第24話
夕暮れの街路を駆けてくる小さな影。遠目でもすぐにわかった。肩を上下させながら懸命に走る姿がどこか不器用で、妙に野々原らしいと思った。
「……」
すれ違いざまに鞄を人の肩にぶつけてしまった野々原は、慌てて謝っている。
……学校の鞄は品川駅で預けたほうがよさそうだな。水族館で振り回されたら、たまったものじゃない。
ただ、そう思いながらも、視線は自然と引き寄せられていた。夕日の中で揺れる髪や、頬の赤みが、照れているのか、それとも夕日がそう見せているのか。その全身から
「ごめんねっ、待たせちゃって」
さりげなく時間を確認すると、まだ五分前だった。
野々原は目の前で足を止め、大きく息を吸い込んでいる。肩で息をしながらも小さく笑うその表情に、頭の中で絡まっていた思考が解けるのを感じた。
「コーチの話が最後、長くなっちゃってっ」
必死に言葉を探しながら弁解しようとする様子に思う。
……気づけば俺は、知らず知らずのうちに、そのまっすぐな姿に励まされているのかもしれない。
それに、
「……ああ、俺は大丈夫だから」
と言うと、野々原のぱっと柔らいだ笑みが、ふわりと浮かび、鈴木との関係がこじれずに済んだこともあるけど、それ以上に約束を果たせることができてよかった。
『クジラのデジタル展示に行きたい……』
以前、野々原はそう話していた。理由は謎だが、どうしても行きたそうなあの表情が強烈で、頭にこびりついて離れないでいた。
野々原の息が整ってから声をかけた。
「……では、いきますか」
*
え、すごいっ。どれもこれも紅葉っ。
独り言みたいに呟きながら、入口からエントランスまでの道のりを、私は手当たり次第にスマホのカメラを向ける。くぐもった静まり返る館内に、カシャリとシャッター音が響く。
「……」
隣で苦笑いしている鳴海君を肌で感じつつも、期間限定イベントのデジタルアートに目が離せない。まるで日本庭園のように紅葉が舞い、色づいた光のもみじが風に揺れて壁を滑り落ちていく。一歩、歩くごとに、足下に映った水面の映像に波紋が広がる。
当然のことのように、すかさず床もパシャリとした。
鳴海君はというと……
少し笑っているようにも見えた。
楽しんでくれていたら嬉しいなと、心のふちに思いながら、現実から切り離された薄暗い館内を進む。
光と水の揺らめきに包まれた足元は、まるで夜空の星々が水面に映る湖に迷い込んだみたいで……
私はおとぎ話の少女になった気分だった。
「サンゴって光の色で変化するって知ってた?」
ふいに声が飛んできたのは、ブルーライトが揺らめくサンゴの水槽を覗き込んでいたときだ。
「いや、知らない。初めてっ」
思わず顔が上がった。過去の鳴海君からもそんな話を聞いた記憶がなかった。
「そうなんだ」
と相づちをすると、鳴海君はサンゴに視線を落としたまま、どこか独り言のように、ふーん、とだけ言った。
それだけだったけど……
その横顔が嬉しかった。揺れる光と重なって神秘的に映った顔が……
その表情は何だか、穏やかで、以前ここに来たときの鳴海君だった。
そのあとも、落ち着いた空間に溶け込むような鳴海君の
「お、グッピー……」
足を止め、水槽越しに鳴海君の横顔をそっと伺った。透明なガラスの向こうで、魚たちの影が金色の光を受けてゆらゆらと揺れていた。
グッピー——
そう……前に来たとき、私が『一番好き』と話した魚だ。
その記憶がふいに蘇る。小さな魚の鮮やかな色彩に惹かれた私に、鳴海君はあのときどんな表情をしていただろう。
……覚えててくれた?
