第19話

 祐天寺駅へ向かう道を、黙々と三人で歩く。

 まだ夕方の名残はあるものの、空はすっかり深い藍色に染まり、街灯の明かりが通りを薄く浮かび上がらせていた。

 ぼんやりと季節の変わり目を感じる。木々の間を抜ける風が冷たく、乾いた落ち葉が足元でかさりと鳴った。


 駅に着くと、鈴木は「……じゃあ」と短く言い残し、何か言う隙も与えず足早に去っていった。

 野々原と取り残される形になり、一瞬、動揺したが、その後は不思議と気まずい空気を、お互いどうにかしようとするわけでもなく電車に乗った。中目黒駅に着いてからも、ごく当たり前のように二人並んで帰った。


 夜道は、遊歩道に並ぶ街灯にぼんやりと照らされ、二人の影を淡く伸ばしている。静かな時間が流れていた。

 川沿いを流れる水の音だけが耳に届いた。



「ただいま」


 家に足を踏み入れると、室内は真っ暗だった。人の気配がない。誰もいないみたいだ。

 廊下のスイッチを入れ、明るさと一緒に、ほんの少しだけ暖かみが広がると、開けっ放しのドアが目に付いた。思わずお姉ちゃんの部屋の前で足が止まる。何気なく、暗がりに薄っすらと映る机の上が気になった。

 部屋の電気をつけると、机の上には分厚い専門書がいくつも積まれていた。理学療法や心理学、トレーナーに関する本がずらりと並び、アスリートの怪我や心のケアについて書かれたタイトルが、次々に目に飛び込んでくる。

 その光景に、お姉ちゃんが黙々と勉強している姿が自然と思い浮かんだ。

 もしかしたら、私のバスケのスランプのことも――少しは気にかけてくれているのかもしれない。

 そんな思いが、頭の片隅に残った。


「……何?」


 突然、声がして、驚いて顔を上げると「覗き~? 趣味悪いわよ」と、からかうように言い放つお姉ちゃんが立っていた。


「その格好、どうしたの?」


 普段とは見違えるほどに整った出で立ちに思わず訊くと「短期インターンシップよ。会社が私の希望を聞いてくれてね」と、微笑むお姉ちゃんの顔はどこか誇らしげに見えた。


 お姉ちゃんは大学時代、怪我でバスケを諦めざるをえなくなった経験から、来年の春からアスリートを支える仕事に就く予定だった。

 いつも以上に大人びて見える姿に、思わず頭に浮かんでいたある疑問が、そのまま言葉になってしまう。


「ねえ、お姉ちゃん……記憶喪失って、どうしたら記憶が戻るのかな?」


 驚いた表情でこっちを見つめたかと思うと、お姉ちゃんは少し間を置いてから、「ひょっとして鳴海純?」と、何かを察したように尋ねてきた。


「なんでわかるの?」


 と訊き返すと、「あんたの悩みなんて、ずっとそれでしょ」と、呆れたような笑みを浮かべられた。

 お姉ちゃんは少しだけ黙り込み、表情を曇らせる。


「私も専門じゃないけど」


 と前置きをしたあと、言葉を慎重に選びながら話し始めた。


「視覚的な記憶は残りやすいかな。例えば……ただ『ケーキがあるよ』って伝えるのと、そのケーキを実際に見せて、一緒に冷蔵庫に入れるまでだと、視覚と動作がある分、断然記憶に残るでしょ? しかもケーキなら、匂いもある」


 私は、一つ一つ言葉をかみしめるように耳を傾ける。


「……だから、五感に訴える。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。こういった感覚は、意識してなくても記憶に残ることがある。たとえ思い出せなくても、香りや音を感じたときに、何かが引き出されることがあるだろうし。例えば、桃子だって、ある香りを嗅ぐと特定の場所を思い出すこともあるでしょ? そんなふうに五感が記憶を呼び起こすきっかけになることもある」


 そう言ったあと、お姉ちゃんの表情がふと曇った。


「あの子、突然いなくなったと思ったら、そんなことになってたんだ……」


 と、目を伏せるその横顔には、どこか寂しさがにじんでいた。


 それにつられるようにして思わず「いっそ私が……」と口をつきかけたけれど、「滅多なことを言わない!」とお姉ちゃんに、けっこう真剣に怒られた。



 部屋に戻り、ベッドに寝転がってからも、お姉ちゃんの言葉が頭から離れない。


 ……もし、私が鳴海君の立場だったら——


 ぼんやりと天井を見つめながら考えた。

 仮に、もし私が記憶を失っていたとしたら、きっと鳴海君は私のために必死になってくれる。

 そう思うと、何だか気持ちが引き締まるような気がした。

 それに——


「これにも間に合った」


 スマホの画面に視線を落とすと、そこには『ベルツリー品川アクアマリンパーク』のサイトが映し出されている。期間限定の『クジラのデジタル展示』のページ。

 このイベントは特設ブースでクジラの姿が空間に投影され、まるで本物がそこにいるかのような幻想的な体験ができるものだ。明日が最終日、と表示された文字を確認して、ひとまずほっとした。

 スマホを手から離し、再び静かに考え込む。

 昨日、学校の帰り道でLINEの交換もできた。

 あとは、私にできることをやるだけ——少しでも力になれるように。そう心に決意をする。



 次の日、品川駅の改札前で、立ち尽くしていると、絶えず流れる人の波に飲まれそうになりながら、私はスマホをぎゅっと握りしめた。

 待ち合わせの時刻を過ぎた通知が、小さく震え、そわそわしてきた。

 部活の練習を終えてからは、時間に追われるように自宅へ駆け込み、シャワーを浴び、前日に調べた流行りのコーディネートを参考にした服を選んでから、やって来た。少しでもよく見えるようにと一生懸命、髪だって整えた。

 そして今、鳴海君を待ちながら、不安に襲われている、私。


 ——鳴海君、どうしたんだろ? 来てくれるよね?


 平静を装っているつもりだけれど、内心はいつになく緊張していて、ふとした瞬間に襲ってくる疑念に息が詰まる。

 自分でも呆れるくらい過去の記憶がちらついた。鳴海君からLINEの連絡が急に途絶えたあのとき、何もできないまま、ただただ時間だけが過ぎていった日々のことを。

 バイトが終わってから来るって言ってたけど……

 そう鳴海君の言葉を思い出していたときだった。


「……あ、いたっ」


 不意に視界の端に見えた。

 離れた場所で、鳴海君が海外の観光客らしき人と何か話している。その姿を見た瞬間、張りつめていた気持ちがふっと緩んだ。

 気づいた鳴海君は、小走りで駆け寄ってくる。


「わるい、捕まった……」


 鳴海君は息を整えながら、申し訳なさそうな顔をしている。

 私は何でもなかったようなふりをしながら、「道案内でもしてたの?」と問いかけてみると、鳴海君は肩をすくめて「いや、ただ背が高いからって理由で話しかけられたらしい」と、平然と答える。


「……え、それだけ?」


 突拍子もない話に、思わず微笑んでしまう。

 さっきまでの、もやもやした感情は午後の穏やかな陽射しにさらわれて、ちょっとずつ解けていくようだった。



 ……さて。

 まずはコーヒーだ。


 今日のデートは私がリードすることに決めていた。鳴海君が都内を知らないというのもあったけど、私には考えがあった。


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