第24話

 夕暮れの街路を駆けてくる小さな影。遠目でもすぐにわかった。肩を上下させながら懸命に走る姿がどこか不器用で、妙に野々原らしいと思った。


「……」


 すれ違いざまに鞄を人の肩にぶつけてしまった野々原は、慌てて謝っている。


 ……学校の鞄は品川駅で預けたほうがよさそうだな。水族館で振り回されたら、たまったものじゃない。


 ただ、そう思いながらも、視線は自然と引き寄せられていた。夕日の中で揺れる髪や、頬の赤みが、照れているのか、それとも夕日がそう見せているのか。その全身からにじむ必死さに、俺の目は自然と奪われていた。


「ごめんねっ、待たせちゃって」


 さりげなく時間を確認すると、まだ五分前だった。

 野々原は目の前で足を止め、大きく息を吸い込んでいる。肩で息をしながらも小さく笑うその表情に、頭の中で絡まっていた思考が解けるのを感じた。


「コーチの話が最後、長くなっちゃってっ」


 必死に言葉を探しながら弁解しようとする様子に思う。


 ……気づけば俺は、知らず知らずのうちに、そのまっすぐな姿に励まされているのかもしれない。


 それに、


「……ああ、俺は大丈夫だから」


 と言うと、野々原のぱっと柔らいだ笑みが、ふわりと浮かび、鈴木との関係がこじれずに済んだこともあるけど、それ以上に約束を果たせることができてよかった。


『クジラのデジタル展示に行きたい……』


 以前、野々原はそう話していた。理由は謎だが、どうしても行きたそうなあの表情が強烈で、頭にこびりついて離れないでいた。

 野々原の息が整ってから声をかけた。


「……では、いきますか」



 え、すごいっ。どれもこれも紅葉っ。

 独り言みたいに呟きながら、入口からエントランスまでの道のりを、私は手当たり次第にスマホのカメラを向ける。くぐもった静まり返る館内に、カシャリとシャッター音が響く。


「……」


 隣で苦笑いしている鳴海君を肌で感じつつも、期間限定イベントのデジタルアートに目が離せない。まるで日本庭園のように紅葉が舞い、色づいた光のもみじが風に揺れて壁を滑り落ちていく。一歩、歩くごとに、足下に映った水面の映像に波紋が広がる。

 当然のことのように、すかさず床もパシャリとした。


 鳴海君はというと……


 少し笑っているようにも見えた。

 楽しんでくれていたら嬉しいなと、心のふちに思いながら、現実から切り離された薄暗い館内を進む。

 光と水の揺らめきに包まれた足元は、まるで夜空の星々が水面に映る湖に迷い込んだみたいで……

 私はおとぎ話の少女になった気分だった。

 



「サンゴって光の色で変化するって知ってた?」


 ふいに声が飛んできたのは、ブルーライトが揺らめくサンゴの水槽を覗き込んでいたときだ。


「いや、知らない。初めてっ」


 思わず顔が上がった。過去の鳴海君からもそんな話を聞いた記憶がなかった。


「そうなんだ」


 と相づちをすると、鳴海君はサンゴに視線を落としたまま、どこか独り言のように、ふーん、とだけ言った。

 それだけだったけど……

 その横顔が嬉しかった。揺れる光と重なって神秘的に映った顔が……

 その表情は何だか、穏やかで、以前ここに来たときの鳴海君だった。

 そのあとも、落ち着いた空間に溶け込むような鳴海君のつぶやきに反応してしまう。


「お、グッピー……」


 足を止め、水槽越しに鳴海君の横顔をそっと伺った。透明なガラスの向こうで、魚たちの影が金色の光を受けてゆらゆらと揺れていた。

 グッピー——

 そう……前に来たとき、私が『一番好き』と話した魚だ。

 その記憶がふいに蘇る。小さな魚の鮮やかな色彩に惹かれた私に、鳴海君はあのときどんな表情をしていただろう。


 ……覚えててくれた?


