第22話

 体育館にボールの音と、シューズが床を擦る音が、沸々と鳴り響く。ウィンターカップ予選まで残り一ヶ月を切ってからというもの、練習はますます熱を帯びていた。


「そこ、動きが鈍い! 腰を落として、踏み込み注意してっ」


 コーチの的確で鋭い指摘が飛ぶ。おっとりした見た目に反して、その声には一切の甘さも妥協もない。

 声が上がるたびに、チーム全体が引き締まり、空気がさらに張り詰めていくのがわかる。



 全体練習が終わり、各自の練習に入る。私はリングを見据えてドリブルを重ね、深く息を整えたあと、シュートを放った。けれど——そのとき、パツン、という鋭い音が足元に響く。

 すぐに確認すると靴紐が切れている。何か、胸の奥を刺す不吉な気持ちと共に靴を見下ろしていると、結衣がこちらに気づいて駆け寄ってきた。


「桃、どうしたっ?」

「靴紐が切れちゃった……ちょっと用具室行ってくるね」



 用具室に向かい予備の靴紐を探していると、不意に違和感が……。

 すぐに確認するともう片方の靴紐まで切れていた。


 ……こんなことってある?


 初めての経験に、何とも言えない胸騒ぎがした。じわりと不吉な予感が忍び寄る。

 そんなとき——


「あ、野々原先輩っ」


 急に名前を呼ばれ、振り向くとそこにはキラリ君の姿があった。


「どうしたの?」


 訊くと、キラリ君は苦笑いしながら、「靴紐が切れちゃって……」と困ったように眉を下げている。


「え、キラリ君も?」


 思わず驚いてしまい、つい声に出してしまった瞬間に、しまったと思った。キラリ、は女バスの間だけでの呼び名だった。


 すぐに、「あ、ごめんね」と謝ったけど、やっぱり嫌な思いをさせてしまったかな、と少し気まずくなる。

 でも、そんな私にキラリ君は目を輝かせて、「キラリで平気ですっ。そう呼ばれてるの、知ってますから」と笑顔を見せた。


 その無邪気な姿勢は、何だか感動すら覚えた。

 後ろから賑やかな声がした。


「おーい、キラリー。ついでにボールの空気入れ取ってくれるかー?」


 男バスの糸田君の声だとわかったとき、キラリ君が軽く顔をゆがめて「キャプテンまで……やめてくださいよっ」と照れくさそうに笑みを見せた。普段『キラリ』と呼ばれることがないらしい。

 そんな二人のやり取りを見つめながら、ふと、糸田君が一人でいるのが珍しいな、と思った。いつもなら女子マネージャーが近くにいる……。

 すると、こちらを振り返って声をかけてきた。


「野々原。キラリにもシュートのコツ教えてやってくれよ」

「いやいや、私なんかじゃ」と、つい謙遜したけど、糸田君はさらに続ける。

「うちも身長がないからな、3ポイントが決まらないとキツイんだよ」


 キラリ君が小さな声で「あの二人が入ってくれたら解決なんですけどね? 滝本さんと鳴海さん」と、ぼそりとつぶやく。


 その言葉に疑問が浮かんだ。バスケ経験者の鳴海君ならともかく、なぜ滝本君も? と思わず問いかけてしまう。

 それを聞いた糸田君は、意外そうな顔をしていた。


「知らないの? 滝本と仲良いのに?」


 聞けば、滝本君は中学時代、都選抜に選ばれていたらしく、それで高校に入ってから何度か部活に誘ったものの、結局断られてしまったという。


「なんでやめたかは知らないけどな……」


 と、残念そうに浮かべる笑みからは、本当にバスケットと真剣に向き合っているのだということが伝わってきた。噂通りの真面目な人柄というのも。

 それと、話を聞きながら頭の中で、結衣の顔が過ぎった。

 滝本君に近づいていた理由は、もしかして……糸田君のために? バスケ部に入部させることが狙いだったのかも、と思った。

 そんな考えを巡らせていると、また別の声が飛んできた。


「おーい、キラリ~、一つダメになったから、ついでにボールも持ってきてくれー」

「岡本さんまで、やめてくださいよぉー」


 そう言いながらもキラリ君は応じる。

 その飾らない仕草からは、周囲にどれだけ親しまれているかが、すぐにわかった。



 翌日、胸騒ぎの学校には結衣の姿はなく、いつもと違う何だか特別な一日を過ごしていた。そんなことを口ずさむと、怒られそうだけど。

 結衣は家族の事情で休んでいる。


 お昼は、沙織んや女バスのメンバーと一緒に屋上で食べた。それもまた新鮮で、皆んな、恋愛やら勉強、友達、色々と悩みがあるみたいだけど、最終的にはやっぱり部活の話となって、バスケ熱は増すばかりだった。

 食べ終える頃、私は何となく歩き出した。青空に背中を押されるようにして。


 秋の空に吐息が混じり、その青さに想いをせる。

 陽に照らされている木々が、校舎の裏手に何本かそっと立っている。それは、今は真っ赤に染まった葉っぱを揺らしながら、静かに季節の終わりを待っているように映った。

 目を落とすと、さながら絨毯じゅうたんのように葉っぱが地面を覆っていて、踏みしめるとくしゃりと音を立てる。


 ドラマや映画だと、『ここでヒロインの元に、上から葉っぱが、ひらひらといい感じに舞い落ちてくる』なんて思っていると、本当に私の元に降ってきて、心に虹がかかったような気がした。

 冷たく澄んだ風が吹くたびに、枝を離れる葉っぱたちは、空中でくるくると回りながらゆっくりと落ちていく。

 揺れる紅葉の隙間から見える青空が眩しくて、そのまま思わずじっと立ち尽くしてしまう。


 私……今、青春アオハルしてるな、と胸に抱いている、そんなときだった。


 人の気持ちを踏みにじるように、落ち葉を踏み荒らす足音が近づいてきて、誰かが突然ぶつかってきた。


「ごめんなさいっ」


 と、咄嗟とっさに謝ってから見ると、鈴木さんだった。

 なんて悪縁なんだろう……と思ったけど、彼女の顔を見た瞬間、息が止まる。大粒の涙が頬を伝い、肩を震わせながら、声もなく泣き続けている。その涙がまるで、自身の抱える何かが溢れ出したように、止まることなく流れていた。


「……鈴木さん?」


 思わず名前を口にしていた。

 鈴木さんは、声を耳にして初めて私を認識したようだった。顔を上げてから、目が合った瞬間、その表情に、私は息を呑んでしまう。頬を涙で濡らし、強く眉を寄せた瞳が、冷たい怒りを帯びてこちらを睨んでいる。


「——何っ?」


 低く鋭い声が返ってきた。

 その視線の強さにひるみそうになるけど、震える肩とこぼれる涙に目が離せなくて、私は目をそらせなかった。


「どうしたの? ……何かあったの?」


 無意識に口から出た言葉だった。けれど、それを聞いた途端、鈴木さんの表情がゆがんでいる。


「……あなたのせいよ、全部」


 絞り出して言い放った言葉は、まるで胸の奥に溜め込んでいた感情がせきを切って、一気に流れ出したような、そんな感じだった。


「わかる? 私がどれだけ鳴海君を想ってたか、野々原さんにはわからないでしょ⁈」


 震える声の中に、切実な思いが溶け込んでいた。……鳴海君と何かあったのだ、私はそう思った。

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