第18話

「……こんにちは」


 鈴木さんが声をかけてきた。挨拶の言葉が硬い。


「こ、こんにちは……」


 その鋭い眼差しに、思わず怯んでしまう。

 それに、友達にこんな堅苦しい挨拶をするなんて普段ないから、言葉が口の中でもぞもぞと絡まって出てこない。

 隣にいた山田さんは、きょとんとした顔でこちらを見ていたけれど、鈴木さんは特に気にする様子もなく、そのまま二人で歩き出した。

 ただ、そのぎこちない表情が、心の中までは隠しきれていなかった。


 さすがに私でも、わかる。

 ——鈴木さんは、鳴海君のことを想っている。


 そんなことを考えながら、鳴海君の方にもう一度視線を向けた、そのとき。

 突然、背後から声が聞こえた。


「よっ! 野々原っ!」


 驚いて振り返ると、滝本君が立っていた。

 私の表情と、鳴海君の姿を交互に確認するなり、滝本君の口元が、にやりと歪む。


「ん? 何、もしかしてLINE交換? 俺が頼んでやろっか?」

「い、いや、いいって!」


 必死に首を振って否定した。

 滝本君のいつもの鋭さに驚きつつ、なんとか冷静を装ったけれど、顔が熱くなるのはどうしても抑えられなかった。


 ……な、何? この察しのよさは。


 でも、「そっか……」と滝本君はわざとらしく肩をすくめ、「ふーん」と何かを企んでいるような笑みを浮かべると、そのまま意味深な言葉を残していくのである。


「ま、でも良いこと教えてやるよ」



 滝本君が去っていった後、教室に戻ることにした。

 ドアを開けると、すでに何人かのクラスメイトが戻ってきていた。教室の一角では、結衣の周りに沙織んや他の女バスのメンバーが集まっていて、何か楽しそうに話をしている。


「ねえ、次の練習試合、皆んなで偵察に行かない?」


 沙織んの明るい声が教室に響き渡る。話題は、前に練習試合をした星ヶ丘学園のことだ。

 周りの女バスのメンバーたちもキャプテンの提案に、興味を引かれた様子で、一気に話が弾んでいく。

 私もその輪に加わると、自然と前回の試合のことが話題に上る。そう、あのとき、星ヶ丘学園は主力の三人がU18日本代表の練習参加で欠けていた。

 もし、全員揃っていたら——と考えれば、私たちが勝てたのは、実力差を覆す奇跡だったのかもしれない。

 十月下旬から始まるウィンターカップの予選まで、あと一カ月を切った。勝ち上がっていけば、おのずと星ヶ丘学園と戦うこととなる。

 もし今度本気の相手と対峙するとなれば……


「ビクトリアは、見ておきたいよね……?」


 沙織んが食べかけのパンを手に、心配そうに眉を寄せた。

 星ヶ丘学園には、ビクトリア・ジョーンズ選手という長身のフォワードがいる。日本に帰化した外国籍選手で、その高さとパワーは圧倒的だった。


「ビクトリアって、身長198センチだっけ?」


 別のチームメイトが訊くと、すかさず沙織んは頷く。


「そう。しかも手足が長いし、ゴール下のリバウンドも抜群。身長差のある、うちらはキツいよね……。しかも、星ヶ丘は三年生がほとんど残ってるからね」


 沈黙を破るように沙織んは続ける。


「……だからこそ、桃の3ポイントが鍵になるのよ」


 ちらっと沙織んと視線があった。


「桃が決めてくれたら、あの身長差を逆手に取ってゲームを進められるんだから」


 キャプテンの強い眼差しに、胸の奥がじわりと熱を帯びていくのを感じる。確かに、3ポイントを決められれば、相手の長身ディフェンスも崩れ、こちらに流れが来るかもしれない。


 ……それに、もしかしたら、そのプレーを見せれば鳴海君の記憶も。


 

 それぞれが教室へと戻って二人きりになった。ふと顔を上げると、結衣がじっとこちらを見つめていることに気づく。


「……わかってる?」


 突然の問いかけに、私は何を言っているのかわからず、戸惑いが顔に出てしまう。そんな私に真剣な眼差しを向け、結衣はゆっくりと話し始める。


「自分のためにも頑張るんだよ」


 力強いまっすぐな眼差しが、胸の奥に深く響いた。

 その瞬間、はっきりと思った。

 結衣のバスケに向き合うその真剣な姿勢こそが、私の好きなところなんだと。

 それと、鳴海君のことを応援してくれるのも、私がきちんとバスケに集中できるようにと願ってのことなのだということも。



 その日の練習は、コーチやキャプテンを中心に、いつも以上に熱がこもっていった。



 そして、次の日の部活が終わったあとに、私はあるところへと向かうのである。



 ——な、なんだこれは……?


 滝本の祖母が営むパン屋でバイトを始めていた。


 最初は、ぎこちない接客に、とんでもなく心配されていたが、地域の優しい老夫婦や常連さんたちに支えられ、少しずつ慣れてきた俺は、友希さんに「見違えるように良くなったね」と褒められるようにまでになっていた。


 自分でも、人と話すのが意外と苦手ではないのかもしれない、食わず嫌いはいかんな、なんて思い始めていた頃だった。


 なのに何だってんだ⁈ ……この光景は?


 閉店間際の静かな店内には、穏やかな時間が流れていたはずだった。

 なのに、そこに現れたのは野々原と鈴木だった。


 二人が険悪な空気を漂わせながら店内をうろうろしているのが目に入って、俺はバイトに集中できない。

 鈴木の冷ややかな視線が野々原に向けられ、まるで猫に怯えたネズミのように野々原は視線を避け、店内をちょろちょろと動き回る。

 そんな奇妙な空気が漂う中、何故か俺の方が落ち着かなくなってくる。

 先にレジへ来たのは鈴木だった。無言のまま会計を済ませると、さっとその場を離れる。次に野々原の番だったが、トレイの上に積まれたパンの山に、俺の目は細くなる。


 ——こ、こんなにパンを買ってどうするつもりなんだろう。

 家族で食べるにしても、多すぎるんじゃないか。


 そんな疑問が浮かびつつも、ひとまず値段を伝える。

 野々原はおもむろに財布を取り出したが、すぐに顔を曇らせ、中をじっと見つめた。


「あ、あれ……足りないっ」


 小さく漏れた声に、思わず肩の力が抜ける。やっぱりな、と内心呆れたものの、大パニックに陥っている様子を見ていると、放っておくわけにもいかない。

 仕方なく見かねた俺は、店の奥で作業している友希さんにそっと視線を送った。


 すると、すぐにそれを察したのか、軽く頷き、「いいわよ、サービスにしてあげるっ」と友希さんの声が届いた。

 静かな店内に響くその声は、妙に温かい響きを帯びていた。


「どうせ余りは廃棄する分だし」


 そう言いながら、友希さんは手際よくパンを袋詰めしていく。


「それに、純くんのこともよろしくね!」


 突然名前を出されて、野々原は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに照れたように頷いた。


 隣で無言のまま立ち尽くしていた鈴木にも目をやると、友希さんは同じように笑顔で、「そっちの彼女もね!」と言って、袋詰めしたパンを手渡す。



 店を出ると、なぜか野々原と鈴木が入り口で待っていた。

 二人は並んで立っているものの、会話もなく、ただ無言のままだ。


 訳がわからず、その様子をしばらく見ていたが、いつまでもこうしているわけにもいかない。


 仕方なく、「とりあえず駅まで行きますか……」と口にすると、自然と三人で歩き出した。


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