第20話

「ねえ、ちょっとお茶してから水族館行こうか?」


 ふと提案すると、鳴海君は少し首を傾げて、「お茶? 今から?」と意外そうな表情を見せた。


 でも、ここで引き下がるわけにはいかない。


「なんか、喉乾いちゃって」


 軽く笑ってごまかすように言うと、鳴海君は少しだけ目を細め、「まあ、別にいいけど」と、いつも通りさっぱりとした対応で応じてくれた。


 その返事にほっとしながら、心の中で小さくガッツポーズを決める。

 ——今日の私は、いつもとちょっとだけ違う。



 向かったのは、二人が中学生の頃に初めて訪れたカフェだった。駅構内にあるアメリカ生まれのコーヒーチェーンで、シンプルなインテリアと、一杯ずつ丁寧に淹れられるハンドドリップのコーヒーが人気の店。


 以前来たとき、緊張した面持ちの鳴海君が『カフェ行ってから水族館行かない?』と、誘ってくれたのを覚えている。


 洗練されたおしゃれな店内は、大人びていて、当時の私たちには少し敷居が高かった。でも、あえてこの店に私を連れて行きたかったんだと思う。ほんの少し背伸びをして、大人の世界に誘ってくれた、そんな場所だった。

 それは、私の中でも何かが少しずつ変わり始めていた瞬間でもあった。心臓をドキドキと高鳴らせ、まるで新しい扉がふわりと開かれ、その向こうに広がるキラキラとした景色に胸を躍らせているかのように。


 そして今、私は心のどこかで思っている。

 もしかしたら思い出してくれるかもしれない。

 なんて、淡い期待を抱いていた。


 なのに、どうして、

 ……何でこうなるのだ。


 本当は、鳴海君との何気ない会話を楽しんでから水族館に行くつもりだったのに、その計画はあっけなく崩れてしまった。



 レジで注文してから二人で席に着いて、ほんのり温かいカップを手にすると、隣の席に目がいった。男女四人のグループで、二組のカップル……? という雰囲気でもなさそうだ。


「……あの人たち、いったい何してるんだろう?」


 小声でつぶやくと、気まずそうに笑いをこらえながら、「さあ?」と、控えめに鳴海君は首をかしげている。


 理由は、その中のひとり、可愛らしいワンピース姿の女の人が、テーブルの下で向かいに座る男の人の足を、ちらりと見せた足先で、ちょんちょんと、さりげなくつついているからだった。

 男の人は明らかに動揺していて、顔を赤くしながらも落ち着かない様子。お互い視線をそらしているあたり、たぶん他の二人には気づかれないようにしているつもりらしい……。


 これが俗にいう、あざとい女?


 何となく鳴海君と目が合うけど、隣のテーブルで繰り広げられている、隠しているつもりでまったく隠せていないやりとりに、私はどう反応すればいいのかわからない。

 コーヒーを一口含んでから、そっとカップを置くと、カタン、と小さな音が響き、漂う気まずさを助長する。続いて鳴海君のカップの音が小さく聞こえた。


 この空気を何とかせねば……


「鳴海君は、どんな髪型が好き?」

「……」


 ——やってしまった。

 言って、すぐに気づいた。


「いや、別に……」と、気まづそうな鳴海君の表情を見て一瞬にして反省した。何とかせねば……


「ど、どう……? そのコーヒー、おいしい?」


 今度は当たり障りのない話題を振ってみた。

 でも、「おいしいんじゃない? 普段、コーヒー飲まないからよくわかんないけど」と、思わぬ返答に、——コーヒー飲まなかったんかいっ、とつい動揺してしまった私は、針のむしろに座っているような空気を、ますます悪化させてしまうのだった。


