あなたにわかるわけない……」


 鈴木さんの中に渦巻く思いが剥き出しに伝わってくる。でも、私は逃げるつもりはなかった。踏み出した一歩が、わずかに地面を鳴らす。


「……私にもわかる」


 自分の声が、思ったより小さく聞こえた。

 鈴木さんの肩がわずかに揺れて、私の視線は足元に落ちる。でも、頑張る——。


「わかる。……だって、私も鈴木さんと同じだからっ」


 これが今の私が伝えられる気持ち。

 ゆっくりと振り返った鈴木さんの、その瞳に宿っていた怒りの色が、いつしか驚きへと変わっていくのがわかった。


「どういうこと?」

「私も同じ……」


 鈴木さんの問いに、押し込めていた感情が、ほんの少しずつ溢れる。自分では確認できないけれども、薄っすらと涙がにじみ出てしまっているような気もする。


「一緒に過ごした時間が、ちゃんとあったはずなのに。今はもう、その証拠がどこにもないような気がして——置いていかれたみたいな、そんな気持ちになる——」


 精一杯の言葉だった。

 私が記憶喪失のことに触れるのは、何か違うと思う。迷いながらも口にした言葉は、上手く伝わっているのかどうかわからない。でも——ただ、気づけば鈴木さんの揺れる瞳に、私は目を離せなかった。


「——だから、一緒に頑張ろっ」


 真っ直ぐ鈴木さんの目を見て伝えた。拳をぎゅっと握りしめながら。


「きっと……鳴海君は、絶対に思い出してくれるからっ!」


 私の言葉を受け止めきれなかったのか、たじろぐように鈴木さんは目を見開いていた。それから、ふと小さく息をついて、わずかに頷いた。


「……わかった」


 その言葉は、どこか不思議な余韻よいんが音もなく残る。

 鈴木さんは何も言わずに歩き出した。表情からは何を考えているのかは、わからなかった。

 キラリ君が遠ざかる背中を追いかけていく。


「鈴木先輩っ!」


 その姿を見送りながら、私は立ち尽くしていた。風に揺れる木々の音だけが、聞こえる。


 いつのまにか空は曇っていた。

 秋の空は移ろいやすい。

 胸騒ぎの一日は、こうして幕を閉じた。

 そう思っていた——

 でも——。



 その夜、曇天どんてんの空に、一筋の光が射し込んだ。

 どこからともなく、星のまたたきみたいに、私のモヤモヤを突き抜けて。


 なまりを詰め込まれたみたいにクタクタな体にむち打って、寝る前の準備を一通り済ませ、ようやくベッドに潜り込むと、真っ暗な部屋の中で、ぼんやりと光が灯った。この通知はメールだった。

 そして、眠たい目を擦りながら、画面をスワイプして飛び起きた。


『明日、水族館に行かない?』

『部活が終わってから』



---



 祐天寺の駅前で時間を潰していた。バイトは滝本に交代してもらい、早めに切り上げてきた。

 駅の時計を見ると、まだ約束の時間まで少し余裕があった。

 手持ち無沙汰でポケットからスマホを取り出し、無意味に画面を眺める。だけど心の奥に引っかかっているのは別のことだった。

 今、自分がここに立っている理由を考える。

 昨日、鈴木との一件に区切りがついたと思っていた。結果はどうであれ、あの時点ですべてが終わったはずだった。けれど、どういうわけか鈴木は再び俺の前に現れた。バイト先まで足を運び、まるで何事もなかったかのように水族館の話を切り出してきた。

 鈴木を傷つけたのは、間違いない。その事実に疑いようはない。なのに、どうしてまた俺に関わろうとする?

 いや、それだけじゃない。野々原とのことにまで口を出してくるなんて、正直理解に苦しむ。あれだけ険悪の仲だったのに。


 ——滝本の仕業か?


 一瞬、顔が脳裏をかすめる。鈴木のことを滝本に話した覚えはないが、あいつなら何かしら察していてもおかしくない。勘の鋭さでは学校内随一だ。


 ただ、どうにも違和感が拭えない。


 それに、何故か鈴木はバスケ部の練習が今日は少し早めに終わることを知っていた。これもまた何か引っかかるところだ。

 考えれば考えるほど、解けない糸のようにこんがらがっていき、結局、答えは見つからないまま、目の前を行き交う人々の影に消えていく。


 遠くから足音が近づいてきた。

 軽快というには少し焦ったようなそのリズムが耳に届く。

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