と、今にも飛び出しそうな言葉をぐっと飲み込む。そんなはずがないことを、頭ではわかっている。それでも、じんわりと心の内が、温かくなっている自分がいた。
鳴海君は相変わらず淡々とした表情のまま、泳ぎ回る魚を目で追っている。記憶の有無なんて、関係ないのかもしれない。ただ、グッピー、と口にしてくれた事実だけで十分だ。
「エビを飼うか、こいつを飼うか悩んでたんだよな~」
その声は落ち着いていて、光の波紋を映す空間にすっと馴染んでいく。何でもない一言なのに、どうしようもなくグッピーのヒレと共に、私の心は揺れる。
思わず笑みが漏れてしまう。鳴海君の目を通して、この場所の美しさを再発見したかのように、私はただ、その光景を見つめていた。
夢のような時間は続き、天井から左右へと広がる巨大なトンネルの水槽では、ライトアップによって青色の光を背負った大きなエイと一緒に、二人で写真を撮った。
途中、大人の雰囲気が漂うカフェバーに立ち寄った際には、静かにきらめく水槽が埋め込まれた小さな丸テーブルに立ったまま向かい合い、鳴海君の高身長あるあるの話に、二人の微笑ましい笑い声が、幻想的なブラックライトの光に包まれた。
『牛乳たくさん飲んだの?』
と、よく言われるのは困るらしい。
光が揺れる通路を歩きながら、私は訊いた。
「ねえ、鳴海君。これって貸切だよね?」
館内の
問いかけに、鳴海君は少し間を置いてから「ああ、そうだよ」と答えた。
「本当は今日の午後からリニューアル工事で休館だったんだけど、特別に入れてもらえることになった」
ん? 休館? どうして入れたんだろ?
「何で?」
と、思わず身を乗り出して尋ねてみるけど、その答えも私には意味不明だった。
鳴海君は軽く肩をすくめながら「鈴木だよ」と短く答える。
「鈴木さん?」
ますます疑問は深まるばかりだったけど、鳴海君は、ふっと笑ってから、館内の壁に掲げられたロゴを指さした。
『ベルツリー品川アクアマリンパーク』
「ほらあれ、ベルツリー」
と教えてくれるけど、私には全く意味がわからない。
そんな首を傾げる私に対しても、鳴海君は嫌な顔一つしないで優しく声をかけてくれる。
「鈴木を英語にしてみると?」
「あ……」
聞いた瞬間に、すべてが繋がった。「おお。そうなんだ」と驚きの声が漏れた。
「鈴木の父親の会社が、ここの水族館のスポンサーなんだって。それと、鈴木も水族館の館長と仲が良いらしく、特別に二時間だけ開放してもらえたらしい」
——社長令嬢とは聞いていたけど、そんなことがあるなんて。
以前、品川駅にいたのも、それが理由? 全然知らなかった。
ん? それでもわからない。
どうして私たちを特別ここへ?
訊いてみたけど、鳴海君もわからないと言う。
「……鳴海君は。ここに来たかったんだよね……」
「……まあ、そうだね」
呟く鳴海君の声は、わずかに響く水の流れる音と、どこか遠くから聞こえる癒しのBGMに紛れて耳の奥で余韻を残して消えていく。
天井は星が輝いているようで、プラネタリウムみたいな空間にある目の前の円柱型の水槽は、不規則に変化するライトによって、柔らかく青から紫、そして赤色へと表情を変える。
……『不老不死』の肩書きを持つベニクラゲ。
理論上では五億年以上生きた個体もあるのだという。
一センチ足らずの数えきれないほどの小さなクラゲは、宇宙をさまよう——それはまるで、産まれたての赤ちゃんの魂みたいに、ピョコピョコと水中を泳ぎ回っている。透明な傘の中で、脈を打つように浮かぶ赤いグミみたいなものが可愛い。
——鳴海君は満足してくれたかな?
前回を踏まえると、ここでベニクラゲのうんちくを聞けると思っていたけど……
ぼんやりと映るガラス越しの表情からは、何を思っているのかはわからなかった。どこか遠い場所を見つめているようにも見える。
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