 と、今にも飛び出しそうな言葉をぐっと飲み込む。そんなはずがないことを、頭ではわかっている。それでも、じんわりと心の内が、温かくなっている自分がいた。


 鳴海君は相変わらず淡々とした表情のまま、泳ぎ回る魚を目で追っている。記憶の有無なんて、関係ないのかもしれない。ただ、グッピー、と口にしてくれた事実だけで十分だ。


「エビを飼うか、こいつを飼うか悩んでたんだよな~」


 その声は落ち着いていて、光の波紋を映す空間にすっと馴染んでいく。何でもない一言なのに、どうしようもなくグッピーのヒレと共に、私の心は揺れる。

 思わず笑みが漏れてしまう。鳴海君の目を通して、この場所の美しさを再発見したかのように、私はただ、その光景を見つめていた。



 夢のような時間は続き、天井から左右へと広がる巨大なトンネルの水槽では、ライトアップによって青色の光を背負った大きなエイと一緒に、二人で写真を撮った。

 途中、大人の雰囲気が漂うカフェバーに立ち寄った際には、静かにきらめく水槽が埋め込まれた小さな丸テーブルに立ったまま向かい合い、鳴海君の高身長あるあるの話に、二人の微笑ましい笑い声が、幻想的なブラックライトの光に包まれた。


『牛乳たくさん飲んだの?』


 と、よく言われるのは困るらしい。



 光が揺れる通路を歩きながら、私は訊いた。


「ねえ、鳴海君。これって貸切だよね?」


 館内の人気ひとけは、ほぼなかったし、それと急転直下で決まった水族館デートの理由も知りたかった。

 問いかけに、鳴海君は少し間を置いてから「ああ、そうだよ」と答えた。


「本当は今日の午後からリニューアル工事で休館だったんだけど、特別に入れてもらえることになった」

 ん? 休館? どうして入れたんだろ?

「何で?」


 と、思わず身を乗り出して尋ねてみるけど、その答えも私には意味不明だった。

 鳴海君は軽く肩をすくめながら「鈴木だよ」と短く答える。


「鈴木さん?」


 ますます疑問は深まるばかりだったけど、鳴海君は、ふっと笑ってから、館内の壁に掲げられたロゴを指さした。


『ベルツリー品川アクアマリンパーク』


「ほらあれ、ベルツリー」


 と教えてくれるけど、私には全く意味がわからない。

 そんな首を傾げる私に対しても、鳴海君は嫌な顔一つしないで優しく声をかけてくれる。


「鈴木を英語にしてみると?」

「あ……」


 聞いた瞬間に、すべてが繋がった。「おお。そうなんだ」と驚きの声が漏れた。


「鈴木の父親の会社が、ここの水族館のスポンサーなんだって。それと、鈴木も水族館の館長と仲が良いらしく、特別に二時間だけ開放してもらえたらしい」


 ——社長令嬢とは聞いていたけど、そんなことがあるなんて。

 以前、品川駅にいたのも、それが理由? 全然知らなかった。

 ん? それでもわからない。

 どうして私たちを特別ここへ?

 訊いてみたけど、鳴海君もわからないと言う。




「……鳴海君は。ここに来たかったんだよね……」

「……まあ、そうだね」


 呟く鳴海君の声は、わずかに響く水の流れる音と、どこか遠くから聞こえる癒しのBGMに紛れて耳の奥で余韻を残して消えていく。

 天井は星が輝いているようで、プラネタリウムみたいな空間にある目の前の円柱型の水槽は、不規則に変化するライトによって、柔らかく青から紫、そして赤色へと表情を変える。


 ……『不老不死』の肩書きを持つベニクラゲ。

 理論上では五億年以上生きた個体もあるのだという。


 一センチ足らずの数えきれないほどの小さなクラゲは、宇宙をさまよう——それはまるで、産まれたての赤ちゃんの魂みたいに、ピョコピョコと水中を泳ぎ回っている。透明な傘の中で、脈を打つように浮かぶ赤いグミみたいなものが可愛い。


 ——鳴海君は満足してくれたかな?


 前回を踏まえると、ここでベニクラゲのうんちくを聞けると思っていたけど……


 ぼんやりと映るガラス越しの表情からは、何を思っているのかはわからなかった。どこか遠い場所を見つめているようにも見える。


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