 それにしても、隣の席の様子が気になって仕方がない。まだ、ちょんちょん、と続く足の動きに、よく見ると男の人の額にはじわりと汗が滲んでいる。

 もて遊ばれている? よくわからないけど、あの落ち着かない視線に、思わず息を飲んだ次の瞬間──男の人が突然立ち上がった。


「……な、なんでそんなことするんですか⁈」


 店内に響いた大きな声に、空気が一気に張りつめたのがわかる。男の人が声を震わせて「おちょくってるんですかっ? 思わせぶりならやめてください」と必死な様子で言い放つと、女の人は冷めた表情で「え、何のこと?」と、わざとらしく息を吐き、面倒くさそうに「真面目か」と言葉を投げつけた。


「せっかく医者だからって、こっちからアプローチしてやったのに」


 とも言った。


 逆に男の人を責めるような発言に、慌てて他の二人が「まあまあ」と場を収めようとするものの、隣のテーブルの緊張感がそのまま伝わってきて、私と鳴海君は顔を見合わせたまま、言葉を失ってしまう。


 ……な、何? とんでもない場面に出くわしてしまった。

 自分の運の悪さを恨む。


 そして、真っ赤な顔のままさらに食い下がる男の人が、そんな私に追い打ちをかけた。


「じゃあ、ぼくのこのときめきと、払ったカフェ代、弁償してもらえますかっ?」


 ……もう、何がなんだかよくわからなかった。


 優しいウッド調のインテリアに、壁の落ち着いたブルー色。秋の柔らかな光と調和して、店内はどこか温かい空気に包まれている。

 ここで、ふわりと立ち上るコーヒーの香りの力を借りるはずだった。

 でも、作戦は失敗だ。

 がっかりと、思わずため息が出た。


「……もう、水族館、行こっか……」


 ぼそっとつぶやくと、鳴海君は小さく頷き、「ここから早く脱出したほうがよさそうだな」と、苦笑してから立ち上がった。



 駅の外は、ひんやりと澄んだ空気が肺に染みわたった。

 品川駅の広々としたコンコースには、夕暮れのほのかな赤みが差し込み、休日の人混みを包み込むように柔らかな陰影が広がっていた。

 楽しそうな家族連れやカップルたちの姿。どこからともなく聞こえてくる、笑い声や会話が微笑ましく感じる。


 さっきのことは忘れて、気持ちを切り替えよう──そう思っていたとき、ふと視線を向けた先に見覚えのある顔に気づく。


 ——鈴木さん⁈


 突然の遭遇に胸が飛び跳ねた。

 え、何でここに?


 鈴木さんもこちらに気づいて、表情が固まっている。

 軽く挨拶は交わしたものの、彼女の視線は鳴海君に注がれたままで、私に向けられる冷たい感情が、その目元からはっきりと伝わってきた。

 一瞬の沈黙がとても長く感じる。周囲のざわめきが次第に遠ざかり、鈴木さんと私、鳴海君の間だけが切り取られたように静まり返っていくようだった。


「じゃあ、また明日」


 何事もなかったかのように、そう口にした鈴木さんは、軽く頭を下げてから足早にその場を離れようとした。

 張り詰めていた空気が緩んだ。ああ……また一難去った、という思いが私の胸に広がる。

 ……でも、その平穏は瞬く間に壊されることになる。


「危ないっ!」


 鈴木さんの鋭い声が響き、反射的に振り向くと、鳴海君が小さな女の子の側へ駆け寄るところだった。

 その直後、自転車が女の子のすぐ脇を勢いよくすり抜けていく。間一髪で鳴海君が抱き寄せていなければ、どうなっていたかわからない。

 女の子は驚いたまま鳴海君を見上げ、その腕の中で無事だと気づいた私は、胸をなでおろした。


 そのあとは、お母さんに手を引かれながら去っていく女の子を見届けた。


 でも……何かがおかしい。


 視線を移すと鳴海君がわずかに顔をしかめていることに気づく。心配で、私はそっと声をかけた。


「鳴海君、大丈夫?」


 微笑んではいるけれど、こめかみを押さえる仕草には、ほんの少し苦しげな影が見え隠れしている。


「わるい……ちょっと頭が痛いかも」


 その言葉を聞いて、私の心配はますます強くなるけど、ただ「大丈夫?」と問いかけることしかできない。

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